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三
足裏の感覚に、カースはすべてを委ねている。
踏み締めているのは、中空を横切る一本の綱。
その幅の狭い路の上を、彼は無造作に歩いて来て、中央のあたりで、きりりと撓(たわ)む縄を宥めるように、揺れがおさまるのを待つ。
本番とは違い、縄が張られているのは地上からほんの二メートルばかり上、床にはマットまで敷いてある。余程間抜けな落ち方をしない限り、怪我はない。
そもそも、練習用テントはカースの幼少期からの遊び場だった。恐怖の感情など、今更ない。
研がれた神経で揺れがおさまる瞬間を見定め、枝から飛び立つ鳥のように柔く踏み切る。
背を深くたわませた背面宙返りの後、片足で着地――足裏が再び、ゆらゆら揺れる綱の感触を踏み直す。両腕でバランスを取りながら、軸足の膝を伸ばし、浮いたままの片足を背中の方へ――バレエで言うところの、アラベスクのかたちを取るところまで、反動ではなく筋肉の力で、持ち上げていく。
軸足がぶるぶる震えるような無様なことにはならないけれど、それなりに負荷がかかってはいる。
背中に浮かんだ汗が、ひとすじ滑り落ちていくのがわかった。
更に軸足の踵をあげ、つまさきだけで全身のバランスを取る練習をしていると、
「カース」
入り口の方から声がかかったので、カースは軽やかに綱から飛び降りる。
わざわざ声の主を見ずとも、テントに入ってきたのが誰だか、気配で前もってわかっていた。
着地したカースが駆け寄る先には、金属のような銀髪を背中で束ねた、痩身の中年男の姿がある。
北方系の、彫りの深い顔立ち。湖畔のように凪いだ色の瞳は僅かに霧がかっているが、無駄のない筋肉質の身体は、カースの知る限り十年以上変化がなく、噂される年齢ほどの老いは、まだまだ感じさせない。
彼は、サーカスの振付師(コレオグラファー)だった。
「イェジィ」
甘えきった声のカースの呼びかけに、イェジィは気難しそうな眉間の皺を更に深めた。
「こんな時間まで。ほどほどにしなさい……。公演の後だぞ」
「平気です。あれだけの出番で、疲れなんて――」
「カース」
静かな声だったが、そこに叱責を感じ取り、カースはまだ幼い迷子のように怯えた顔で瞳を揺らす。
そうなってしまっても仕方がないところはあって、
彼、イェジィは、カースの、ほとんどすべてだった。
《サーカスの子(アンファン・ドゥ・ラ・バル)》として育ったカースにとって、彼は血の繋がりはなくとも、頼りになる父親であり、年の離れた兄であり、そして身体の使い方とサーカスに関わる全技術を教えた教師でもある。
彼の舞踊から滲む品の良さ、本物の艶と言うべきようなもの、哀調に満ちた詩情はカースのあこがれの対象だった。いつか、彼のように、踊りたいと思っている。
イェジィの言うことは、いつだって絶対だ。だが、
「キャラバンに戻って、もう寝なさい」
「……はい」
「どうした?」
浮かない顔をするカースに、イェジィは問う。
迷いながらも、カースは答えた。
「この頃、ベッドに入っても、眠くならなくて。ブランコと違って、ダンスは……あんまり楽だから。一日が終わった気がしないのかと……」
時々、ファンに呼ばれて、夜の仕事が入る。他人に気遣いをするのは、身体を使うよりは簡単に疲れが出て、そういう日はきちんと眠れるのだが、そうでない日は夜の間、まるでさっき一日が始まったかのような意識の冴えを持て余して、退屈な時間を過ごす羽目になる。
「カース、それは」
「――ああ、違う。ぼくが、楽を、してるんですね」
思い違いを、カースは恥じ入った。
遥か高みにある師の前で、よく、そんな思い上がったことが言えたものだと自分で思う。
無邪気に、楽だ、なんて、
