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第1話

【1.探究心は終わらない】  駅前ドーナツショップ・ミセスドでしばし担当と話し、彼が先に本社へ帰っていった。メモ代わりに持ち歩いているLOOX-Uを起動する。スマートフォンが急速に普及する中、ポケットPCなんて時代遅れだと友人知人果ては親類にまで言われる始末だが、タッチパネル入力の扱い辛さを思えばキーボードの文字入力は絶対に手放せない。だからといってスマホにコードを繋げて簡易キーボードをくっつけるなんて言語道断だ。携帯電話は通信を行うためにあるのだ、特殊な入力方法を取ることでバッテリーが底を尽きてしまっては元も子もないではないか。  何故ここまで文字入力にこだわっているかというと、自分――信原ゆずるが日々ワードプロセッサにお世話になりっぱなしの職業だからである。  あまり売れたためしのない推理小説を性懲りもなく書き続ける、推理作家……のつもりだ。未だフリーターを脱しきれていないと自分では思っているものの、ひとまず赤字にも大幅黒字にもならない程度のゆるい売り上げを繰り返しては毎日を過ごしている。  同人作家でいたほうが良かったのかもしれないな、と、うっかり商業デビューしてしまってから自分の適性の無さを思い知った。当然ながら書きたいものを書く、というだけでは、職業作家は務まらないのである。  次は恋愛小説を書いてみないか、と持ちかけられた。  前作の推理小説で、主要キャラクター内の恋愛関係を仄めかすような描写をしたのがまずかったに違いなく、今こうして頭を抱える羽目になってしまっているのだ。  恋愛小説なんて、これまで書いたこともなければ書こうとも思わない。それなりに実際の経験もなくはなかったが、論理と判断推理を根底に置く自分が惚れた腫れたを上手く立ち回れようはずもなく、全てにおいて恋人に愛想を尽かされてきた。決まって別れの言葉は「こんなに偏屈だとは思わなかったわ」で締めくくられる。  ラブストーリーと称して、コメディにでも持っていけばそのような恥ずかしい黒歴史もネタにできるかもしれない。そうと悟られないように少しずつコメディ要素を盛り込んでいって、最後は喜劇で終わらせれば……。 「……それじゃあ駄目だ」  尊敬する作家の好きなフレーズを思い起こして、頭を振る。これではただの逃げである。  何度このループを繰り返したか、効き過ぎた空調も相まって頭が重い。もう帰ろうかと席を立ったところで、かさりと紙が落ちる音がする。テーブルの足元に半分滑り込んでしまったそれは、コピー用紙のようだった。 「なんだこれ」  自分の手荷物にこのようなものはなかった。落ちたモーションと角度からして、椅子の背に挟まっていたのだろう。無論、腰掛ける前もコピー用紙など突き刺さってはいなかった。  誰かの忘れ物だろうか、と思うより先に、好奇心が沸いてくる。折りたたまれてA5サイズになっているA4用紙は、中心に何かが印字してあった。小説家として最も重視すべき野次馬精神に則って、目を通す。  ふへっ、と、自分でも良く分からない笑い声が洩れた。  ひたすら趣味を追いたいという欲望のもと、大学院まで進んで暗号学を専攻したゆずるは、暗号を作るのも解くのも好きでたまらない。誰にも解かせはしないという意気込みで、平文へ幾重にもエンクリプトを重ねて意味不明な文字列にしていく時の興奮。作成者によってエンクリプションされた秘密を、単字レベルでじわじわと解きほぐしていく時の快感。どちらも一度味わえばもう戻れない、麻薬のようなものである。正直なところ、異性や物欲などよりもよっぽどゆずるの頭を占めているのだ。  拾ったコピー用紙に印刷されていたのは意味を成さない文字列で、目に入った瞬間ぞくりと肌が泡立った。長文で法則性がなく、単純な頻度分析もあてにならなさげなこれは、実は換字式暗号の特徴になっている。カエサル、違うな、シーザーの類であることは間違いない……待てよ、ひょっとしてキーフレーズを用いた……、  試行錯誤は、帰宅してから約三時間続いた。  そうして解読した暗号は、これまた意味を成さない単語の集まりだった。その中で地名らしきものを見つけ、そこへ行けば何か新しく掴めるだろうかと目を輝かせる。 「セントラルプロ……二丁目のオフィスビルか」  このマンションから徒歩五分の駅で鈍行に乗れば、十分たらずで赴くことが出来る。リビングに掛けた時計を確認し、短針が九を指しているのを見て口の端を吊り上げた。次の電車に乗るのに丁度良い頃合だ。  電車の中はがらんとして、人もまばらだった。時間帯と路線を思えば当然と言えば当然かと降車口付近に腰掛け、目的の駅に着くまで先の暗号を思い出していた。  暗号解読の過程であぶりだされたのはカタカナ英語複数と、それに対応するのであろうアルファベット数個。そして現在の目的地名、オフィスビル・セントラルプロ。あの暗号が書かれたコピー用紙は、ここの関係者が置いていったものなのだろうかとあれこれ思案しつつ、そのほかのカタカナ英語の関連性に疑問を覚える。  そういえば、携帯と財布だけでここまで来てしまった。はたしてこのまま入ってもいいのだろうかと思いはしたが、人通りの少なくなったセントラルプロの前でひとり立ち止まっていては不審者である。灯りが弱く少々暗めな中にお邪魔してエレベーターの案内に目を通し、どの階に行くべきかを考える。  ……人のいなさそうな屋上から下へ見回ってみるか。  誰とすれ違おうが関係者か否かなど判別できないだろうし、そもそも別に後ろ暗い行為ではないのだが、それでも何の用もない自分がここにオフィスを借りている企業の関係者と鉢合わせになるのは少し気まずい。勇み足で来ておきながら、いまさらになって屋上でちょっと考えよう、なんて腰が引けてしまっているのだった。  それにしても、あの暗号は何を示していたものなのだろうか。もう一度確認しようかとジーンズのポケットを探るが、見当たらない。部屋に忘れてきてしまったらしい。まあ、帰ってからでもいいか。  たあん、と到着のベルとともにドアが開く。