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第2話

 実はミュージィに配属されてまだ一年。単発記事やコラムを任されたことはあっても、大物画家の連載を一人で担当するのは初めて。しかしながら、新卒からコツコツと実績を積み重ねてきた出版社務めのプライドがある。  そう、これは仕事だ!  やるからには全力で人気連載に押し上げ、編集者として高嶺と対等な立場で仕事を完遂してやるぞ!   と、入谷は鼻息も荒く門の前でグッと拳を握る。  人差し指を突き出し、力強くドアフォンを押した。  耳を澄ますと、メロディアスな音が広い邸内を駆け巡るのが聞こえてきた。  こんな高級住宅街でなければそぐわないであろう、洒落たヨーロッパ風の三角屋根とレンガの外壁。ゆったりしたポーチには色とりどりの花を咲かせたプランターが並ぶ。ガーデニングは英国式のようで、敷地の規模といい、洗練されたセンスといい、界隈でも飛び抜けた収入と美意識を窺わせる邸宅だ。 『はーい。だれですかぁ?』  フォンから、可愛い声が流れてくる。 「ミュージイ編集部です」  高嶺に取り次いでくれるかと構えていたが、ほどなくオートロックのドアを開けて現れたのは小さな男の子。  坊ちゃん刈りのつやつや髪に天使の輪が光っていて、ふっくらしたほっぺがとても愛らしい。幼いながらもキリリとした切れ長の目元は、父親にそっくり。噂で聞いた高嶺の息子だろう。  意気込んだぶん、拍子抜けしてちょっと気恥ずかしくなってしまったが。 「こんにちは。お父さんはいますか?」  聞き取りやすいようにゆっくりと、はっきりした発音で言って微笑んだ。 「こんにちは。おしごとのひと?」  男の子は無邪気な笑顔を返し、パタパタと駆けてきて門を開く。入谷のスーツの裾を引っ張って招き入れ、玄関でスリッパを出してくれた。 「どーぞ。あがって」  人懐こい接客で、なかなかに躾の行き届いた子供である。 「はい、ありがとう。お邪魔します」  入谷は誰にともなく頭を下げ、靴を脱ぎながら思わずスンと鼻を鳴らした。  油絵具の臭いが漂っているのは、画家の家なら普通のことだと思う。しかしそれだけじゃなく、なんだか空気がこもっていて、いろいろな臭いがごちゃ混ぜに澱んでいるような気がするのだ。 「あのね、ぼく浩汰(こうた)。なまえ、かんじでかけるんだよ」 「へ、へえ? 偉いね……。浩汰くんは、何歳?」 「五さい」 「おっ……と」  吹き抜けの玄関から続く幅広い廊下には、浩汰が一人で遊んでいたらしいオモチャの車やらサーキットレールやらがいくつも転がっていて、うっかり蹴ってしまいそうだ。 「おかたづけ、するよ。あとでね」 「ああ、うん。そうだね」  浩汰は、慣れた足取りでひょいひょいとオモチャの群れをまたいでいく。  高級そうなランプとベネチアングラスの水差しを飾ったコンソールテーブル。壁に風景画が掛けられ、廊下の突き当りにはアンティークな柱時計。そして、それらに薄っすら積もったホコリ……。  住人の審美眼を表す家具や装飾品にそぐわないホコリを眺め渡し、入谷は怪訝に首を傾げる。 「こっちこっち」  案内されて、リビングに入るなり今度は唖然としてしまった。  廊下の散らかりようなんてものじゃない。三十畳はあろうかというフローリングに散乱しているのは、ボールやブロックといった男児用オモチャ、絵本。さらに脱ぎ捨てた靴下やシャツなどの衣類と、お菓子の空袋と、汁のこびりついたカップ麺の容器。ぐしゃぐしゃの毛布がソファで丸まっていて、テーブルの上にはクレヨンと画用紙。いったい何日掃除していないのか、歩くたびスリッパの裏でお菓子らしきクズがザリッと音をたてる。  ふと小さなかりんとうを踏み潰しそうになって、入谷はすんでのところで足をとめた。  と、踵の後ろをヒョロ長い生物が走っていって、思わずかりんとうを踏みそうになった片足と両手を上げ、「ひゃっ」とおかしなポーズをとってしまった。 「あ、ふぇるめーる」 「フェ、フェルメール?」  踏みそうになったのは、かりんとうじゃない。そして、その干からびかけた焦げ茶の物体を排出したそれは。 「おきゃくさんおどかしちゃだめでしょ。ほら、ごあいさつ」  浩汰が捕まえてひょいと持ち上げる。  ダラリとぶら下がった長い胴体、短い手足。薄茶色の毛皮に、目の周りには愛嬌のあるパンダ模様。犬でも猫でもない。それは、人慣れして飼いやすいと人気の小動物。  浩汰はフェレットを入谷の前に突き出し、ペコリと挨拶の腰を折る。 「ふぇるめーるです。こんにちは」  入谷は両手を下ろし、初めて間近にするフェレットをまじまじ見た。 「こ、こんにちは。ちょっとびっくりしたけど、か……可愛いね」  ヨハネス・フェルメールは、バロック絵画を代表するオランダの画家である。今や日本を代表する画家となった高嶺の息子らしく、フェ繋がりで連想したのだろうか。それにしてもこのフェルメールは間の抜けたイタチといった感じで、たいそうな命名だと、胸の中でこっそり笑ってしまう。

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