――それは、単なる、未熟の証だ。
「甘ったれた考えでした。すみません」
「……いや。一概にお前の所為とは言えないよ。群舞だと、……お前は、人に合わせるのも、それなりに上手いから」
思案顔をした後、イェジィは大股にカースの目の前を過ぎて行った。
ジャグリング用のピン(マシュ)や輪っか(セルソー)の積まれた一角に行くと、その中から無造作にアール・デコ風の装飾が施されたアコーディオンを拾い上げる。楽器を携えて戻って来たイェジィに、カースの声は自然と明るさを帯びた。
「新作の振り写し、ですか?」
「いや。即興をやってみなさい」
「……どうやって? ぼくは、振り付けのやり方なんて」
いつもカースは、目の前でイェジィが見せてくれる手本通り動きながら、与えられる振りをそのまま覚えて踊る。それがずっと当たり前だったので、振りを自分で考えたことなどない。
「曲を聴いて、好きに動けばいいだけだ」
「……好きに……」
難しそうだと思いながら、それでもカースはおとなしく、イェジィの準備が整うのを待った。
彼の言うことに、間違いはない。彼が言うのなら、それにはきっと何か意味があるのだろう。
やがて右手・左手それぞれのボタンを試し弾きしながら、イェジィは、滑らかな動きで蛇腹を広げた。
「そう。疲れるまで。好きに、やりなさい」
流れ出した旋律に重ねて、あきれたような笑顔で、投げかけられた言葉。
カースの目の前に小さな火花が散る。
(ああ。……すき)
掠れた声音の余韻。すべてを見透かすようなまなざし。確かな指示。さりげない優しさ。
それは空気を孕んで躍動を始めた彼の音楽と、同じもの。見えないし、触れないけれど、確かにそこに存在して、カースをこれ以上ない極の感覚のうちに包み込む。
イェジィがそこに在って。彼が奏でるものならば、何でも。
すべてのものが、すきで、愛おしい、他のものは何もかも、どうだって良いとさえ思う。
(あなたが、すきだよ)
親愛、敬愛、情愛、べつに、なまえなんていらないもの。
伝える必要もなく、こうしているだけで互いの間を流れて行くもの、が、初期衝動。
陶酔、とともに、
音楽の中に自分を投げ出すと、空気の本流に乗せられて、勝手に身体が動き出す。
耳で聴いていたら遅すぎる、
皮膚越しに、まるで精神感応のように伝わるビート、から、電流のように生まれた運動性が、カースを瞬時に、音と一体になって響き合う、踊りの状態に持って行く。
イェジィ自身の足さばきのように鮮やかで官能的な、アコーディオンの調べ、
目を閉じて、師の踊りをまのうらに描くだけで、溢れるよろこびがカースの血となって赤く燃える。
心臓あたりで白い脂肪のように固まっていた、あまりもののエネルギーが溶け出していく。
眠れない夜、という不確かな沼の上に、イェジィの音が、足場を作る。
カースはその上でステップを踏み、思うがまま腕で空を切る。
ポジションを取ってターン、またターン。
足場(メロディ)には細かく頓着しない、振付師が自分を考えなしに冷たい水の中に突き落とすようなことはしないと知っている。
アップテンポの民族音楽は、呼吸レベルでカースをリードしていく。
カースはしばらくうっとりとそれに身を委ねて踊った。
しかし、やがて、あまりに肌馴染みの良いパートナーに、悪戯心を抱き始める。
拍をわざと外す。導く手(ビート)を無視して踵を返す。
イェジィは好きにやれと言ったのだ。操り人形のようなダンサーなど、きっと彼の目を慰めない。
愉しませたい。手を焼かせ、翻弄したい。誰も聴いたことがないくらいに浮わついた彼の音と、おかしくなるまで踊ってみたい。
(そうは言っても、あなたは、きっと足を踏み外す人ではないけれど)
(だから、すき、でもあるのだけれど)
