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 だから結局、すべての始まりは、あの真四角の広場だった、ということになる。  十七になった祝いに、とアロガの従兄がつれて行ってくれたのは、ビドン(でたらめ)という、名前からイカれた島だった。そこにはかつて芸術家崩ればかりが集まって住みついたという小汚い街があり、金さえ出せば何でも手に入るのだと――七つ上の従兄は、訪れる前から楽しそうに話をしてくれたものだ。  変わった煙草や酒、或いはもう少々刺激的な摂取物。軍の支給品や改造拳銃のたぐい。高名な画家の作品や著名人の愛用物。珍しい品。貴重な品。或いは人間――丸ごとだろうと、部位毎だろうと、用途に合わせて。ただしそれは、男に限られる。  ビドンは女人禁制らしい。理由は従兄も知らなかった。小型船で三十分も海を駆ければ本土なのだし、女を買いたければそちらで充分賄える、と、そういうことなのかもしれない。だが、観光客にとってはそれで良くても、島の住人にとってはどうなのだろう。女遊びも結婚もできないのでは、流石に不満が出そうな気がするが――しかし初めからそう決まっているのだという。  船着き場から通りを挟んですぐ目に入ったのは、近代的なファサードを持つ路面店の数々だ。毒気のある誘い文句や、悪趣味なディスプレイに視線を奪われる。古びた手術道具。ホルマリン漬けの眼球。骸骨の置き物。『新鮮ゴキブリ有』の張り紙。隣国の政治家を諷刺する好色なパンフレット。多種多様な張形。最初はアロガも驚いたが、段々と見慣れてくるにつけて、こんなものか、という気持ちになってきた。なるほど、ここはホラーとエロスの遊園地なわけだ。OK。  遊び人の従兄の前では、アロガは純真(うぶ)な学生の仮面を封印していた。外套のポケットに両手を突っ込んで、白い息を吐きながら、一人前に辛辣な口をきく。 「思ったより、たいしたことがないというか。くだらない。まるで低級映画のノリじゃないか?」 「そっちの店見てみろ、アロガ。アレの薬だって。おやじさんに買ってってやんな」 「狼の睾丸? 牙のある弟が生まれたらどうするんだよ」 「コウモリの粉末ってのもあるぜ」  仰々しい店構えの割に、他愛ない悪ふざけ止まりの品揃えを見て歩き、その後、従兄推薦の蝋人形館に入った。過去、実際に使われていたという触れ込みの拷問器具と、血を流し苦悶の表情を浮かべる蝋人形の組み合わせには多少肝が冷えたが、同伴者がいる手前、平気な素振りでやり過ごす。  しかし、元の成り立ちはどうあれ、随分観光地化されているらしい。商店街をうろついているのは、芸術家や無法者ではなく、気軽な中流市民だ。ひとり、或いは複数人の彼らは、酒場や賭博場、画廊、ダンスホールと、それぞれの目的地へ吸い込まれていく。  皆、島の住人、ないしは常連なのだろうか。迷いのない足取りが、アロガには不思議でもあり、羨ましくもあった。彼らには欲しいものがあるのだ。この、どこか幼稚な歓楽の島で。  ビドンへ連れて来てもらったこと自体は、アロガに満足感をもたらしたが、しかし同時に彼は気付いてしまった。  別にこんなところに来てまで、手に入れたいものなどないのだと。  その気になればマリファナ程度、学友経由で手に入る。爵位を持つ家に生まれたアロガには、物にしろ機会にしろ、不足していると感じるものは何もなかった。かと言って、人生に倦み、自棄遊びをするほどの抑圧も感じていない。彼はきちんと周囲の要望に応え、尚且つその状態にそれなりの自己満足を得られる、優等生(いいこ)だった。  もちろん、好奇心旺盛な十代の少年として、刺激の少ない日常にうんざりするようなことは、当然、ある。だからこの日を楽しみにしていなかったと言えば嘘になるが、実際訪れてみれば、何だ――と拍子抜けする部分が強かった。そして、それは心のどこかで予想していた通りの結果でもある。  路上でやっていた闘鶏トーナメントに揃って賭け金を吸い上げられ、げらげらと笑いながら歩くうちに、ふたりは冬枯れた空き地と粗末な小屋が点在する、うら寂れた平地に出た。 