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 更衣を済ませ、アザミは喫茶『淫花廓』を出た。  外はもう暗い。  靴音を立てながら、路地を歩いた。  黒いパンプスが硬質な音を立てる。   靴だけでなく、アザミの纏う衣類はすべて女物だ。  というのも、この長い髪と顔つきのせいで、普通のメンズの衣類はあまり似合わないからであった。    頭の上で結わえた髪が、歩く度にゆるやかに揺れる。    アザミを女と勘違いした男からナンパをされたり、付きまとわれたりは日常茶飯事で、たまにそれがストーカーに発展する。  面倒事を避けるには、髪を切ってしまえばいいのだが、客からの評判が良いので、切るに切れないのだった。  中途半端に長さを変えたところで意味はないので、切るならばそれこそばっさりとショートにしなければならない。  しかしイメチェンをして指名が減っては困る。  アザミは身寄りがない天涯孤独の人間なので、稼ぎの良いこの仕事を失うわけにはいかないのだ。  けれど最近は、そういう面倒事も、減っている。  コツコツ、と歩調をゆるめることなく、アザミは歩いた。  淫花廓は閑静な裏通りに位置するが、少し行けば繁華街がある。  ちょうど夕飯時で、大通りの喧騒がこちらまで聞こえてきていた。  その中に、ふと、怒声が混じる。  アザミは足元に落としていた視線を上げ、左右を見渡した。  手前の路地裏で、二人の男が対峙していた。  その内の片方の顔に、見覚えがある。  アザミは小首を傾げ、ああ、と得心した。  知っているはずだ。あれは、加藤だ。  今日、アザミで童貞を卒業した、製薬会社の研究員の男だ。 「おまえが俺を出し抜いたんだっ」  加藤の胸倉を掴んでいる男が、そう怒鳴った。 「あの新薬は俺の手柄のはずだろっ」 「な、なにを言ってるんだっ。あれは俺がっ」  あわあわと加藤が少し気弱な声で言い返している。  なるほど、とアザミは大まかな状況を把握した。    新薬の開発の立役者となった加藤を労うために、会長は彼を淫花廓に連れてきたと言っていた。  同じ研究室の者に、加藤は逆恨みをされ、絡まれているのだ。  アザミの受けた印象では、加藤はひとの研究を盗むような小器用さは持ち合わせていない。むしろ真っ直ぐで、夢中になるとそのことばかりに没頭する人間と見た。  一度肌を合わせれば、どんな性格かは大体わかるのだ。  アザミは小さな吐息を落とすと、コツコツと靴音を立てて、男たちへと近づいて行った。  べつに正義感を覚えたわけではない。  素通りするよりも、彼らに巻き込まれた方がになると思ったからだった。 「加藤さん、こんばんは」  アザミは男たちの緊迫した雰囲気にそぐわない、ゆったりとした話し方で加藤へ声を掛けた。  ぎりぎりと胸倉を締めあげられていた加藤は、一瞬、ぽかんとした表情になり、口をあんぐりと開けてアザミを見た。 「あ、アザミ、さん?」 「ふふ……先ほどは、店でどうも。なにか、揉め事ですか?」  微笑みながらそう問いかけ、アザミは視線を隣の男へと流した。  男も、呆気に取られたようにアザミを見ている。  その目が、険しく歪んで。  加藤をドンと突き飛ばした男が、不意にアザミの、頭の上で結んだ髪を無造作に掴んで引っ張った。 「痛っ……」  アザミはよろめいて、男の胸にぶつかる。    左手でアザミの髪を掴む男は、アザミを背後から抱きしめるような体勢で右腕を回してきた。  その手には、ナイフが握られている。 「あ、あ、アザミさんっ」  加藤が慌てふためいてどもった。 「おまえの女か」  男が低く問いかける。 「ち、ち、ちがっ」  これまで荒事とは無縁に生きてきたのだろう。ナイフを見てすっかり腰が引けてしまった加藤が、ぶるぶると物凄い勢いで首を横に振った。 「そ、そのひとは、か、か、関係ないっ」  加藤は必死にそう主張してくれたが、なぜだろう、こういう場面ではそれが嘘をついているように聞こえてしまうのは。  アザミは真実、加藤とはなんの関係もなかったし、加藤もそのように言っているのだが、男はそれを端から信じてはおらず、彼の中でアザミは加藤の女であると確定したようだった。  男が喉奥で引き攣った笑いを漏らし、 「こ、この女を傷つけたくなかったら、おまえの研究を俺に渡せっ」  と、実にアンフェアな要求を突き付けた。  だが、アザミの喉元で光っているナイフを持つ手が震えている。  きっとのこの男も、刃物をひとに向けた経験などないのだろう。    加藤が冷静であれば、それが男のブラフだとすぐに気付いたはずだ。けれど加藤もテンパっている。テンパり過ぎて膝がガクガクしている。  