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エピローグ

 大きな体を窮屈そうに屈めて、男がちまちまとアザミの爪にマニキュアを塗っている。  手が終わると、次は足だ。  アザミが差し出した白い足を、恭しく硬い太ももの上に乗せて。  男の手が慎重に慎重に動いている。  あの日……この男と初めて抱き合ったあの日以降、マニキュアを塗るのがすっかりこの男の役目になってしまった。   「できました」  男らしくも低い声が、ぼそりとそう告げてくる。  アザミはふふっと笑って、赤い爪先を確認した。  ムラもなくきれいに塗れている。  満足げに頷いたアザミの踵の下に、手を入れて。  男がアザミの足を軽く持ち上げた。    ふー、と男の吐く息が、足先に降りかかる。  ふー、ふー、と塗ったばかりのマニキュアを、息を吹きかけて乾かしてくるその動作に、アザミは笑いを噛み殺した。  男を揶揄うつもりで、ネイルはそうやって乾かすものだと嘘を教えたのに、生真面目で朴訥な護衛はそれを真に受けて、毎回律義に息を吹きかけて塗料を乾かそうとするのだった。 「ふ、ふふっ。くすぐったいよ」 「すみません」  こらえきれずに笑いを漏らしたアザミへと、男が訥々と謝ってくる。  それでも、ふーふーとする動作をやめない男のつむじの辺りを、アザミはひっそりと見つめた。    男に抱かれた後、アザミは男の名前を聞いた。  多分、キャストでそれを知っているのは、アザミだけだろう。  そのことに、優越感を覚える。  キャストと護衛は個人的な付き合いをしてはならない、という店の規定(ルール)があるので、アザミはうっかりその名を口にしないよう、仕事中は気を付けていた。  けれどバレるのも時間の問題だと思う。  こうして控室に男を連れ込み、マニキュアを塗るのを手伝わせている段で、この男がアザミのお気に入りなのだとオーナーにはきっとバレバレだろう。      アザミは、男の黒く短い髪を見ながら、じわりと目を細めた。  いつ切り出そうか、と考える。    いつ、この男に切り出そうか。  ここでの仕事を辞めて、おまえだけのものになってもいいよ、と。  いつ、どのタイミングで告げようか。  男は驚くだろうか。喜ぶだろうか。  アザミを……独り占めしたいと、思ってくれるだろうか……。  アザミの方から、愛の言葉を口にするのは怖くて。  まだ一度も、男にそれを言えていないのだけれど。  男のくれたあたたかな言葉は、アザミの中のなにかを、確かに変えたのだと思う。    愛してます、と。  アザミを抱く度にそう言ってくれる、この男が。  これまでひとりで生きていた、アザミの。  空っぽのこころの中を、埋めてくれたのだと、思う。  男が不意に、顔を上げた。 「……乾いたと、思います」  アザミの足を、やさしくてのひらに乗せたまま。  そう言って、(まなじり)をやわらかく下げて、男が笑うから。  その微笑に、アザミの胸の内が、甘く苦しく締め付けられた。 「キスしてもいいよ」  気付けばそう、口走っていた。  キスをしてほしい、とは言えないから。  自分から男を乞うのは、やはり少し怖いから。  そんな、強気な物言いをして、アザミは男の反応を窺った。  男の目が、一瞬だけ丸くなり。  それから、厚めの唇が、近付いて……。  まるで、この世でもっとも高貴なものに触れるかのような、仕草で。  男が、アザミの白い足の甲へと、口づけを落とした。  唇へのキスのつもりで言ったのに、まさか足に口づけられるとは思わず、アザミは驚いて僅かに身じろいだ。  けれど、男のてのひらの熱と、唇の熱さが、心地良くて……。  やめろ、とは言わずに。黙ったままで、アザミは忠誠を誓うようなそのキスを、受け入れたのだった。  コンコンコン。  不意に、軽やかなノックの音とともに控室の扉が開かれた。 「アザミさん。ご予約のお客様が……うわっ」  ひょい、と顔を覗かせたアオキが、二人の体勢に仰天して悲鳴を上げた。  アザミがちらと視線を向けると、ドアが急いで閉じられるところであった。  アザミはふふっと笑みをこぼすと、男の手から足を引き戻し、そのまま床の上のハイヒールへと突っ込んだ。 「時間切れだね。おまえがもう少し早くネイルを塗れるようになったら、キスをする時間も取れるのにね」  男の頑丈そうな顎先を、するり、と指で撫でて、アザミは揶揄うようにそう言った。  すると男が、やはり生真面目な口調で、 「精進します」  と堅い返事をしたから……アザミの笑いが止まらなくなってしまう。  くすくすと肩を揺すりながら、アザミは赤い爪先で男を招いた。  巨躯の男が上体を少し屈めて、アザミへと顔を寄せる。  その黒いネクタイを掴んで、ぐいと引き寄せ。  アザミは伸びあがって、男の唇へとキスをした。 「続きはまた夜だ。良い子で仕事をしておいで」    アザミが囁くと、男の鋭い目に欲望が灯った。  離れてゆくアザミの唇を追って、男が深い口づけをしようとしてくる。  アザミは男らしく整った顔の前にてのひらを割り込ませ、男の唇を塞いだ。 「ふふ……。夜までおあずけだよ」  男を流し見て、アザミが蠱惑的な微笑を浮べると、男の喉がごくりと上下するのがわかった。  男がアザミを求めている。  その事実が、アザミの肌を熱く火照らせる。    男の双眸に見え隠れする欲望に煽られたアザミが、キスぐらいはいいか……と、唇をゆるそうとしたそのとき。  再び、扉がノックされた。 「あ、アザミさん。申し訳ありません。お客様が……」  困り果てた、というようなアオキの声が、ドアの向こうから聞こえてくる。  本当にタイムリミットだ。  アザミは肩を竦めると、男の逞しい胸板を押して、体を離した。 「行こうか」  黒いスーツの男にそう声をかけると、「はい」と短い言葉が返って来る。    ハイヒールの足を動かして、アザミは控室を出た。  そこでは気まずそうな表情のアオキが、視線をうろうろと彷徨わせて頭を下げてきた。  そうすると、短すぎるスカートの丈から、彼の綺麗な形のヒップが覗く。客にも評判のいい、アオキの桃尻だ。  アザミが、ちら、と横目で隣の男を窺うと、男はアオキの尻には特段の興味を示しておらず、そのことにアザミの機嫌は上を向いた。  この男が熱い視線を送って来るのはアザミに対してだけだ、という自負が、アザミの中に甘く満ちてゆく。  頭を下げるアオキの前を通り過ぎる途中、アザミはアオキへとそっと顔を寄せ、囁いた。 「おまえと紅鳶(べにとび)のこと、黙っててあげてるんだから、おまえも誰にも言うんじゃないよ」 「えっ?」  アオキの目が丸くなり、唖然としたようにアザミへと向けられる。  そのアオキの綺麗な顔に、艶然と微笑み返して。    アザミはコツコツとヒールの音を立てながら、淫花廓のホールへと向かった。  すぐ背後には、黒服の男を従えて……。      ~喫茶淫花廓・閉幕~     

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