誰もいないビルの屋上は夜の街明かりを静かに見下ろしていて……なんてことはなく、夏場にも関わらずとにかく風の音がごうごう煩かった。ビル風もこれほど酷いと突風とさえ言えそうにない。寒い、痛い。こんなところに何があるでもなし、と、早速好奇心だけでここへ赴いたことを後悔し始める。ああ、せめてシャツとジーンズだけではなく、上着を持ってきていれば。後悔は先に立たないから後で悔やむと書くのだ。馬鹿め。  もう帰ろうかな、と踵を返しかけたところで、裏側から話し声が聞こえてきた。風向きが変わったことでこちらへ音が流れてきたのだろう。誰かいるな、と何の気なしに近付いていく。屋上の裏側はフェンスが低く、一部張替えのためか取り外されているようだ。だが、取り外された跡がうっすらとしか残っていないことを考えると、張替え工事は中断されたまま二~三ヶ月保留になっているらしい。これは管理側の怠慢だな、と、フェンスの無い低いコンクリートに触れながら足を進める。  そのような些事に気を取られていたことがまずかった。ほんの数メートル先で会話をしていた二人のうちひとりが突然こちらへ襲い掛かってきたのだ。殴りかかってきた程度ならまだ対処のしようもあったが、相手は明らかに急場の武器ではないサバイバルナイフを所持していたのである。長物ではないため距離を詰めるわけにも、無論素手で受けるわけにもいかず、慌てて後退して……凸型のコンクリートに躓いて転んだ先は、地面が無かった。  やばい、と危機感を覚えるより先に、自分の間抜けさ加減に苦笑してしまった。オフィスビルの階数から咄嗟に高さを計算してみても、まず助からない重力加速度が加わりそうだ。彼らの正体という謎を明かさないままになってしまったのは心残りだが、仕方ない。  でも好奇心で死ぬなら、まあ悪くはないかな。一瞬あとには身を襲うであろう衝撃を予想してか、都合が良いことにゆっくりと薄れていく意識の中でゆずるは自主的に目を閉じた。人は探究心なくしては人たり得ない。  自分の生き方に不満なんて無かったが、敢えて願うなら……次の人生ではもうちょっと恋愛方面にも強くなりたいものである。 【2.恋愛小説は書き出せない】 「……ぐ」  途絶えていた意識が浮上するのを感じて、瞼に力を入れる。頭痛が酷い。目を開けて広がる真っ白な天井に、半身を起こした。腰も痛い。病院……にしてはここから見える手作りカーテンらしきものや柄物のブランケットに違和感がなくはないが、ゆずるはアスファルトの上でも血の飛散する路上でもなく、白いベッドの上にいた。どうやら、助かったらしい。 「さて、まずここがどこで、誰が運んできてくれたか、だが……」  呟いてみて、異様なまでに高い自分の声にぎょっとする。ちょっと待て。訂正だ、命拾いはしても無事とは言えないらしい。声が変わって聞こえたということは、脳か喉、または鼓膜に損傷があるのだろうか。  思わず自分の喉元に左手が触れる。そこでまた違和感を覚えた。ない。喉仏の突起が消えている。左手の感覚がおかしいのかと手に目を向けると、自分の左手より随分細く小さい指と狭い手のひらが見えた。指先にはきれいに切り揃えられた爪の表面で、薄いマニキュアが光沢を放っている。  よくよく見れば自分の服装もおかしい。捲れたブランケットの下から覗いた胸元は平面ではなく少々盛り上がっていて、あの夜着ていたシャツでもなければ患者服でもない。というか、この服には見覚えがある。そういえばこの部屋もどことなく記憶に残っているような、気が。……そして嫌な予感しかしない。  放心から絶望に打ちひしがれる寸前、かわいらしい手作りカーテンが開けられてこれまた甲高い声がその主とともに進入してきた。 「ゆず! 気がついたのね、よかった!」  半泣きで飛びついて来たのは、近隣高校の制服を身に纏った女子高生だった。そこで、このファンタジーな現状をようやく実感せざるを得なくなる。  ここは自分の母校でもある近隣高校、恐らく保健室のベッド。彼女らからすれば本来おっさんであるはずの自分は何故か女子高生の姿になっていて、ビルの屋上から転落したはずの体は少々腰に痛みがあるもののほぼ無傷。  ああ、夢だな、これは。 「ゆず、アタシよ、真理子。分かる?」  分かるもなにも、きみのことなんておじさん何ひとつ知りませんが。などと正直に言えば混乱を招くだけに違いなく、ゆずるは難しい顔をして沈黙を保った。もっとも、今混乱で叫び出したい気分なのは自分自身なのだが。 「ここは……?」 「保健室よ。ちょっと待ってね、今先生呼んでくるから!」  ゆず、と呼ばれたのが引っかかったが、自分の制服のネームプレートを見ると『大久保』と書いてある。このファンタジーに順応して考えてみるとすれば、自分は死んだか死に掛けたかしたことによって一人の女子高生の身体に入り込んでしまった、というところだろうか。これを現実として認めろというのは無理な話で、自分の見ている荒唐無稽な夢だと思うことにした。夢ならば、目覚めるまでこの奇妙な世界を楽しんでみてもいいだろう。中身が入れ替わるなんて使い古された設定だ、小説のネタにはなりそうにないが、夢の中で楽しむくらいならまあ悪くは無い。まずは設定の把握だ。  保健室にひとり残った男子学生をちらと見遣る。たった今保健室から駆け去った彼女が『大久保』の友人であることは判明したが、こいつは誰なのだろう。恋人か、兄弟か、幼馴染か、はたまた部活や塾を同じくするなどして他クラスメイトより一歩だけ近しい位置にいる程度の学生か。 「あ、覚えてるかな? 朝、俺が早めに登校してきたらさ、階段の近くで倒れてたんだよ。先生まだ来てなかったから、保健室の鍵こじ開けて、とりあえずそのベッドに放り込んで傷の消毒だけしといた」  こちらの視線を感じてか、彼が離れた位置の丸椅子に腰掛けたまま話し出した。第一発見者だったようだ。 「お前が……」 「うん。救急車呼ぶより先生が出勤してくるのが早いと思ったから」  保健室、すぐ隣りだったしね。続く男子生徒の話を聞きながら、彼のネームプレートを確認する。日暮、と書いてある。しかし名前が分かったところで、彼との関係の詳細な情報を入手しない限りはどう呼べば良いかも分からない。