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前編
一人暮らしの部屋はいつもふたり分の声で賑やかだった。
部屋の住人、若くもないが年寄りでもない人間、の手には一冊の本がある。
『アルタ・キヨウラ随想録』イワトビ出版の文庫本だ。値段は5マルジ。大体一般的な昼飯3回分ほどの値段。普及用で絶版もしていないありふれた本。初版というわけでもない。だがその本をその人間は大切に大切にしていた。
これはその本について人間が語った嘘か真かわからぬ話。
***
わたしがまだ十四五の頃、自分の本という物は持っていなかった。家は貧しく、本を買うという発想がわたしの親にはないようだった。幸いなことにわたしは学校へ行かせてもらい、さらに勉強がよくできるほうだったので、授業が全て終わった後に様々な雑用をこなすという仕事をその歳には得ていた。そうしてわずかばかりの給金を少しずつ貯めてやっと買ったのがこの『アルタ・キヨウラ随想録』だ。この本をわたしはどこにでも持ち歩き、お守りのようにいつも身に着けていた。
アルタ・キヨウラとは物理学者で、科学啓蒙に奔走し数々の素晴らしい随筆を残し、科学随筆を好む者でヒロヌア(わたしの国の名だ)では知らぬ者はいないほどに有名だ。
わたしはどこでだったか一片の随筆を読みすっかりアルタ先生のファンになってしまった。一時は自分も物理学者になりたいと思うほどだった。
そうして何度も何度も読み返し、最初に付けていたブックカバーが擦り切れてしまったのでそろそろ取替なければと考えていた頃のことだったとおもう。
それは喋りだした。
「あの……」
「ん?」
「は、はじめまして……」
「え」
とっさに事態が飲み込めず、わたしは硬直した。
「あ、えっと、わたしです。『アルタ・キヨウラ随想録』。今あなたがお持ちの」
正直にいうと、わたしは自分の頭がおかしくなったのかとおもった。まあ、この話を聞いている君もそうおもうだろう。「病院に行け」とね。
「あの、びっくりしますよね。本が突然はなしだしたら。ごめんなさい」
『ごめんなさい』という部分でわたしの意識が戻ってきた。わたしは自分が疲れていて脳が妙な妄想を始めたのだろうとおもった。試験が終わったばかりだったし、その間に家の仕事も学校の仕事も変わらずこなしていたので、実際とても疲れていたのだ。わたしは学校のベンチで、家に帰るのも億劫に腰掛けていたのだから。
「帰ろう……」
わたしは重い腰とわずかな荷物と大事な文庫本を持ち上げて歩き出した。
「お帰りになりますか。不審者に出くわしたらわたしが大声を上げますのでおっしゃってくださいね」
やはり手元から声がする。
「えええ、うそーー。本がしゃべってる。わたし疲れすぎ? そんなに?」
「はい、今お話させていただいたのはあなたの左手に握られた本です。それからあなたはいつも疲れすぎです。わたしが人間だったら今すぐ布団に放り投げます」
「わあ、ワイルド」
「ご心配申し上げているのです」
そこでわたしはうかつにも泣いてしまった。誰かから心配されたり優しくされるということに慣れていなかったのだ。
パタリと涙がカバーに落ちたのを慌てて拭った。
「ごめん、シワが」
「中身は無事です。大丈夫」
「……家に着いたら、カバー、新しいの巻くから」
わたしは自分の目元もガシガシとこすった。
「目を擦ってはなりません。眼球に傷がついてしまう可能性があります」
「見えてるの?」
「感じているんです。フィーリングです。新しいカバーは買い物の包装紙以外にしてください。紙売の露店に出ている金魚の柄のものなど素敵だとおもいます」
「どこでそんな情報を」
「物質間情報網はなかなかすごいのですよ。お見せできないのが残念です」
ふふんとでも言いそうなほど誇らしげに本は言った。この頃にはわたしはなんかもう色々どうでもいいやという気持ちになっていてふんふんと本の話を聞いていた。
そうして本がいうことには、物に人格が宿るというのか、こういうことはこの世では稀に良くあるのだそうだ。わたしの頭は心配ないらしい。とにかく体を休めろとそれはうるさかった。初対面なのに良いやつだ。わたしは人見知りをする質なのに本にはすっかり心を許してしまった。もともとが唯一無二の宝物なのだ。喋りだしたくらいでそれが変わりはしない。
そうしてふたりで長くも短くもない人生を歩んできた。これからもそうするつもりだ。だが本はかなり草臥れてしまった。まあ、草臥れているのはわたしも同じだが。そんなわけで君を探してやってきたというわけだ。
***
そう言って本は俺のところに寄越された。よれよれのくたくた。新しく同じ本を買うほうが遥かに安くて手間いらず。確かに俺は本を修繕したり補強したりする仕事も請け負っていたが、本業はエンジニアで、今はそっちの仕事が忙しい。そこをどうしてもというので(おまけに金払いも良さそうだったので)引き受けた。依頼人の言うことを真に受けたわけではない。しかしきっと本当に大切な物なのだろう。本を大切にするやつは良いやつだ。まあ、これは俺の持論。
「本当はね、不本意なんですからね。あの方以外に触れられるなんて」
「ーーあ?」
「もう本当に、仕方なく、仕方なくですよ。あの方がまた昔みたいにピッシリと美しくなって長持ちできる、なんて、嬉しそうに、言うものだから。まったく美容整形みたいないいようじゃありませんか。わたしはわたしらしくいたいので、あまり派手にしてもらっては困りますからね」
作業台から聞こえてきた音に、俺が絶句したのは言うまでもない。
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