憂うつな自我に錆びれた感情が、少しずつ洗い流されていく。
集約(コントラクション)と(アンド)解放(リリース)、伸び縮みする手足、
もう何十分踊っているのか。ちっとも飽きない。時間の感覚がなくて、ただ愉しい。
宙に吊られ、筋肉を酷使するのとは違う種類の疲れ方。
心が躍動して、多幸感に打ち震えるように息が弾む。
そう、これは求愛ダンス。
カースはきっと、動物のまま、生まれた。
テント育ちのかわいそうなお猿(アンファン・ドゥ・ラ・バル)。調教師に仕込まれれば何だって演る。慢心は事故の元、驕るほど立派なこころはいらない。拍手にも本当は興味ないけれど、客の入りが良ければ振付師(イェジィ)が喜ぶ、だからファン・サーヴィスは怠らない。芸にご褒美、餌とセックス。眠って起きて。シンプルな世界。
ダンスもとてもシンプルだけれど、難しい。自分の広げた世界に、どこまで相手を呑み込めているのか。つまさきに篭もる熱で、目の前の人間の心臓を蹴り飛ばせているのか、否か。
ぼくを見詰めて、
どうか愛して、と、
渇きの中、必死に懇願したいようにも思うけれど、既に何だか気持ち良くて自足している。
とうの昔に人が棄てた、不要の本能に依拠するような。伝達方法としても不確かで、スペクタクルでもない、奇妙な行為――それは、不慣れだった頃の自慰行為にも似ている。まどろっこしく、終わりが見えず、痛みを伴う。先に待ち受ける未知の感覚に、恐れを抱きつつ、突き進むしかない。そんなところ――
もっと、もう少し先、心臓の表皮が、弾けるように裂けるまで――そこまで――
行く前に、音楽は止んでしまった。
「……どうだ? 眠れそうか」
イェジィは、演奏前と何ら変わることのない湿度の低い声でカースに問う。
汗をかいた全身で呼吸をしながら、カースは頷いた。
「……はい。戻って、寝ます」
「良い子だ」
大きな掌が、カースの頭を撫でる。
それだけのことに、カースの気持ちはほぐれ、あくびが漏れ出た。
すっかり弛緩して、子供のように彼は微笑む。
「おやすみなさい。イェジィ」
練習用テントを出ると、冷えた空気が一瞬でカースの体から汗と火照りを拭い去った。
振り仰ぐ、滑らかな藍色の夜空。三日月がひっかき傷のように淡く滲んでいる。
カースは冬の星を数えながら、広場を横切って自分の生活空間であるトレーラーハウス(キャラバン)まで歩いて行った。
ほとんどテントと車を往復するばかりの十六年間。綺羅星を見るたび、カースの傍を通り過ぎて行くばかりだった、数々の人のことを思い出す。
(皆、……ぼくより先に、死んでゆく)
カースは貰われ子だった。両親と呼ぶべき人の、面影さえ持たない。
一番古い記憶はイェジィと団長、昔からの団員に囲まれて、地面にボールを転がしている自分だ。
団員の昔話に耳を傾けたある夜、自分にも両親がいるのかと尋ねたカースに、イェジィは空高く光る星を指して教えてくれた。カースの両親は死に、そして星になったのだと。死んだ人は空にのぼるのだと。
既に肉体を失ったたましいの輝きは、目を凝らすたびに数を増やしていくようで、カースはその中から父も母も探し当てられなかったけれど、イェジィが自分の襟巻をほどいてカースに巻いてくれたので、淋しいとは感じずに済んだ。
その頃のカースには、遊び相手がいた。同じ年頃、似た境遇の《サーカスの子(アンファン・ドゥ・ラ・バル)》、彼はある日、島に住む画家にモデルとして呼ばれ、画布のように切り刻まれて殺された。菫のような青い瞳を持つ少年だったので、カースは空の外れに蒼ざめた星を見つけ出し、彼の名前で呼んでいる。