普通のクラスメイトで、当たり障りなく日暮、くらいに呼んで良いなら楽なのだが。 「擦り傷とか、全体的にたいした怪我は無かったけど、倒れてた場所が場所だったからひょっとして階段から落ちたんじゃないかと思って……」 「ん、ちょっと待てよ。鍵をこじ開けたって言ったが、どうやって?」  聞き流しかけていた疑問に立ち戻る。見たところ、保健室の扉に損傷の跡はなく、扉もレールから外れかけたようには見えない。普通、男子生徒が慌てて鍵の掛かった部屋を開けようとすれば、扉がレールから外れかけるか、鍵穴の損傷が目立つはずである。彼は言い難そうに口を開く。 「えっと……前、防犯対策の本を読んだことがあって」 「ほう」 「ピッキングの手口が書いてあって」 「まあ、あるだろうな」 「思い出しながらやってみたらできた」  話を聞く限りだと、どうやらピックガンの応用らしい。鍵穴から全てのピンに衝撃を与え、ピンが引いたその一瞬でシリンダーを回す、というもののようだ。 「ちなみに所要時間は?」 「十秒くらいかな」 「……反応に困る才能だな」 「……そ、それより、本当にどこも、なんともない?」 「ああ」 「俺が見つけた時既に体の傷は出血が止まっていたから、倒れたのは今朝じゃなくて夜か、昨日の放課後だよね?」 「……多分な」  思わずついて出てしまった多分、の言葉に引っかかったのだろう、彼がそれってどういう意味、と訊き返したと同時に、保健室の扉が音を立てて開いた。そこで会話は中断され、やってきた二人の女性――ひとりは真理子と名乗ったか、先ほどの『大久保』の友人である――に背を向けるように、彼は椅子を反対に座り直してそっぽを向いた。  それからしばしこれまでの流れと似たような、体調についての質疑応答を繰り返される。しかしこちらの意識回復を聞いて飛んできた養護教諭は今月行われる環境衛生検査の業者と話し合っている最中だったらしく、体調の如何によっては早退と病院での精密検査を勧めて、再び慌しく出て行ってしまった。こう言うと無責任のようだが、養護教諭を連れて来た友人自身が「それなら後はアタシに任せて」と胸を張ったところにも一因はあるのだろう。 「ああくそ、新規登場人物が来るたび同じ展開を繰り返すんじゃ流石に疲れるな……」  どうせ自分の夢だと好きに呟いていたら、花壇側の入り口に置かれた鉢植えを屋内に取り込んでいた真理子がそれを聞きつけて戻ってきた。 「ゆず、さっきから口調が勇ましくなってるけど、イシキショウガイとかじゃないよね? 病院で検査しなくて大丈夫?」 「げ……」  夢なら自分に都合のいい展開になるんじゃないのか。気まずくなったらシーンがぱっと切り替わって別の情景になったりしないのか。男のような言動の『大久保』を訝しんだ真理子が、こちらに詰め寄る。 「日暮も思うよね、ゆず変だよ」  話を振られ、先ほどまで会話を交していた彼が振り返り、何かを話そうとした。 「おかしなもんか。だいたいだな、ゆずじゃねえ、俺の名前はゆず……っ」  が、それに気付いたのは自分で声を荒らげた後だった。 「ゆず?」 「……悪い、じゃなかった、ごめんね。ちょっとまだ混乱してて」 「そうよね。しげティーにはアタシから上手く言っといたげるし、ゆずは午前中ここで休んじゃいな。お昼にまた来るから、そん時家帰るかどうか決めよ」  しげティー。前後の言葉から察するに、クラス担任あたりの教師だろうか。午前中の授業の担当教師かもしれない。おかしな愛称である。重本だか、重野だか、おおかたそんな苗字から来たのだろうとどうでもいい推測をつけながら、真理子の言葉に頷き返す。挙動の不審は目覚めたばかりだからという理由で納得してくれたようだ。 「日暮はどうする? 教室戻る?」 「ああ、俺サボりでココ来てっから」 「おっけ、じゃよろしくね。ゆずにちょっかい出したら吹部全員から乾されると思いなさいよ」  去り際の真理子の台詞から、彼女は吹奏楽部らしいことが判明した。話から推測するに、全員から乾されるというのは仲間意識の類によるものだろうから、きっと『大久保』も吹奏楽部に違いない。  親しげに語りかけてきていた友人が部屋を出て、扉を閉めるのをベッドに腰をおろしたまま微笑で見送った。昼休み、彼女が帰ってくるまでが自由時間だ。認めたくはないが、そこかしこに気になって仕方ない箇所が散在している今、こうやって一人で考えられる時間ができたのはありがたいことだ。 「……ねー、ゆず」  数秒無音となっていた保健室内で、突如響いた低音の声に肩を震わせた。しまった、こいつはまだ出て行っていない。  『大久保』の下の名前はゆずなのか、今ここには居ない真理子もまたそのように呼びかけていたことを思うとどうにもむず痒い。日暮が初めて椅子から腰を上げ、こちらに歩み寄ってきた。  ふと、日暮と『大久保』の関係について邪推する。単なるクラスメイトや第一発見者ではなく、下の名で呼び合う親しい仲だったのだろうか。恋人か幼馴染説がいよいよ有力になってきた。幼馴染ならまだいい、恋人だったならどうしようか。肩を組むとか、そういったスキンシップの域を出ないものならなんてことはない、ただの高校生相手にあれこれ難しく考える必要はないだろう。しかしそれ以上はちょっと想像したくない。今でこそ女子高生の身体だが、中身はしっかり成人男性なのだ。頼む幼馴染あたりであってくれ、と願いながら、相手が下の名で呼ぶのなら当然こちらも相手を名前で呼ばなければならないのではと思い至る。ネームプレートだけでは下の名前は分からない。何か気取られずに上手く情報を得られる手段はないかと思索し、 「ゆずってばー」 「あ、……ごめんね、考え事してたの。なに?」  女の子、自分は女の子だ、と念頭に努めて返す。だが、日暮はその声に眉根を寄せた。 「ゆず、なんか喋り方さっきと変わってない?」 「ああああれは、そのつい」 「さっきの口調のが面白かったよ」 「面白いってお前……」  確かに先ほどは、世界観がいくらでも自分の都合に合わせてくれる夢だと気楽に普段の話し方で会話してしまっていた。彼の前では今更かもしれないな、と大きく息を吐いた。 