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第7話

 しかし、こんなことでうろたえてはいけない。  初対面として最初の心構えを取り戻し、手のかかる難しい画家に向き合い、それなりの信頼関係を築いていくのだと、編集者の根性を奮い立たせる。  それが自分の仕事だ。いくつものジャンルの編集部を転属して培ってきた経験はダテじゃないのだ。  まずいなら食べなきゃいいのに、高嶺は残すようすもなくチャーハンとスープをノロノロと口に運ぶ。  入谷は正面の席に座り、さっそく会話を試みた。 「このたびは依頼を受けてくださり、ありがとうございます」 「ああ……」  高嶺は顔を上げずボソと答え、黙々と食事する。 「お忙しいのは承知していますので、できるだけ便宜を図りたいと考えておりますが」 「……うん」 「ちなみに今後のスケジュールなど」  仕事の話は気が乗らないのだろうか。高嶺はチャーハンに視線を落としたまま。けれど目の焦点がどことなく合ってないようで、発するのは口の中でこもる「ああ」と「うん」ばかり。 「奥様、ニューヨークにいらしてるとか。小さなお子さん抱えて大変でしょうね」 「ああ」  話題を変えても反応が鈍い。 「お帰りは、まだ先になるんですか?」 「帰らない」 「は?」  意味がわからず、入谷は首を傾げる。 「離婚した」 「えっ。それは……し、知らずに失礼しました」  思いもよらない単語を聞いて、思わず肩を竦めた。奥さんの話題もNG、触れないほうがいいだろうと、慌ててまた話題を変えてみた。 「今お描きになってるのは、大作のようですね」  すると、ピクリと反応した高嶺の手が、スプーンを握ったままゆっくり上がり、宙になにやら書きはじめた。  筆を使う動作のようだが、その視線がなぜだか入谷を見つめる。  違った。見つめているのは入谷の後ろのほう。  しかし、なにを見ているのだろうかと振り返ってみても、背後には凝視するほどのものはなにもない。冷蔵庫と食器棚が並んでいるだけだ。 「あの……?」  また急に高嶺の目の焦点がぼやけ、おもむろに手を下ろすとチャーハンをすくい、ノロリと口に運ぶ。 「元妻はアメリカで起業して永住予定。離婚してからしばらくは浩汰の世話のために大判を控えていたんだが、久々に受けてしまってなかなか」  なぜか突として語り出した。どうやら、仕事と元奥さんの話はしたくないというわけでもないようだ。 「まだ浩汰の親権は協議中だが、俺のほうが収入はいいし在宅仕事だから有利だ。そう思うだろ」  高嶺は、どことなく上の空なようすでポリポリと頭をかく。  いやいや、この家の惨状では親権争いには勝てないんじゃないか? と思っても口には出せないので、入谷はあいまいな笑みでごまかした。 「そういえば、ここ二年ほど作品の発表数が少なかったですね。今回はどちらかに出展なさる予定で?」 「大手企業の本社ビル建て替え記念セレモニーの……納期が近いんだ」  言ってる途中で、高嶺の視線がソワソワと浮遊しはじめる。 「何日ぶりかでまともなものを食った気がする。おかげで息抜きできた」  言うやすっくと立ち上がり、別世界にいるかのような足取りでまたフラフラとアトリエに戻っていった。 「い……息抜きになってよかったですね」  入谷は呆然とこぼして、頭を抱えてしまった。  もはや引きとめる隙もなかった。  今日はもう打ち合わせどころじゃない。高嶺の頭の中にあるのは創作のみで、なにを喋っても精神はあっちの世界に翔んだまま。ほんの少し事情がわかったものの、意思疎通はほとんどできていなかった。  これまでご機嫌とりやスケジュール調整で苦労することはよくあったが、彼は今まで担当した中でもかなり扱いにくい部類のアーティストだ。 「う~ん……どうしようか」  ちょうどチャーハンを食べ終わった浩汰が、スプーンを置いて入谷を見上げる。 「おゆうはんたべたら、おふろだよ」 「えっ? お風呂?」  いきなり風呂という応えが返ってきて、入谷は面食らった。今呟いた『どうしようか』は、この先どう高嶺にアプローチしていったらいいか、考えあぐねてつい漏らした独り言だったのである。  目が合うと、浩汰は無邪気に笑いかけてくる。 「でも、入谷くんはそろそろ……」  社に戻るからと言いかけて、言葉を引っ込めた。  一緒に風呂に入ろうと誘ってるのではないにしても、キラキラするその瞳には『まだ帰らないよね』という期待が見える。  父親がそばにいながら放置状態で、寂しい思いを我慢しているに違いないのだ。健気な気持ちを考えるとかわいそうで、帰るに帰れないではないか。 「うん。じゃあ、お風呂いこ」  もう少しいてやろうと決めた入谷は、大きく頷いて見せた。  このあとの仕事は編集部に居残るなり、持ち帰るなり、どうとでもなる。会ったばかりでこんなに懐かれたら、情も移ろうというものだ。 「そのまえにぃ」  浩汰は忙しなく駆け出す。 「ふぇるめーるにごはん」  棚のフェレットフードを手に取ると、隅に置かれたケージの前にペタンと座る。  エサがもらえると理解しているフェルメールは、長い胴を伸ばしてソワソワと催促。浩汰がエサ箱にフードを入れると、さっそくボリボリと食べはじめた。 「ペットの世話も浩汰くんがするんだ?」 「ぼくのふぇるめーるだもん。おせわするやくそくでかってもらったの」 「そっかあ。偉いねえ」  つくづく感心させられる。本当に驚くほどしっかりした子だ。自分が五歳の頃はなにをしていたかと考えると、ひたすら遊んでしょっちゅう叱られていたような……。犬を飼っていたけど、エサやりなんてしたことはない。  親がだらしないとこんなに自立するものだろうか。反面、良くもあり悪くもありで、複雑な心境で浩汰を見てしまう入谷だ。 「お風呂はどこ?」 「うえー」  浩汰は天井を見上げて指を差す。  入谷は浩汰と手をつなぎ、案内されて二階に上がった。

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