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1.逃げる

 漆黒が勝る天空。  丸々とした月から、淡い雲ごしに朧な明かりが落ちている。  (さと)を出たのは夜半。たぶん四、五時間はこうして走っているけれど、いつ見上げても目に映るのは黒々と天を突き刺す樹々の剣先と、淡黄色に輝く月ばかり。  薄衣を纏い、樹木にずぶずぶ串刺されるかのような月は、どこまでも追うぞと、見逃しはしないと瞬断無く責め立てる。  小糠雨が霧のようにまとわりついて、ウサギのベストをじっとりと重くしている。ブーツの(にかわ)も落ちて防水の役には立たない。衣服も毛も肌に張り付き、動きを妨げる。  (ほんらい)の形で道無き森の樹間を選び遠回りして、時々ひと形になっては木に登り枝を伝って進み、匂いを誤魔化して進んだ。  そうでもしないと逃げ切れない。  アルファが郷を離れている満月の夜。しのつく雨は匂いを薄めて、きっと狩り(ルウ)の鼻も誤魔化せる。ベータの一人は共に郷を出ているし、残るベータは絶対に追ってこない。先頃選ばれたばかりの三匹目もいるけれど、あいつならまける。  こんなチャンスは二度と無い、今夜しか無い。  そう考え、郷を飛び出した。  ひと里から遠く離れた山奥、深い森の中に、ぽっかりと草原が点在している。  そこにある郷の真実を知るのは同族のみ。それ以外ではごく少数だけ。  ひと族とは違う体と心と規律を持ち、異形とされる人狼の郷。  そこから俺は逃げている。足が重くても止まるなどできない。  本能が叫んでる。  留まるわけにはいかないと、叫び続けてる。  群れで最も強い雄がアルファとなる。アルファが決まると序列が決まり、全ての雄はそれに従って群れのために働く。  ベータがアルファの補助。賢くて皆へ知識を与えるのは語り部(シグマ)、病や怪我の手当は癒し(イプシロン)、家や井戸など普請をする大工(カッパ)といった役割、階位(クラス)が、成人すると与えられる。  階位の無い雌たちは自分の(つがい)に従う。シグマの番は共に学び教え、イプシロンの番は薬草を採り薬を保管し看病をする。一匹だけと決められているのはアルファとオメガだけで、他の階位はたいてい複数だ。  アルファと運命の繋がっている雄がオメガになり、オメガになると仔を産めるようになる。  そしてオメガがアルファと番って産まれる仔は、強い身体と効く鼻と鋭い耳と見透す眼と、強い心を持っている。もっとも強い者の血をつなげるため、俺たちの身体はそう決まってるのだ。  けれどあのオメガは不幸だった。アルファには妻子がいたのだ。  唯一無二であるはずの番に、既に番った相手がいるなどあってはいけない。けれど状況が普通じゃ無かった。  前のアルファは戦いで失われた。その戦いでは、殆どの雄が失われていた。  そのときアルファになったのは、郷を守るために残っていたベータ、四十代の雄。本当ならアルファが倒れれば次のアルファ選びが行われるが、そのとき他には、戦わぬ雄と子狼、そして雌しかいなかった。  誰かがアルファになって郷を統率し、強い仔を残すという役目をこなさなければならない。みんな違和感はあっただろう。嫌悪感はアルファ自身にもあっただろう。それでも群れを絶やすわけにはいかない。  オメガと決まったのは、まだ若いシグマの雄だった。  本当に運命の番であったとは考えにくい。既に妻がいるアルファの運命は、妻と繋がっているのだろう。  けれど群れの数が少なくなっていた。雄が子狼しかいなかった。これからの郷にとって、強い雄を増やすことが必要だった。アルファとオメガの仔は強い。  オメガは絶対に必要だったのだ。  俺たちは唯一の番が失われても他と番うことなどしない。  けれどそのとき、番を失った雌たちは精通したばかりの子狼や残っていた雄と子作りした。群れ存続の危機だった。本当にしょうがないこと、納得するしか無いと言いながら。  そんな中、オメガだけが逃れることはできなかったのだ。 「決まったことだからね。どうしようもないよ」  そう言って、オメガはアルファの仔を産んだ。それが務めだった。  アルファは他の雌とも子作りしたが、アルファの仔を孕んだのはオメガだけ。元々の妻ですら孕むことはなく、その雌はオメガに激しく嫉妬した。  番を亡くした他の雌とアルファが生きているその雌とは感情が違って当然だ。嫉妬を露わにする元妻には同情が集まっていた。  みなアルファの指示に従ったけ。頭では納得しようとしたけれど、本能は違うと言っていた。  間違っているという声は全員の身の奥から湧き出でていたという。