「……分かったよ。作るのは止める」 「うん、そーしてくれ」  満足げに彼がにっかと笑った。確かに、別人で居続けることなど出来そうにもない。自分は男で、高校時代なんかとっくの昔、記憶の中の生活で、この夢を楽しむとはいっても女子高生を楽しみたいわけではないのだ。設定どおりの女の子を文字に書き起こすのと、実際に演じるのとでは天と地ほどの差が生まれる。どんな状況であれ、自分は信原ゆずるでしかないのだから。 「でね、あのさ……」  にこにこ笑顔で日暮が顔を近付け、提案する。 「一緒にサボんね?」 「……昼を待たず、か?」 「そうそう。モクドにでも昼食いに行こーぜ」 「いいけど、俺は早退であってサボりじゃねえな」 「遊び歩くんなら同じだろ」  女口調を不満と言い、男言葉が面白いからそっちで話せなどと注文をつけてくる辺り、どうやらこいつが馴れ馴れしいだけであって恋仲というわけではなさそうだ――空気に甘やかさの欠片もない――と判断を下したばかりだったゆずるは、二つ返事でその誘いに乗った。幼馴染か、それに順ずる親友程度が妥当な距離感なのだろう。 「そうだ、ついでに行きたいところがあるんだけど」  付け加えるように、これが夢であるという確証を欲しいがための「ついで」を口にした。  男子五十音順ののち、女子五十音順で下駄箱が決められているというのは昔から変わっていなかった。やはり、大久保ゆずの左列は男子の五十音後半である。ちゃっかり下駄箱のネームシールを横目で確認し、日暮の下の名前が「あきら」であるという情報を手に入れた。これで自然に名前が呼べる。 「なんだっけ、セントラルプロ? 先に行っちゃおうか」 「ああ。悪いな、あきら」 「いいよ、通り道だし……って、え?」 「あきら? どうした」 「……あ、いや、うん、いいんだ」  あきらの反応がどうもおかしかったが、目的地が近いとなると気にしてもいられない。横断歩道の向かいから遠巻きに見た昨夜のオフィスビルには、警察官とパンダ車が屯していた。 「あれ……は……」  黒と白の特徴的な警察車両を見て、絶句する。自分の死体でも転がってたら笑えねえな、なぞと考えながら赴いた先に、その通り現場検証をする鑑識官があちこち動き回っていたのだから仕方ない。こちらの様子を横目で見てか、あきらが現場まで飛び出していった。 「あっ、おい……」  あっという間に向こう側へ渡った彼が、周辺の警官に手当たり次第話しかけている。はじめ邪険に扱われていたのが、次第に会話も長く続くようになっていき――笑顔で手を振って、こちら側へ戻ってきた。 「何の事件なのか、気になってたんだろ?」 「……ああ」  やはり、事情を聞いてきてくれたらしかった。これから彼の口で語られる事件の内容を、本当に今聞いてもいいものなのかと戸惑いが生まれる。しかし、ゆずるの都合など分かろうはずもないあきらは、何の躊躇いも無く続けた。 「昨夜二十一時三十二分、建設会社のトラックの荷台に男性が落ちてきたんだって。職業は小説家だったかな、意識不明の重体で、ここのビルの屋上……多分そっから落ちたんだろうけど、フェンスがない部分があって、それで他殺の線より事故って方向で捜査が進んでるみたい」 「そう、か……」 「よかったね」 「え、お前……?」 「人が死んでいないのが嬉しいのか、それともその小説家を知ってるのか、俺には分かんないけど。ゆず、俺が戻ってくるまで表情抜けてたから。ほっとした? そうだ、何か、目的を見つけたって感じ」 「目的、か」  これは夢だ、と思い込むには、少々苦しい展開になってきてしまった。いくら自分の夢でも、ここまで詳細な設定を作り出せるはずがない。そもそも、これが夢ならば落下した時間なんて自分には分からないはずなのだ。事実は小説よりなんとやら……どうやら本当に、女子高生大久保ゆずの身体に信原ゆずるの意識が入り込んでしまったらしい。 「これじゃこのビル入れないよな。用事は諦めて、昼飯行こ」 「……そうだな」  落ちて死に掛けた挙句、戻れるかどうかもよく分からない女子高生の身体になってしまったのだ。もしこれが現実なら――自分が落下する原因を作った、あの二人を探し出して目的を暴いてやらねば気が済まない。いや、足踏み外したのは自分なんだし実際事故も同然なんだけどな。  それから改めて向かったファストフード店でお互い向かい合って食事をとりながら、ゆずるはこれからの計画を練っていた。昨晩のあれは、やってきた部外者に対し突然刃物を向けるような輩だ、どう考えても一般人ではない。軽犯罪者か指名手配犯か、はたまた後ろ暗い組合の一員か……いずれにせよ、こちらが過剰防衛になってしまわないぎりぎりのところで復讐を成すには、犯罪を暴くのが一番手っ取り早いだろう。そのためにはまず、彼らの身元について何らかの情報を得る必要があるが……、 「ゆーずー、聞いてるー?」 「え、あ、悪い。聞いてなかった」 「ったく、ゆず今日そればっかだよ」  目の前でシェイクを啜っていた男子高校生が、そう漏らして唇を尖らせた。高校生ってこんなに子供っぽい仕草をするものだったかな、と思わず自分の記憶を辿ってみたくなったが、それでまた彼に「聞いてない」と拗ねられるのも面倒だ。 「で、何だよ」 「このあとどうする? ゆず、他に行くトコあるなら付き合うけど」  倒れたばっかだから、早めに帰る? それなら送ろうか。こちらの目を覗きこむように表情を窺おうとするあきらは、やはり記憶をさかのぼるまでもなく年相応とは言いがたい。 「来てくれるんなら、甘えようかな」  そうだ、こいつにはあの変な特技があったのだ。どうせなら自宅に戻って、あの暗号も持ってこよう、と算段をつけ、にっこり笑みを見せる。 「いいよ、どこ行くの?」  お人好しが祟ったな、と内心ゆずるがほくそ笑んでいることなど、彼は知りもしないのだろう。  信原ゆずるのアパートへ彼を招待し、その素晴らしきピッキング技術を頼りに鍵を開けさせることに成功した。自宅の鍵の在り処は、今でも出かけた際のジーンズのポケットで、どこの病院だか知らないが、ゆずる本体の搬送先の病院に忠実にお供してしまっているのだから仕方が無い。