初めて舞台に立ったのは、それから間もない六つか七つの頃。道化(クラウン)の恰好で他愛ない柔軟芸(コントーション)とボール投げを披露しただけの短い出番だったが、すぐに出待ちのファンがつき、争うように菓子やプレゼントを届けてきた。一番熱心だったファンのふたりは、ある日ささいな口論から決闘を行った。出し物を眺める心持で幼いカースも立ち会ったが、冗談のように簡単に、若い方は沢山の血を流して死に、老いた方もその日限り、客席に姿を現さなくなった。あの日の銃声はカースの耳に残響し続け、時折、舞台で同じ音のまぼろしを聞く。
それからも、カースの周囲では、新しい星が生まれては空にのぼっていった。
死ねと言ったこともないのに、愛の証明だと叫んで、油を被って焼け死んだ三文文士。
ファンと三人で寝、朝起きてみれば、ふたりが浴室の血溜まりの中、死んでいたこともある。
恋人を奪われたという画商に、突然物陰に引っ張り込まれ首を絞められた時には、いよいよ自分も星になる番が来たと思ったが、たまたま団員が通りがかり、事なきを得た。その男は団員たちに散々に痛めつけられていた筈だが、カースにはその後の記憶がない。しばらくは流星を見るたび、あの男がまた自分を殺しに戻ってくるのではないかと妄想したが、今のところそれは杞憂に終わっていて、ということはまだ彼はどこかで幸せに生きているのかもしれなかった。
サーカス団の中での事故も、それなりに多い。一番最近、嗅いだ血の匂いはそれだ。
死んだのは、飛行ブランコ(トラペーズ・ヴォロン)でカースのパートナーだった、若いブランコ乗り。厭世的で口が悪く、うんざりするほど性根が暗かったが、力持ちで信頼に足る受け手だった。立てなくなるまでその日の練習をやりたがる飛び手(カース)のことを気狂いと呼び、文句を言いながらも、毎日付き合ってくれた。
ブランコの技を追求するのは楽しかった。回転、コンビネーション、難易度の高い技ができるようになるたびイェジィに褒めてもらえたし、毎日多量の汗をかき、夢も見ずに泥のように眠るのは快感ですらあった。だから、パートナーには感謝していたし、態度でもそれを示しているつもりだった。
それなのに。
秋の終わりに彼は死んだ。リハーサル中にブランコから落下し、地面に叩きつけられたのだ。カースはそれを、もうひとつのブランコの上から見ていた。初めてカースがリハーサルで空中三回転に成功した、その直後の出来事だった。
どうして事故など起こったのか。受け手にとっては、危険なタイミングでも何でもなかった。たまたま手を滑らせたのか、バランスを崩したのか。彼は悲鳴ひとつあげることなく、安全ネットの外に広がる暗闇へ墜ちていった。
その、おそらくはあまり長くない秒間、カースは短い音楽を聴いた。
それはパートナーの、いのちのメロディだった。彼がある夜紡いだ、使い古されて陳腐化した詩のような言葉が、記憶の片隅からカースの耳元に舞い戻り、音楽と絡み合い、溶けて消えた。人となりも、サーカス芸も、さして鮮烈な印象を残すことのない平凡な男だったが、その旋律は荘厳な響きを持ってカースの胸を震わせた。
そして、彼も数多きらめく星のひとつとなった。
星々に埋め尽くされた空を見上げながら、カースは自分のほとんど全世界を担う、真四角の広場に立っている。
客に呼ばれる以外で、ここを出て行くことはない。
きっとおそらく、小さな世界、
けれど音楽が、生と死が、愛が、悲哀が、そして楽しいことと美しいものが、いつも滔々と流れていて、厭きるようなことはなかった。
この世界の中で、きっとこれからも、カースは生きていく。
(……あなただけは、死なないでくれると嬉しいけれど。……イェジィ……)
きっと願いは叶うし、叶わないこともあるのだろう。
星々は不確かな距離を互いに保ちながら、頭上で白く凍りついている。
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