アザミはこの三文芝居に早くも飽きてしまい、目だけを動かし、周囲を見た。  ここは表通りから少し奥まった場所で、この路地に入って来ようとするひとは居ない。    アザミはふぅとため息を落とした。  明らかにアザミを刺す気のない男相手では、やはりか……。 「ねぇ」  アザミは顎を仰のけたまま、軽く頭を振った。  男が髪を掴んでいるせいで、頭皮が引き攣れて痛い。  ずっと反らしている首も疲れてきた。 「痛いから、そろそろ離してくれるかい?」    アザミがそう言うと、男の目が丸くなった。  ナイフを突きつけられて怯えもしないアザミを、毒気を抜かれたように見つめて……。    唐突に、激昂した。 「くそっ、バカにしやがって!」  吐き捨てた男が、アザミの髪を乱暴に引いた。  首筋からナイフが離れる。  その刃先が向かった先は、アザミの髪だ。    男に引っ張られて、ピンと伸びた、アザミの長い髪が。  ざくり、と。    切られる……。  あ、とアザミが声にならぬ音を、発するその刹那の間に。  黒い塊が、猛然と突っ込んできた。  気付けば男の体が吹っ飛んでいた。  髪に掛かるちからが急になくなって、アザミは反動でよろめき、アスファルトの地面に倒れ込んだ。 「アザミさんっ」  加藤がすぐに駆け寄ってきて、アザミの肩を抱き起してくれる。  しかしアザミの視線は黒い塊へと固定されたままだ。  無様に地面に転がった男に、馬乗りになった背は、広く逞しく……。  ブラックスーツに身を包んだその巨躯の男は、淫花廓の、あの護衛の男であった。  アザミの唇が、知らず笑みの形にほころぶ。  やはりこの男であったか、と。  アザミは喉奥で笑った。    ここ最近、アザミの周囲でストーカーやらナンパやらの『面倒事』が激減したのは、やはりこの男の仕業だった。  淫花廓から家までの道程も、ずっと、誰かがついて来ている気配を感じていた。    肌に絡みついてくる視線が……店で、客との情交の間に感じる視線とよく似ていて……護衛の男ではないかと、思っていた。  この男のものならいいな、と、思っていた。  ふふっ、と笑い声が漏れた。  加藤がぎょっとしたようにアザミを見てくるが、気にならなかった。  ゴッ、と肉を殴打する音が響く。  あまり殴ると、過剰防衛になってしまうだろう。 「もういいよ」  アザミは男の背へとそう声を投げた。  振り上げたこぶしが、ぴたりと止まった。 「こっちへ戻っておいで」     黒服の肩が、ふーふーと大きく上下している。  べつに息が上がったわけではないだろう。  怒りを抑えているのだ。  アザミを傷つけた男に対する、怒りを。 「おいで」  アザミはもう一度、男を呼んだ。  男が深呼吸の後、ようやくゆらりと動いた。  立ち上がり、アザミを振り向いたその、男らしく整った顔には。まだぎらぎらとした怒りの名残があって。  眼差しのあまりの鋭さに、アザミの腰がぞくりと震えた。  黒服の男が、よく躾けられた猟犬のようにアザミの元へと走り寄って来て、地面に膝をついた。 「大丈夫ですか」  低い声で問いつつ、男の視線がアザミの上を這う。怪我がないかを確認しているのだ。  そして、ついでのような動きで、アザミの肩に乗っていた加藤の手を睨んだ。    ビクっと怯えた加藤が、そろそろとアザミから離れる。  その開いたスペースに、逞しい腕が回り込んできて、男がアザミの体を恭しく抱き上げた。 「どこも怪我なんてしてないよ」 「……髪を切られました」 「少しだけだ。それに……切られたところで、痛みもない」 「いいえ」  きっぱりと、男が首を振った。 「いいえ」  否定の言葉を繰り返され、アザミは喉を鳴らして笑ってしまう。  がっしりとしたその首に腕を回して、手の甲で男の頬をするりと撫でたアザミは、甘い声で囁いた。      「おまえの方が、痛そうな顔をするんじゃないよ」  ふふ……と吐息の音で微笑むと、生真面目な男が「すみません」と謝った。    アザミを腕に抱いたまま歩き出した男の肩越しに、加藤がポカンとこちらを見上げているのが見えた。  アザミは小心者の研究者へと、助言を放り投げた。 「警察を呼んで、処理してもらうといいよ」  加藤はへたり込んだままで、頷きもしない。聞こえただろうか?    けれどアザミの意識から、加藤の存在はすぐに消えてしまう。    体重を預けている腕も、もたれかかった胸板も、男のすべては逞しく、揺らぎなく、そして、温かくて……。    アザミはうっとりと目を閉じて、大人しく男の腕で運ばれたのだった。         

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