これって不法侵入じゃないの、俺知らないよ、と顔を顰めたあきらを、親戚の家だから問題ない許可はメールで取ってある、と一息にねじ伏せて部屋へ入る。親戚ではなく本人で、メールで許可を取る必要など全くないのだが、これを説明するのは流石に骨が折れると口を噤んだ。  出かける際に落としてしまったのか、目的の暗号が書かれたコピー用紙はテーブルからずり落ちてしまっていた。見つけたそれを広げながら、そういえばとあきらを振り返る。 「あきら、Timpって何のことだか分かるか?」 「Timp……ゆずなら真っ先にアレを連想すると思ったんだけど」 「アレって何だよ」 「ティンパニだよ、確か吹部でパーカッションだったんだろ。こないだのコンクールで辞めちまって、皆惜しがってたぜ」 「ティンパニ……そうか、それなら他の単語も……」 「って、ゆずー。そろそろ何のためにここに来たのか教えてくれたっていいじゃん」  本日何度目かの思考の海への船出を、あきらがまた引き止めた。 「そうだな……知るからには協力してもらうが」 「ここまでやったら、中途半端に放り出される方が気持ち悪いって」 「それもそうか」  なんだかんだで世話になっていることだし、と、入れ替わりの現状を伏せた大まかな説明をする。昨晩セントラルプロで怪しい男二人を見かけたこと、それが先の事故と関係がある(と考えている)こと、そして拾った暗号が怪しいということなどだ。 「解いたやつ、これ?」  ゆずるの手にある折り目のついたA4用紙に、あきらが目を通す。 「そう。この暗号については、平文はこれで間違いないはずだ」 「ひ、ひらぶん?」 「単純に言えば、暗号の答えのことだ。正確にはエンクリプションされる前の意味が通る文章だな」 「えんくり……」 「encryptionだ、暗号化だよ、辞書引け、若者ならググれ」 「ググれって、同い年じゃんゆずぅ……」  情けない声を出しながらも落ち込んだ様子の無いあきらを尻目に、暗号の紙をポケットにしまってその場を立ち上がった。 「戻るぞ」 「え、戻るってどこへ」 「学校だ」 「ええ、俺フケるつもりで出てきたのに」 「嫌なら一人で帰れ。俺は音楽準備室で確かめたいことがあるからな」 「なんで?」 「この周辺に高校なんて、あそこしかないだろう。もちろん文化会館や楽器の貸し出しを行っている業者にも可能性はあるが、まず調べるなら吹奏楽部だ。暗号の答えはどれも楽器の名前みたいだからな」 「……確かに、そうだね」  ゆず一人じゃ行かせたくないから、やっぱ俺もついてく。そう続けて彼もまた立ち上がる。 「おいおい、そりゃどういう意味だ」 「どういうって、そのままだけど」  そのままなんて言われると、ますます見当がつかなくなってしまう。協力しろと言った舌の根の乾かぬうちに嫌なら一人で帰れなどとのたまう人間を、呆れこそすれ心配するという心情はいったいどんな仏心から来ているのだろうか。  首を傾げるゆずるを見て、彼がこれまで見せなかったような傷みを口の端に染み込ませて苦笑した。 「好きだから、だよ」 「……はあ、そりゃ、どうも」  突然の愛の告白だったが、当初最悪のケースを想定して身構えていただけに然程動揺は覚えない。 「驚かないんだ。……俺に、興味ない? 付き合って欲しいって言ったら、困るかな」 「んなこと俺に言われてもなあ……」  さて、どうしたもんか。この身体の持ち主である少女……大久保ゆずのためにも、こちらの都合で勝手に目の前の男の申し出をふいにするのはよろしくない。ひょっとすると大久保ゆずは、この男に密かな感情を抱いていたかもしれないのだ。お互いの身体が元に戻ってから、彼女に決断を下させるべきだろう。  となると、ゆずの姿の信原ゆずるの彼への答えはただひとつ。 「もう少し待ってもらって、いいか」  必然的に、不用意な発言も本気でNGだ。嫌われても――どうしても仕草が男くさくなりがちな現状でこれ以上は無いとは思うが、好かれすぎてもまずいのだから。  音楽準備室に向かうと、昼の約束をすっぽかしてしまった真理子と鉢合わせた。とっくに部活の始まる時間で、彼女が吹奏楽部だという推測が正しかったなら、ここで顔を合わせることになるのはこれといって意外なことでもなかったのだ。約束通り昼休みに様子を見に来てくれたであろう彼女にどう言い訳をしようかと考えていると、真理子はあきらの頭を楽譜でばしばしと叩き付け始めた。彼女の口ぶりからして、体調の優れない女の子を無理矢理彼が連れ回したという構図が出来上がっているようだった。言い訳の思いつかないゆずるは、その勘違いを敢えて正さず彼一人に罪を被ってもらうことにする。次は無いと思いなさいよ、と彼女に睨まれ、あきらは半強制的に準備室の外へ追いやられてしまった。確かに誘いをかけたのは彼だが、それからあちこち連れ回したのはむしろ自分の方で、少々申し訳なく思わなくもない。さらばあきら良い奴だった、お前の犠牲は忘れない。  まあ、まずは当初の目的を――とティンパニの置かれた方へ歩み寄り、ざっと周囲を確認する。特に変わった点は無い。 「それ、やっぱ扱いに困るよねえ」  比較的新しいひとつをしげしげと眺めていたのが真理子にも気付かれてしまった。彼女の言葉が続くのを待つと、真理子は何の疑いもなく詳細を語り出してくれた。  前回のコンクールで本校吹奏楽部が金賞を取った際に、吹奏楽部OBの東山という人物が、お祝いとして学校所蔵のものより数段高価なものを寄贈してきたのだそうだ。挙げられていく楽器の種類に、内心諸手をあげるほどに喜んだ。寄贈された楽器の種類は、暗号に書かれていたものと全て一致するのだ。そうすると、やはりそちらの方が音も質も良いものだから部活では専ら寄贈されたものを使うようになり、古く痛みかけていたものや音が正確でなくなってしまっていたものは自然と準備室に置き去りにされているらしい。だからと言って使わなければ手入れをする機会も増えず、状態は悪化する一方だから悩ましいのだと真理子が話の終わりに肩を竦めた。 「そういえば、ゆず、何かの病気で部活辞めたんだっけ。体育会系より運動量も無い吹部でも辞めなきゃいけないくらいって、学校来ても平気なの?」 