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Please say yes:忘れられた想い出

*** 「ただいま……」  いろいろあり過ぎて、精神崩壊スイッチが作動していた――何も考えたくない、何もする気になれない。  とぼとぼキッチンに足を運び、冷蔵庫から麦茶を出してドバドバ注ぐ。 「兄ちゃんお帰り、今日は早かったんだね」  歳は1歳違いだけど学年は2つ下の弟、透馬がダイニングテーブルで俺を不思議そうに見つめた。 「ああ。真っ直ぐ帰って来たから」  素っ気なく答えてるのに、透馬はなぜかウキウキしながら言葉を続ける。 「今日俺の中学校に、王子様が来た」 「ブッ!」  透馬の言葉に飲みかけの麦茶を、口から勢いよく吹き出してしまった。  「ゲッ、兄ちゃん汚い……」 「お前が、変なことを言うからだろ。まったく!」  ぶつくさ言いながら、ふきんでキッチンを綺麗に拭いた。 「だって兄ちゃんの高校に、留学生として来てるんだろ? 知ってるかと思ってさ」 「ま、まあな……」  その王子様に求愛されてることを知ったら、どうなるのやら。透馬としてもこの事実に、恐れ慄くだろう。 「王子様の正装、超カッコ良かったよ。日本語もペラペラなんだね。女子がすっごい大騒ぎしてた」  なぜか興奮気味に話す透馬に、俺は呆れた視線を投げかけた。そのミーハーぶりは、ウチのクラスの女子と変わらないと思われる。 「王子様のひとりやふたり、どおってことないだろ。珍しいな、お前が男のことをそんな風に話すなんて」 「まるで童話かディズニーの話から出てきた、王子様みたいなんだよ。日本人じゃあの格好、出来ないよなぁって」 「学校にいる時は制服着てるから、どんなのか全然想像つかないんだけど」  普通の格好してても漂う気品とか威厳は、まんま王子様だけどな。 「あの顔で付き合って下さいって言ったら、どんなコでもイチコロなんだろうなぁ」 「透馬……誰か好きなコいるのか?」  ぼんやり呟いた言葉に敏感に反応したら、慌てて右手を高速ワイパーのごとく、左右に振りまくる。 「ちちっ、違うって。例え話だよ、兄ちゃん」  慌てふためく透馬に苦笑いをした。実際王子様は俺に向かって、あの顔でヒモになれと言ってのけたのだ。 「ただいまぁ。あら、ふたりとも帰ってたの? 早いのね」  買い物から帰宅した母親が、キッチンに入って来た。 「何だか賑やかだったけど、何の話してたの?」 「兄ちゃんの学校にいる留学生の王子様が、俺の中学校に来たって話だよ」  「まぁ、外国の方と縁があるのね」  笑いながら買ってきた物を、手早く冷蔵庫に仕舞う母親。 「縁って、何?」   俺が麦茶を口にしながら訊ねると、弟が呆れた声で答えてくれた。 「兄ちゃんにとっては、運のない海外旅行だったからさ。覚えていたくないのかもしれない……」 「海外旅行? いつの話だよ」 「兄ちゃんが小2で、俺が幼稚園のときだよ。母ちゃんが町内の福引で、グアム旅行当てたんだ」   まったく記憶がない。俺の中では、キレイさっぱりに消去されている模様。人生初の海外旅行だっていうのに。 「思い出はきちんと、記録に撮ってますからね。見てご覧なさい」  母親は冷蔵庫の整理が終わらせてから、本棚からアルバムを引っ張り出してきた。ダイニングテーブルに置かれたそれを見るため、3人で顔を突き合わせる。 「俺、ここの海で初めて、泳げるようになったんだ。兄ちゃんは沖に流されて、大騒ぎになったんだよな」 「そうそう。他にも迷子になって、大騒ぎしたのよね」  アルバムを捲るたび、俺の失態話に花を咲かせるふたり。 「自分が迷子になってるのに、和馬ってば迷子になって泣いてる男のコのそばにいて、励ましてたのよ」 「母ちゃん、あれは励ましじゃないだろ。英会話教室に一緒に習いに行ってたっていうのに、あの英語はあり得ない」 「きっと必死だったからよ。何とかして泣き止やまそうと、思わず出てしまった言葉だったのかもね」  母親は苦笑いを浮かべ、透馬はニヤニヤしながら俺の顔を見る。 「迷子になっていたコ、長い金髪に青い瞳の可愛い女のコみたいな感じだったから、見間違えたのかもしれん」   「俺、何を言ったんだよ? ホントに記憶がないんだけど」  長い金髪に青い瞳――もしかすると、もしかする。ひとりだけその条件にぴったりと合致する人間が、現在進行形で傍にいる。 「I love you. 大丈夫、僕がついてるから。泣かないで。I need you……。だったような?」  母親が小首を傾げながら、答えてくれた。告げられたセリフの衝撃に、俺は飲んでた麦茶を口から滝のように戻しそうになり、目を白黒させながら慌てて飲み込んだ。 「兄ちゃん頑張って、そのコを慰めていたよ。頭を撫でたり、ぎゅっと抱きしめたりして」 「そ、そうか……」 「その後に執事らしき人がすっ飛んできて、ものすごくお礼を言われたの」 「へぇ……」 「しっかりとしたお礼をしたいからって、住所と名前を聞かれてね。後日、高級ホテルの宿泊券が送られてきたの。――これこれ」  なぜかしっかり宿泊券がアルバムに、ペタリと貼られていた。 「兄ちゃん、晩御飯のステーキをたらふく食べまくって、腹痛起こしたんだよな」  そこでも失態やってるのかよ、俺……ん?  アルバムに貼られた宿泊券の隣に、小さなメモ用紙が、ちょこんと貼られていた。 「これは?」 「ああ、それね。宿泊券と一緒に同封されてたの。泣いてたあのコ、日本語の勉強したんでしょうね」  それには、たどたどしいひらがなが数文字、書いてあった。 『ありがとう。だいすきです。あんでぃ』 「そのアンディってコ、今頃、何をしてるんだろうなぁ?」 「良いトコのお坊ちゃんって感じだったから、会社経営なんてしてるかもね。社交界デビューとか」  ふたりが盛り上がってる最中、俺はメモ用紙にそっと触れた。  ――はじまりなんて、すっかり忘れていた。俺は覚えちゃいないのに、アイツは……  なぜだか青い瞳に涙をためた、今日のアンディを思い出す。 「昔から……泣き虫なトコ、変わらないんだな」  あの涙で俺の心が、きゅっと締めつけられた理由。アンディの泣き顔を昔、見たことがあったからだったのか。  ふたりからもたらされた思い出を自分の中でも思い出すべく、目を閉じて考えてみる。十年前のあの日、キレイな青い目で俺を見つめながら言ったんだ。確か―― 『Really?』  俺は意味が分らないクセに、しっかりと答える。 『Yes! 僕がそばにいるよ、安心してね』  それからアンディは袖で涙を拭い、キラキラした笑顔で俺をぎゅっと抱きしめてきたんだ。  あの言葉でアンディの機嫌が直ったっていうのも、正直謎である。どこからどうみても、日本男児な子供の俺が愛してるだの、必要としてるだの並べ立てるのは、不自然極まりないと思うから。  なぜアンディは、その言葉を真に受けてしまったのだろう?  精神崩壊スイッチが作動している今、何を考えても無意味だったので、あっさり諦めた。  明日はどんな顔して、アンディと対面すればいいんだろうな。非常に憂鬱である――

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