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42.過ち
響き渡る遠吠え。
それを耳にして、老いたアルファは己の役目がようよう終わるのだと知る。
漏れるのは、安堵の吐息。
自分がアルファの器ではなかったことは承知していた。しかし愚かさは、あのとき他の選択を示さなかった────
◆ ◇ ◆
幼い頃より見知った郷とは違う、大きな郷。
ここで番探しの旅を終えたのは、命じられたからだ。
番の居ない雌を宛がう。この大きく頑健な身体と厳つい顔が気に入った、留まれ。
そう命じたアルファは傲慢で、しかし覇気があり、その強さと豪毅さで郷を率いていた。
図体しか取り柄の無いこの身を欲するアルファがいたのだ。身を粉にして郷のために、アルファのために働こう。
運命は見つからない。そう諦めがついた。
産まれ育った郷で優れた同輩に侮られて育った。
身体は大きく力も強いが愚鈍。走りは遅く、頭は巡らず、受けた階位 は守り 。精霊はこの身を見捨てず、ただ図体を生かして楯となれと、そう命じたのだと悟ったものだ。
郷には唯一の番がいなかった。それでも郷のためにと、ただ楯になることを己に命じて役目に従ったが、それでも侮られ続けて、
さほど精霊よりの恵みを得られなかったこの身が「精霊に好かれていないのだ」と郷のガンマに言われ、その衝撃と共に郷への愛着は薄れ、せめて運命を求めようと、番探しの旅に出る許しを請うた。
アルファの許しが下りたと告げたとき、ベータは鼻で笑った。
「おまえなどいてもいなくても良いとお考えなのだろうさ」
産まれ育った郷を出ることに迷いは少なかった。とはいえ郷を捨てるつもりなどなかった。
どうしようと侮られるのなら、せめて運命と番う歓びを求めようと考え、番と共に郷に戻るのだと疑いなく思って旅を続け……ここで、諦めた。
この郷では、この身を不要と言われなかった。よそ者であるにも係わらずベータを拝命したのだ。それは望外の喜びだった。
だがおそらく俺の能力が足りなかったのだろう。ひたすらそばに侍ることを求められ、ベータとしての働きは他の雄が担っていた。
そして
『厳つい外見にそぐわぬ中身』
『図体だけの能なし』
この郷でも、侮られた。
だが、侮られるのは慣れていたのだ。居を構え、仔を成すことのできたことが、どれほどの歓びだったか。いつか手に入れたいと願っていた穏やかな生活は、長旅で疲弊していた身と心を、ゆっくりと癒やしていくようだった。
この郷に愛着を持ち、この郷の精霊にこの身を捧げようと考えたのも自然であった。
旅に意味はあったのだ。ベータをこの身に授けたこの郷の精霊に身を捧げるのだ。これが我が身の丈に合う幸福なのだ。
日々、己に言い聞かせていた。
そうして三年ほど経過した、ある日。
────突然、雷に打たれたかような衝撃を受けた。
しばらく郷を離れていた語り部 。
紫の瞳、淡い黄金の毛。賢く美しい……雄。
一瞬で悟った。運命の番なのだと。
だが雄と番うのはアルファのみ。
己がアルファとなるなどあり得ない。つまり運命とは番えない。まして既に仔を成した番が居る。あらゆるものが厳しい事実を突きつけた。
精霊は、己にいかほどの辛酸を与えようというのか。
それほどまでにこの身が不要か。
いっそこの身を塵に帰すべきか。
愚鈍なこの身を呪い、慟哭した。
育った郷に、この郷に、運命に、精霊に、ひどく醜い気持ちを抱えながら過ごす。
番っていた雌がすり寄ってくるのに嫌悪を覚え、触れるのも厭わしく、顔を見るのも嫌になった。触れるな寄るなと怒鳴りつけ、寄ってくるたび殴り飛ばし、甘えた声を出せば蹴り飛ばした。
そんな中、運命だけは微笑みをくれ、なにかと話しかけてくれた。ひと族の王都で学んでいたという運命は、賢く美しい。すぐに夢中になった。
人狼の寄りつかぬガンマの森で忍び会い鼻を擦り合い、互いの匂いを堪能した。己を律することなどしなかった。心の赴くまま運命と触れ合った。
しかし匂いを移すわけにはいかない。運命は匂い消しを常に持参していた。
曲がりなりにも番の居る己、そして雄同士。このような時を持つことを、精霊は許すまい。
そのような愚行、アルファが気づかぬはずもなかい、……と気づくのが、遅かった。
当時のオメガは守り 筆頭 。郷とアルファを守る者であるミュウは、アルファのそばに汚らわしい身を寄せるなと、この身を排斥。────蟄居の身とされた。
運命とまみえることも許されず、番となった雌は棲まいから一歩も出ぬよう見張る役目となった。おそらく、憎しみを持って。
やがて郷の命運を決する戦いに赴くとなったとき、アルファはこの身が共に往くことを禁じた。
アルファが、この身を蔑ろにした雄共のほとんどが失われたと知ったとき、湧きあがったのは…………歓喜だった。
さんざん侮られた。しかし残ったのは俺だ。それこそが運命 。勝者は……俺だ。
この身がアルファとなり、この郷を牛耳るのだ────
アルファは郷を統べる者。
しかしなんとか郷を保とうと無理矢理講じた対策は、悉く裏目の結果をもたらし、郷は崩壊した。
賢い我が運命 に助言を求めようかという思いは過ぎった。しかし、オメガとなった運命はひどく衰弱していた。ただでさえ子作りと出産で消耗している運命に無理をさせたくはなかった。
◆ ◇ ◆
運命 に、我がオメガに罪は無い。
全てはこの身が、不相応な望みを持ったことが元凶なのだ。
その運命も失われ、焦がれるのはこの身を塵に帰すそのときのみ。
もう、そのときを指折り待つ必要も、無くなる。
それは老いた者にとって、救いであった。
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