「え、そう……なの?」 「やー、アタシに聞き返さないでよお」  女性と言うのは年齢に関わらず、内容が流水のごとく変わっていく雑談を好む生き物だ。それを改めて認識しつつ、不本意ながら現在の宿主である『大久保ゆず』の健康状態についての話題に面食らってしまう。目覚めて未だ一日と経っていないが、ここまで特に体調に異常を感じたことなどなかった。何らかの言い難い事情があり、退部の尤もらしい理由をでっちあげているのか。それとも、本当に激しい運動がご法度な健康状態なのか。後者ならば、そうとも知らず今日一日駆けずり回って身体を酷使してゴメンナサイ、と思わずにいられない。いやはや無知とは罪である。 「アタシら大親友じゃない。これでもゆずのこと心配してるんだからネ! ……今日は日暮のせいで散々だったわね。校門まで送ったげるから、もう、タクシー呼んで帰りなよ」 「え、いや、それは……」 「はいはい、続きは今日ぶっ倒れてた原因がちゃんと判明してからね」 「あっ、ちょっと……っ!」  まだ準備室には調べたいことが! なんて抗議するわけにもいかず、ゆずるは大久保ゆずの大親友にずるずると引き摺られて音楽準備室を後にした。  校門で、部活に戻る真理子を見送った後、どうやって彼女に再び遭遇せずここから音楽準備室まで辿り着けるかを考えていると、突然背後から腕を掴まれ、校門の脇に引き込まれた。踏鞴を踏んで、振り返ろうとすると口を塞がれる。 「ゆーず、こっち」  あきら、お前帰ったんじゃなかったのか。そんな軽口を叩こうにも、彼の右手で押さえられた口からはもごもごとした音しか出ない。 「準備室に戻りたいんだろ? 深町は強引だから、きっと準備室ろくに調べられもしないまま引き摺られてきたんじゃないかと思って」  両手で彼の手を口から外し、驚かされたことへの腹いせに思い切り彼の足を踏み付けた。女子高生の脚力ではそうダメージにはならない。 「いッて!」 「ほお、そりゃありがたいな、裏道でも用意してくれるのかならさっさと案内しろ」 「……それは無理だけど。部活が終わるまで時間潰して、それから行けばいいんじゃないかな」 「どこで時間潰すつもりだよ」 「……お、屋上とか、いかがでしょう……」  その矛盾した提案にゆずるは、どういうことだと眉を顰めた。お茶目にウインクひとつして、あきらが「準備してくるからゆずはちょっとここで待っててくれよ」と校舎へ走り去ってしまい詳細を訊きそびれる。何の準備が必要だっていうんだ……、と憮然とした表情で彼を待つ。  程なくしてあきらが戻ってくる。そして連れられるまま隣の見覚えが無いビルへ案内され、非常階段を使って最上階まで登った。  校舎のすぐ隣にここ数年で建築されたらしいこの雑居ビル・ルートピアの屋上は、学校の屋上とほぼ同じ高さだった。 「すげーだろ、こっから飛び越えられんだー」 「……間隔三十センチってトコか。こんな立地、よく審査通ったな」 「女の子は普通こんなことしないからねえ。知らなくて当然だよ」  どうやら彼の言う準備とは、学校側のフェンス戸を開けておくことを指していたらしかった。いくら歩幅以下の近さとはいえ、高いフェンスに阻まれていては少々危険だ。 「てーか、こんな風に屋上に来れるんならそのまま降りて準備室まで行けるじゃねえか」 「いや、今日は吹奏楽部、確かパーカッションパートが屋内での練習だから無理だよ」 「ちっ……終了時刻は?」 「だいたい最後のミーティング含めて、19時から20時だと思うけど。覚えてない?」 「あ、ああ、そうだったな……そう……」  慌てて頷いて、校舎に見える時計で時刻を確認する。最短でもあと一時間は待たなきゃならないようだ。先に向こうへ渡った彼からどうぞと手を差し出されたが、要らんと跳ね除け自力で跳ぶ。ちょっとくらい良いカッコさせてよ、とぼやくあきらをしっかり無視し、越えた真横のフェンスに目を向ける。面白いものを発見した。 「見ろよあきら、テグスの跡だ」 「テグスって、釣りとかの?」 「ああ。フェンスに対し内側に結び目の擦れた形跡があるから、引くのは向こう側からみたいだな。フェンスさえ無ければ、子供でさえ容易に飛び越えられるほどの距離しか空いていないこの二つの建物は誰でも行き来可能だ」  清掃用のフェンスの開閉部分にテグスを引っ掛け、一旦それを下へくぐらせて一番上に編むように持って行き、引いた際の力が水平ではなく垂直方向に働くように調整し、テグスのもう一端を持って向こう側へ飛び移る。あとはそれを引いて、開閉部分を閉じ、さらに強く引いて取っ手のロックを下向きに掛ければ誰にも気付かれない、という手口だ。テグスの輪の繋ぎ目を粘着テープなどで作っていれば、最後に斜めに強く引くだけで輪は解け、回収も容易である。 「つまりそれって、この学校にあのビルから出入りしている部外者がいる……ってこと?」 「そーゆーこった。それもまだ新しいぜ、近い位置に数箇所付いていることを考えりゃ、一度や二度じゃねえな」 「おお! なんかゆず、探偵みたいだな」  空想の探偵を動かすお仕事してますから、とは言わない。書けるからといって必ずしもそれを実際に体現できるわけではないのだ。自分でもここまで言い切ってただの清掃や垂れ幕の跡だったりしたら全速力で穴に埋まる勢いだなと内心冷や汗ものだったりする。 「ゆずはひょっとして、警察とか探偵とか、そういう仕事目指してるの?」  なんか言動がすごく名探偵! って感じだよ、と笑われて、そんな好奇心が実害に直結しそうな職業はまっぴらだなと両手を振った。 「俺は解きほぐすのと同じだけ、いや、それ以上に、何かを作るのが好きなんだ。……好きだった」  好きだった、と思う。このくらいの年頃の、昔の自分も。いつからクリエイターになると信じて疑わず、プロフェッショナルにひたすら焦がれるようになっただろうか。追いかけたい、追いつきたい人物がいたような気がする。それも、理由すらも、今ではおぼろげだ。その理由を見失ってしまった今でも、やはり作ることが好きなのに変わりは無い。一寸先すら見えない迷宮へ迷い込んでも己の心音だけは耳に響くように、ただそれだけは自分の中で、ずっと変わらないのだ。