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第1話
月刊ミュージィ編集部員の入谷(いりや)奏多(かなた)は、デスクで企画書をトンと揃え、口元を隠してため息をついた。
と、すかさず奥の席で編集長がペンを振りかざし。
「おーい、入谷。なにダラけてんだ。さっさと打ち合わせにいかんかい」
容赦ないダミ声を飛ばしてきた。今朝からずっと、面倒な書類仕事に追われて機嫌が悪いのである。
「はいっ、いきます。すぐ出ます」
入谷はあたふたと返事をすると、書類を無造作にカバンに押し込み、急ぎ足で出版社を飛び出した。
訪問予定のお宅は、電車を乗り継いで三十分ほど。都心でも特に治安のよい閑静な高級住宅街にある。平日の夕方は主婦と思しき買い物客の姿が多く、地域性か、はたまた先入観からか、老舗の並ぶ商店街はおっとりと優雅な雰囲気をかもして見える。
整備された駅前通りを抜けると、今度はあたりを憚らずあからさまに気乗りしないため息を吐き出した。
打ち合わせ相手の高嶺(たかみね)一志(かずし)は、美術大学時代の三年先輩だ。在学中からアート界の期待を集めてきた彼は、常にリーダー的存在で羨望のまと。教授からの信頼も厚く、なににおいても完璧にこなす男と言われていた。これまで数々の賞を総なめにし、今は名の知られた若手画家として第一線で活躍している。
いっぽう入谷は、絵を生業にするほどの才能はなかったけれど、出版社に就職し、コツコツと努力して念願のアート雑誌編集部に配属された。そしてつい先日、高嶺に美を語ってもらうエッセイの連載企画が持ち上がり、同じ大学出身ということで担当に決まったのだった。
それがなぜ気乗りしないかというと――。
大学の入学式の日に、ホールに飾られた高嶺の絵に目を惹かれ、本人を見て心も惹かれた。ただの後輩でいいからちょっとだけでもお近づきになりたいと、密かに思った。
ところが、秘めた想いを抱えて二か月ほどたったある日。廊下で思いがけず高嶺とぶつかって、うっかりスケッチやクロッキーを落として散らばしてしまった時のこと。
高嶺は拾うのを手伝ってくれたのだが……。表情がいつになく不機嫌そうで、のろのろとした動作で絵を見るなり「へたくそ」と呟き、フラリと立ち去っていった。
少女漫画なら、そこから恋がはじまるときめきのシチュエーションではないか。それなのに、好みの顔でしかも初めての会話で、いきなり「へたくそ」とけなされてショックなことこのうえない。
それだけならまだよかったのだが、その数日後。あろうことか友人に不意打ちでキスされたところを運悪く見られ、すれ違いざまフンと鼻先で笑われてしまったのだ。
友人は遊び相手の性別にはこだわらない軽い男で、シラフでもキス魔というオープンなやつだった。反対に遊び慣れてない入谷は、自分の恋愛対象が同性だということをひた隠しにしてきた。高嶺への想いも隠し、少しだけでも会話できる後輩になれたらいいなと、ささやかな願いの眼差しで彼の姿を追っていた。
それなのに、淡い片想いは急転直下。恋愛志向がバレて嫌悪されたかと思うと二重のショックでもう立ち直れない。色白で中性的と言われる自分の容姿まで嘲られたんじゃないかと考えてしまって、高嶺の視界に入らないように構内をこそこそ歩くようになった。いつか勇気を出して挨拶して、美術について語り合って、などという夢は瓦礫となり果てた。
けれど、情けなくて恥ずかしくて近寄ることさえできないというのに、惹かれる目が遠くからでも吸い寄せられ、気がつくと視線が密かに高嶺を追ってしまう。後ろ姿を見るだけでも胸が鳴ってしまう。
そんな自分がばかみたいに思えて、傷つきたくないあまり「顔が好みなだけでそれ以上の興味はないから」と無理やり心に言い聞かせ、意識して彼を敬遠してきた。
辛く苦しい日々を過ごし、高嶺が卒業して、やっと立ち直るまでに九年。アート界の期待の星だった彼は結婚して子供もいて順風満帆だと、編集部内の情報で知った。さぞかし理想のスーパーダーリンになっているだろうと、懐かしさに駆られた。
しかし反面、あの嫌な思い出と複雑な心境がよみがえり、心臓がキュウウッと絞られるのである。
前方に高嶺邸が見えてくると、鈍い歩がどんどん重くなっていく。
会いたくない――というより、こっちの顔を見られたくないといったほうが合ってるだろうか。
でも、嫌な思い出はもう昔のことだし、目立たない自分のことなどきっと忘れられているに違いない。名前だって知られてないはずだから、もし顔を憶えられていてもしらばっくれていればいい。
入谷は、高嶺邸の表札を見てキリリと顔を上げた。
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