それを無理矢理打ち消し、みな子作りした。本能を必死に押さえ込んで、郷のために子を成した。  やがて郷には子狼が溢れた。そのとき産まれた一匹が俺だ。  親はオメガ。けれどアルファは俺の親ではない。  外見が雄であるオメガと子作りしようとする者は少なかったと思う。けど、いないわけでは無かったらしい。若い雄が子作りを迫ったとき抵抗したのか受け容れたのか、それは分からない。ともかくオメガは誰が父親か分からないまま俺を産んだ。  そして雌たちは、子作りした稚い(わかい)雄たちも、だんだんに歪んでいった。  特にアルファの元々の妻は、先頭に立ってオメガを差別していた。  子狼を二匹しか産まなかったことを理由にしてたけど、あれは単なる言い訳だ。足蹴にされ、無視され、食料も満足に与えられず……オメガは抵抗せず、虐げられていた。子狼(おれ)たちは、森で採ったり狩ったりしたものをそっとオメガに持って行き、食べるよう言った。  郷の雌たちの歪んだ鬱憤が、すべてオメガに向けられてる。  俺たち子狼にはそんな風に見えていた。  オメガは賢かった。元々語り部(シグマ)だったんだから当然だ。  役にたつ話だけじゃなく、いろんな話を語り聞かせ子狼たちに知恵を授けてくれた。いつだって穏やかに笑んでいて優しかった。  おれたちは殺気立つ雌ではなく、当たり前のようにオメガに懐いた。それも雌たちには面白くなかったのかも知れない。  俺たちの中から十六を過ぎる雄が出たのは六年前。十五歳までは子狼、群れで守り育てるが、それを過ぎたら雄も雌も群れのために働くようになる。  歪な生き方を強いられた雌たちが年老いて発言力を弱め、日ごと暴力的になっていく若かった雄たちの多くは郷を離れ、仮で階位を与えられた俺たちは、番以外と子作りは絶対にしないと心に決めながら、郷のために働くようになり、ようやく郷が本来の形に戻りつつあると老いた者が喜んでいる。  けれどあのアルファは……今まで普通に尊敬してたけど、この頃少し疑問に思い始めてた。  俺を産んだオメガが先日失われた。  元々身体は強くなかったけど、まだ四十になったばかり。オメガは好かれてたから、みんな早過ぎると嘆いた。  けど俺はアルファのせいじゃないかと思った。元々の妻がやっていることを知っていて止めなかったからだ。  オメガは「しょうがない」が口癖だった。  諦めていたのかな。死に顔は穏やかだった。  けれど────それとこれとは話が違う!   「次のオメガはおまえだ」  いきなりそんな風に言われて、なんで俺が従わなきゃならない?  だってオメガってのは新しいアルファと(つが)うもんだろ? オメガが死んだから次のオメガが選ばれるなんて聞いたことないし!  しかも五十過ぎたあのアルファと番う? ねえよ絶対! ありえねえ!  そりゃアルファとして尊敬はするべきだし命令には従う。でもこれは違うだろ!?  と言っても群れの中でアルファの発言は絶対だ。そうでなければ群れじゃない。しかもオメガは郷を出られなくなるって聞いてる。失われたオメガがそうだった。ていうことは逃げられないって事だ。  アルファが他郷に出かけた今なら、みんなに監視されていない今なら、まだ逃げられる。行動を起こすのは今しか無い。  そんなわけで郷を飛び出してきた。  ていうか(つがい)ってのはビビッと通じ合うモンがあるんだろ? 俺たちは子狼(ガキ)のころからそう聞かされて、ずっと憧れてたんだぞ? 「俺には分かる」  わっかんねえよ! こっちは全然まったくなんも感じてないんだ!  だから俺は逃げてる。  絶対に捕まらない!  バレたら追っ手はかかるだろう。けど今日は満月。狼に変化できる今日なら、逃げられるかも知れない。  わざと痕跡を残して変化で遠回りしてから、ひと形になって木に登り枝を伝って移動した。匂いを誤魔化すためだ。狼の姿の方が走るのは速いから、ある程度進んでから変化して走った。  俺は元シグマの仔。「お前は賢いね」とオメガにはよく言われていた。  けれど俺はわざとアホのフリをした。下手に賢いとバレてシグマになるのだけは、は絶対に嫌だった。おどけて軽くふるまい、空気を読んで立ち回り、俺はルウ、狩りの役目になった。  成長した子狼は仮の階位(クラス)を与えられる。ちゃんとした序列じゃないから成人するまでの仮のものだ。  けど俺はホッとした。  なぜって?  賢いってバレたら、物わかり良いとか思われて、いいように使われるに決まってる。  俺の親であるオメガがそうだったように。

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