理由も憧れも見失い、好きでたまらないという想いが先行し、今となってはプロでもアマでも構わない。ただ、どう生きたって、作る人であり続けたい。 「あきら、お前は?」  懐古に沈みかけて首を振り、また、何気なく聞き返す。 「俺は……たくさんやったよ。一般的なスポーツから剣道、アーチェリー、射撃、そこから機械整備、歌もダンスも演劇も、目に付くもの片っ端から手え出してきた」 「お前、すげえな」  統一感のありそうで無い経歴に、どう答えるべきかと戸惑いが隠せない。全然すごくなんてないよと彼が苦笑する。 「やりたいことが見つからなくて、迷走してただけなんだ。それでもこれだっていうのにはなかなか巡りあえなくて」  カッコイイと思えたものを見たままなぞって、やっぱり違うと首を傾げる。そうやって多芸は無芸を地で行く人生だったのだとあきらは肩を竦めた。いろんなこと、できなくてもいいから、何かひとつだけの天才になってみたかった。そうして彼は空を仰ぐ。 「意外。お前楽しそうじゃねえか」 「うん、好きなもの、見つけたから」 「何を、……って聞いてもいいか?」 「ゆずと一緒にいること」  さらりと言われて一瞬反応が遅れる。ねえねえ今の台詞どうだった? ときめいた? なんぞと笑顔で続けられては溜息しか出ない。 「この恋愛脳め……悪かったな、今は珍獣で。そのうちマトモな女子に戻るさ」 「そーゆーんじゃないのに……」  スルーしたことを不満に思ったか、あきらの両頬がぷくりと膨れる。そのわざとらしい仕草がどうにも笑えてきて、彼の肩に軽く触れた。 「まあなんだ、その、がんばれよ」 「好きな相手本人からがんばれなんて言われてもさァ」 「天才とは、苦痛を受け止める能力を持つ者を指すんだ」 「は?」  突如放たれた格言めいた言葉に、あきらが目を丸くする。サー・アーサー・コナン・ドイルの、俺が最も好きなフレーズだ、と補足して彼の頭を撫でてやる。ぼさぼさの髪が、さらにぼさぼさになっていく。 「恋愛そのものをがんばれって言ってんじゃない。追う側の人間が、追いかける苦痛から逃げてしまったら、本末転倒だろう。なあ?」  面白い髪質の手触りに笑いが助長される。その手の下で、あきらがぼそぼそと言葉を紡ぎ出した。 「……よく、分かんねえけど。俺は、お前を好きでいていいんだ?」 「うっ……あ、ああ。そうだな……」 「追いかけるよ。完全に拒否されちゃうまで、ゆずのこと」  頭に乗せていたはずの右手はいつの間にか掴まれ、気付けば嬉しくないが真摯な瞳で見つめられている。いやちょっと待て。この雰囲気この流れでのそれ以上の接近は流石にさぶいぼが。 「キス、してもいい?」  いや断固拒否だ。それはおっさんの精神衛生上、非常に困る。見た目が女だからってお前真実を知っても同じこと言えるか。無理だろ。まず手を離せ。ぞわぞわと背中を悪寒が走り始めたところで、ふと思い出す。 「なあ」 「……なに?」  有効と思われる手口を思いついたゆずるは、下から近付いてくるその顎に膝を食らわせて手を振りほどき、鼻を鳴らした。甘い。スポーツ万能なのは分かったが、喧嘩じゃまだまだ隙が多いな。女にこんな反撃を受けると思っていなかっただけかもしれないが。 「吹部に乾されるってーのは具体的に何されるんだろうな? 実に好奇心を擽られるよな。なあ? あ、き、ら、君」 「アッうそです、冗談、冗談だから……! ネ、ごめんって、だから深町さんには言わないで、お願い、お願い、お願―い!」 「素直で結構」  血相を変えて謝り倒すあきらの雰囲気は甘ったるいそれから普段のヘタレへ変わっていて、息をついて再び時計に目を遣る。なんとなしに傾れ込んだ雑談だったが、一時間はあっという間に過ぎていった。 【3.恋はそこから落ちてこない】  セカンドバッグを持ったジャージの生徒たちが、運動部とは違うタイミングでぞろぞろと校門を出ていく様子から部活の終了を見た二人は、顔を見合わせて手を叩いた。潜伏から一時間半、ようやく音楽準備室から人の目が消えたのだ。  そして好奇心に胸を高鳴らせながらも人の気配を探りつつ、ゆっくりと階段を降りていく。準備室への角を曲がって、死角へ滑り込んだ。 「やっぱ鍵掛かってんな。よろしく頼むぜ、あきら」 「いや、ここは確か……」  気軽に鍵開けを頼むと、あきらは首を振って辺りを探り始めた。 「何だよ、たかが移動教室の扉に防犯装置なんてついてるわけねえだろ」 「そうじゃなくて……ほら、この窓」 「お、不用心だな。これじゃ入ってくれと言わんばかりじゃねえの」 「ゆず、なんだか悪人に見えるんだけど」  なるほど彼は、この準備室が窓に鍵を掛けていないと見て扉の鍵を抉じ開けなかったのだろう。夕暮れの薄暗い校舎内、日が沈む前にさっさと検分するぞと彼を窓へ引っ張り込もうとして――違和感に気付く。 「おい、この窓いつも悪ガキが行き来してるのか?」 「まさかぁ。音楽準備室なんて忍び込む機会ないし、溜まり場にするにも毎度部活に使われてるんじゃ不向きだよ。この時間帯からなら、逢い引きにはちょうど良いかもしれないけどね」 「よせ鬱陶しい」  またもおっさん――相手はクラスメイトの女子だと思っているのだろうが――に色目を使い始めるあきらを左手で払って、窓の桟をもう一度確認する。 「……おい、やっぱり鍵開けろ」 「え、そっから入ればいいじゃん」  ああ、スカートが気になって上れないんなら手伝ってあげるよ、と鼻の下を伸ばすアホに、違えよと蹴りを入れる。 「誰かが侵入した痕跡がある。俺らが上から消すわけにもいかねえし、普通に鍵開けて入るぞ」 「……いいけど、大丈夫なのかな」 「何がだ」 「いや、何でも。何かあったらゆずは俺が守るからね!」 「へーへー、頼もしいこって」  保健室の鍵と同じ形状をしているのだから、解錠に時間はかからない。がらりとあっさり引き戸を開けて、二人は中へと進んでいった。 「楽器の裏、楽器の中、楽器の足、全部調べろ。今は使われていないらしい古いやつを重点的にだ。何かを隠しているなら普段使われるようなものには手を加えられないはずだからな!」  