「だいぶ外れまで来たな。まあ、大体こんなもんさ。どうする、アロガ。劇場にでも入るか?」 「どうせいかがわしい劇じゃないのか。……待てよ、男だけの島で」 「ま、そこは色々よ」  シシッと剥き出しにした歯から下品な笑みを漏らす従兄に、アロガは肩を竦めることで呆れを伝え、黙って歩を進めた。遠目に見える広場が、少し気になっている。 「アロガ。おやじさんたちには黙って来たんだから、夜まではいられないぜ」 「ああ。……なあ。あれ、何だろう?」 「さあ……」  その広場は高い塀に取り囲まれ、テントのてっぺんだけがいくつも覗いていた。市が立っているのか、それとも祭りの準備中だろうか。  カンカン、と、小気味良い槌の音が風に乗って流れてくる。それと、バターと飴の匂い。 「……サーカス、だなあ」  従兄が言う頃には、アロガの目にもそれは明らかだった。  二台のトレーラーハウス(キャラバン)の間に掲げられた垂れ幕にも、塀に貼られたポスターにも、そう綴ってあったし、視線の先に広がるのも、まさにそうとしか言えない光景だ。  電飾のアーチ。色とりどりの三角旗ガーランド。  広場の奥には電気の落とされた回転木馬と、とんがり屋根の大きなテントが立っている。そこに向けて、食べ物屋台が一本道を作るほか、周囲には小ぶりのテントや車、積み上げたパイプなどが混在し、サーカスの団員と思しき体格の良い男たちが、日常着でうろうろしていた。 (……あ)  長袖のTシャツを着た、同い年くらいの黒髪の少年が、屋台の間を通り過ぎて行くのが目に入る。  あんなに若い団員もいるのか、とアロガが思う間に、もう姿は見えなくなっていた。  何とも言えない印象が、後を引いて残る。一瞬だったけれど、まるで野生の鹿のような、静謐で重みのない逍遥。幽霊というほど不穏な空気を醸さないが、生活感がまぼろしのように希薄な――  あの子も舞台に立つのだろうか。そう考えると、ざわ、と、胸が波打った。  広場のどこかで響くアコーディオンの音が、蠱惑的な手つきでアロガの背中を押す。  しかし、従兄の声が、アロガを現実に引き戻した。 「興味あるのか? アロガ」 「……いや」 「だよな。もうサーカスなんかが似合う、カワイイ年齢じゃないもんなぁ、俺ら。じゃ、とりあえず商店街の方に引き返すかあ」 「そうだな……」  内心少しだけ残念に思ってるのを、従兄に気付かれないよう、表情を消して踵を返す。  気にはなっていたが、仕方がなかった。無理に一緒に入ってもらっても、従兄の存在が枷になって、演目に集中できない可能性が高い。十七にもなって、こんなものが好きなのか、と思われるのは癪だった。一番年齢の近い、仲の良い肉親だからこそ、趣味の際立つ部分は見せたくない――。という感情の方が、サーカスより余程子供っぽさの証明であることも、アロガにはわかっていたのだけれど。 「この時間なら、夕食は家でいいかもな。……アロガ?」 「……ああ。任せるよ、兄貴」  近いうちに、今度はひとりで、自分はビドンを訪れることになるかもしれない。呼びかけに答えながら、アロガはそんなふうに思った。  そしてアロガのその予感は二カ月後、現実のものとなる。  日常のちょっとした隙間に、テントの幻影とあの少年の一瞬のたたずまいが浮かび上がり、よくわからないまま焦がれる、狂おしい気持ちに何度かさせられた後。  アロガはついに外泊の口実をでっち上げ、ビドン行きのチケットを取り、サーカスの客となった。  公演は、期待通りの伝統的なスペクタクルだった。  ジャグラー。自転車乗り。玉乗り道化(クラウン)。綱渡り。  幼い頃に本土で見たものとは違い、芸人は全員男だったが、力強く、少々猥雑で、けれど目が痺れるほど鮮やかな見世物の数々に、アロガは思わず見入っていた。  しかしある瞬間から、視界に、ひとりの少年のシルエットが焼き付き始める。 (……多分……あの子、が。あの時の……)  衣裳のきらめくスパンコール、   命を張った出し物の間隙、髭のムッシュー・ロワイヤルが差配するショウタイムに、或る時は東洋風の仮面を持って踊り、或る時は棒つきのリボンをひらめかせて、アロガの眼前を横切る、少年。  