一度に指示を出しても、あきらは聞き返すことなく頷いて奥へと進んでいく。深町真理子の話によると、新しい楽器が手に入ったことにより以前からガタの来ていた古い楽器は使われなくなったとのことだ。使われていない楽器は、必然的に出し入れの都合上、奥へと追いやられる。  マリンバの中を覗いた所で縁に見えたOPP袋に、ビンゴと指を鳴らした。 「あったぜ、あきら」 「俺も見っけた。なんかビニールに詰まった……こ、小麦粉? みたいな?」  ティンパニとペダルの裏をひっくり返していたあきらもまた、見つけたものに疑問を抱いた顔で返す。大当たりだ。ポケットから携帯を出そうとして、そういえば今の自分は大久保ゆずなのだと思い出す。大久保ゆずは携帯どこに入れてんだろ。仕方なく自分で連絡を入れるのは諦めて、彼に投げることにする。 「あきら、携帯持ってるか」 「うん、バッテリーも残ってるよ」 「っしゃ、警察呼べ。居残りしてた学校でこんなお薬発見しましたってな」 「えっ? ま、麻薬なのこれ」 「おう、十中八九間違いねえよ。麻薬捜査官立ち会いのもとで資料として実物見せてもらったことがあるからな」 「ねえゆずってば何者……」  謎を明らかにした高揚感でうっかり口を滑らせてしまった。まあ気にするなと苦しい話題転換をして、まず一一〇番通報をさせた。携帯電話の画面の光が彼の顔を照らし、いつの間にか夜が訪れていたことを知る。通話を終え、あきらが隣に腰を下ろした。 「あと十分くらいだってさ」 「おー」 「ここで待ってる?」 「そうだな……」 「ねえゆず聞いてる?」 「あー」 「……」  麻薬と闇と楽器に囲まれた空間で、警察の到着を待つ。こうなってくるといよいよ、変なタイミングで楽器を寄贈した東山という人物が臭ってくる。無論この学校の、教員や事務員を含めた職員全員も関係者という意味では怪しくはあるが……。 「次調べるんなら東山だな」 「へ?」  あきらは、まだ終わってねえの、とでも言いたげだ。無論終わるわけがない。学校への侵入者、突然の楽器の寄贈、暗号に合わせていくつも出てくる麻薬入り打楽器。いくら素人の浅知恵とはいえここまで揃えば繋がりを推測するだろう。 「あの、全部警察に言って、あと調べてもらえば……」 「アホか。それじゃ俺が面白くない。一応曲がりなりにも健全な現役高校生のお前はこの辺で手を引いてだな、後は俺が」 「ちょっと引っ掛かるけど、ゆずが危ないことするんじゃ俺だけ手を引くなんてできないよ。ゆずは俺が守るって言ったじゃん」 「お前な、今時「俺が守ってやるから!」は口説き文句にゃ流行んねえぞ。この平和なご時世でそんなファンタジー口にされてもよ」 「この平和なご時世にわざわざ重箱の隅つつくみたいに危ないことへ首突っ込みに行こうとしてるのはどこの誰だよ」 「てめ……言うようになったな」 「いつまでも負けてる俺じゃねーもん」  べ、と舌を出した彼がちょうど、雲間から顔を出した月明かりに照らされて見えた。  警察の到着後、行動派には見えない外見の大久保ゆずではなく通報したあきら本人の手柄ということにさせて、ゆずる自身は無言を貫いた。こんな中で心細かっただろうだの、頼もしい彼氏でよかったねだの声を掛けられても俯いたままであきらの背に隠れる。彼は彼で、彼女は帰してあげたほうがよかったのではないかとか、この時間まで女の子を付き合わせるなんてとか口々に言われていたが自業自得ということにしておく。お前は帰れと言ったのを聞かずに着いてきたのはあっちだ。まあ、彼がいたことで助かった場面もあるといえばそうなのだが。  あきらは名前と学年を聞かれ、後日改めて表彰されるとかいう話にもなっていたらしかった。しかし学内で見つかったことで、これから詳細な調査が始まるだろう。内部の人間によるものか、それとも外部からか。そこはあきらが、窓に靴の跡があると言ってミスディレクション――ミスではないはずだが、意識誘導には違いない――させる。革靴の跡は、共通の靴を履いているここの職員でも生徒でもないものだ。そんな証拠になりそうなものを隠滅しないとは、最後にここへ来た侵入者はよほど抜けていたか焦っていたか。  屋上の話まで洩らそうとした彼の足を夕方と同じく踏み潰し、二度目の襲撃に言葉を飲み込んで腰を折り曲げるあきらを大久保ゆずがフォローする。同じ場所を二度はさすがに痛いらしい。 「あきらくん、さっき、麻薬にびっくりした私を支えてくれて、その時に私の代わりに転んじゃったんです。今日はもう、帰ってもいいですか?」 「ああ、そうだな。また後日話を聞かせてもらうことになるが、よろしく頼むよ」 「はい。警察の皆さんもお疲れさまです」  自宅まで送ると申し出る警察関係者を笑顔で断って、校門で彼らから離れる。 「で、お前は家まで送ってくれるんだよな?」 「え、ああ、それはいいけど……どしたの?」  貼り付けた笑みのままあきらの腕を掴んだが、疑問に思われたようだ。自分の――大久保ゆずの――自宅が分からないとも言えず、ついと視線を逸らす。 「あー、もしかして夜道が怖いとか? ちゃんと女の子らしいとこもあるんだね」 「……」  時刻は未だ二十一時台。やつよりふたまわりも年齢差のあるおっさんからすればそれは不本意極まりない解釈だったが、勝手に納得してくれたなら敢えてその勘違いを解く理由もない。 「そういうことにしといていいから、さっさと行こうぜ」 「はいはーい」  上機嫌になったあきらに舌打ちしながらも、彼の隣に歩き出す。歩幅を合わせてくれている。気遣いは無用だと声を大にして言いたいところだが、彼の大久保ゆずへの恋心に関しては極力ノータッチで通すつもりなのだ。余計な口は挟めない。  ひとつ息を吐いて、思考を切り替える。 「あきら、さっきも言ったが、次は東山だ」 「調べるの? なんで?」 「秘密の匂いがぷんぷんすんだよ、警察が押収したところを見る限りじゃ、麻薬の隠してあった楽器は暗号に書いてあるものと全て一致した。そしてもちろん、新しく寄贈された楽器の種類ともな」

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