彼は群舞のひとりだった。  舞台の賑やかし、華美な衣裳を纏った、本来きっとそれだけの。  役目の筈なのに、いつの間にか、大技が行われている最中でさえ、円形舞台(ピスト)上に彼の姿を探し始めてしまう。  二ヶ月前の、風に乗って消えてしまうかのようなたたずまいとは対照的に。舞台での印象は、まるで閃光のようだ。  オーラ、というものが存在するのかどうか、アロガにはわからないが、存在感というものが、やはり他の出演者とはまるで違っていた。同じ衣裳をつけたダンサーと、同じ振りを踊っている筈なのに、視線は彼にだけ吸い寄せられる。  癖の強い黒髪。特徴的な舞台メークをほどこした、モデルのような小さな顔。  十代半ばほどの、均整のとれた体つき。アクロバットの土台を務める大人たちの筋骨隆々とした体躯との比較で、長い手足は倍掛けに優美に映る。  川面に飛び上がる魚のように宙返りし、大人の肩に軽々飛び乗り、転がり落ちそうな体勢で支えもなく難しげなフィギアをかたどる。  柔軟で複雑なリフトを経て、スキンヘッドの大人の肩の上で片手倒立、そこから、ゆっくり、百八十度開脚。永遠にも思う、静の数秒。自らの全体重を支えている筈の少年の片腕は震えもしない。支えとなっている大人にも負荷がかかっているようには見えない。  まるで、実体のない、幻のような軽さだ。  再びのリフトで地面に降ろされた少年は、息も乱さず、精霊のような三回転ピルエットをする。軸足は僅かもぶれない。高い、跳躍。彼の脚は強靭でしなやかな金属でも束ねて作られているのだろうか。  動きは音楽そのもののように伸びやかで、ポーズのひとつひとつは絵画に起こせそうなほど完成されて美しい。  視線はほとんど客席に投げない、笑顔も、浮かべない。機械的に、鍛え上げた筋を伸び縮みさせる、自足的なよろこびが、彼の身体を照明とともに縁取っているように思えた。  確かにあれだけ動ければ、楽しいだろう。彼が跳ぶたび、観ている方にまで、伸びやかな快感が伝わってくる。――それだけではない。  アロガはいつの間にか、固く握った拳を自分の胸骨の上に押し当てていた。  何だろう。何だ、この感覚は。見惚れているのはわかる。――人間離れした曲芸に? 否。 (……この感じは……やばいだろう。俺は……)  どく、どく、と胸が熱く波打つ、彼の登場のたび大きく軋む、これではまるで恋だ。  冗談じゃない、  相手は、男だ、と、何度も自分に、言い聞かせる。  それが何だ、と、開き直るのもまた、自分の声だ。  表現者に、魅入っているだけだ。何が悪い。これは優れたものに対する、単純な賛美の気持ちだ。同性の身体を見て、羨ましく見惚れ、溜息をつきたくなったって、何もおかしいことなどない。とろりとライトに撫でられる、象牙色の筋肉に触れてみたいと思うことだって――その延長――美しいと感じたものへ湧く、ごく普通の感情だ――、嘘だ。……普通とは、何だろう?  彼の去った後の舞台では、ほとんど肉塊と言っていいくらいに肥った去勢歌手(カストラート)が、イルカのような超高音域を響かせている。視界の中をきらきらと砂埃が横切って、目が乾いた。ムッシュー・ロワイヤルの口上の後、サーカスの目玉らしい、片腕のブランコ乗りが登場してきたところで、アロガは気持ちを抑えきれなくなり、座席から立ち上がると、他の観客の前を横切ってテントの外へ出る。 (何だ……これ……)  冷たい夜闇に触れて、頬の火照りを知る。胸の中で痛むほど深く心臓が伸縮し、勢い良く血液を送り出していた。 (何で……)  それは言葉にならない感覚だった。テントの中から聞こえてくる拍手と喝采が、遠い。これから、プログラムは一番美味しいところを迎えるのだろうに。どうして中に入って、それを見ようという気にならないのか。  わからない。けれどもう、目に焼き付いた。  傲岸なほど強い瞳。旋律と刹那的に抱擁しながら舞う肉体。扇情的な腰の動き。  もう、焼き付いた。

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