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礼二の過去と体の異変【1】
礼二は翼と再会してからというもの、眠る時にはいつも、目が覚めた時に翼がいなくなってしまっているのではないかという不安に駆られる。
それがどうしようもなく怖くて仕方がなかった。
十年近く、会いたくても会えなくて、寂しい夜を過ごしてきた。
引っ越してくる前に持ってきた唯一の礼二の荷物は、翼とまだわだかまりがなく仲がよかった頃に遊園地で撮った写真一枚きりで、何分、何時間でもそればかりを眺めて、寂しさを紛らわせて過ごしていた。
翼に会いに行こうとして、何回も一人で電車に乗って、出かけた事がある礼二だったが、方向感覚が著しく人より劣っている彼は、元いた家にたどり着く事ができずに、迷子になり、大体は駅員に保護されて、仕事帰りに父親が大慌てで迎えに行って、礼二の面倒を見てくれていた人に頭を深々と下げて、お礼と謝罪をするパターンの繰り返しだった。
それは 礼二が実の父親をその手にかけようと、あの事件を起こして隔離病棟に閉じ込められる直前まで繰り返されていて、そのせいで父親も肉体的にも精神的にも疲労がピークに達してギリギリの状態だった。
事件を起こす直前は特に礼二と父との関係もギスギスとしていた。
何回も「人様に迷惑をかけるな」と、繰り返し言う父の言葉は礼二の耳にはまったく届いておらず、翼にどうすれば会えるか、という事ばかり考えていた。
礼二はそんな父をただ「邪魔だなぁ」とだけ思っていた。
その結果、邪魔な物は排除してしまおうという結論に達した。
そういった経緯をへて、起きた事件のせいで、礼二の事が恐ろしくなり、自分の手にはとても負えない、と判断した父親により、礼二は精神病の重症患者が入れられる隔離病棟へと連れて行かれた。
そこで、通常の日常生活を自力で送るのは非常に困難な状態であると診断されて、入院生活を余儀なくされる事となった。
礼二の病は治療法もこれといって確実と呼べるものも無く、多くの事が分からない状態であると医者に聞かされて父親は頭を抱えた。
――それから礼二はほぼ軟禁状態で自由の無い窮屈で退屈な入院生活を二年近く余儀なくされた。
窓もなく、ただ四方を白い壁で囲まれた、殺風景なベットだけがある部屋で、ずっと翼の事ばかり考えていた。
唯一、病室に持ち込むことを許された翼と二人で取った写真を日がな、一日、ただ眺めるだけの毎日だった。
何もすることはなく、時計もテレビも無い為、どれくらいの時間が経過したかすら分からない、その部屋で一人きりで二年間を過ごした。
一定の時間になると巡回にくる看護師と医者。
たまに部屋から出て看護師と共に部屋の外を歩いたりしたが、何もない所を、ただ同じような風景の続く白い廊下をぐるぐると歩いてまわるだけ。
処方された精神安定剤などはちゃんと飲んでいた。
飲まないでいても、いろいろと調べられれば、結局はバレてしまう事になんとなく気付いていた礼二は、出来るだけ早くこの施設から出してもらえるよう、あまり軽率な行動は取らないように心がけて、ちゃんと医者や看護師の言う事を素直に聞き、比較的大人しくしていた。
毎日、毎日、同じ、時間にやってくる看護師や医者。
週一回の感覚でカウンセリングを受けさせられた。
よくわからない心理テストを受けさせられて、積み木やパズルのようなものをさせられたり、とてつもなく、つまらなくて退屈な質問をされたりして、礼二はうんざりしながらも適当に答えていた。
「この絵本の中の模様は何に見えますか?」
そう聞かれて礼二は適当に答える。
「潰れた心臓」
それを聞いた医者と看護師がひそひそと何かを話している。
――退屈すぎて本当に気が狂いそうだ。
翼のいない世界はなんて、退屈で、そしてこんなにもつまらないものなのだろうか。
翼以外の人間は本当につまらない。
そんなことを考えていると
「今日のテストは終わりです」
と声をかけられ、礼二は看護師と共に診察室を出た。
代わり映えのしない長い廊下を看護師と共に歩いて自分の病室へと戻る。
帰る途中の部屋からすすり泣く声や鉄製のドアをいつまでも叩き続ける音。
奇声、悲鳴、なにかを擦るような金属音。
おかしな奴らばかりが真っ白い部屋に閉じ込められている。
自分までなぜこんなおかしなところに閉じ込められているのかが分からない。
(一刻も早く、この施設から出て、翼に会いに行かなければ本当に自分までおかしくなって気が狂ってしまいそうだ……)
礼二は自分が精神病であるという自覚がないタイプだった。
そう言う場合はそれを少しづつでも理解させていく事も必要になるが、状態によってはそれをしないほうがいい場合もある。
非常に扱いにくく、難しい病気だった。
二年近く続いたそんな生活のせいで表面上からは快方に向かっているように見えただけで礼二の精神はより酷く蝕まれていった。
翼にはやく会いたい。本物に触れたい、触れられたい。
ずっと、そればかりを考えていた。
寂しさを堪えて、翼にいつか会える日を夢見て、礼二は写真の中にいる彼をじっとただ見続ける。
写真の中にはいつも変わらず、ピースサインで無邪気に歯を見せて笑う彼がいた。
幼い礼二の肩を抱き寄せて満面の笑みを浮かべた少年。
少しだけ癖のある柔らかな金髪と澄んだ空色の瞳を持つ、礼二にとって誰よりも何よりも愛しい存在。
白い部屋に閉じ込められてからは、自分の足で彼に会いに行こうとする事すら出来ずに、寂しさを堪えて写真を眺め続けて泣き疲れて、眠りに落ちた時に、やっと夢の中でだけ会う事が許された。
そんな日々を過ごしていたからこそよけいに怖くなった。
再会してからは、翼に嫌われたくない。
という思いがよりいっそう強くなった。
もし佐藤との事が翼にばれて嫌われたら、彼は自分を置いて出て行ってしまうかもしれない。
寝て、目が覚めたら、翼がいなくて、全てが夢で、自分はまたあの白い部屋に閉じ込められていて、一人ぼっちのままなのではないか――?
という薄ら寒い妄想に悩まされる。
妄想と現実の境目があまりにも曖昧で、いつかその境界がなくなった時に自分は自分で無くなってしまうような気がした。
眠っている礼二をしばらく傍で見ていた翼だったが、規則的に寝息をたてて深い眠りに付いたのを見計らい、離れようとした。
礼二の閉じられた瞼に雫が浮かんでぽろぽろと頬を伝い流れ落ちていく。
何か怖い夢でも見ているのだろうか、とめどなく溢れて流れ落ちる涙が枕を濡らしている。
眉根を寄せて涙を零して、小さく肩を震わせている礼二をそっと抱き寄せて、頬を伝う涙を手で拭い取ってやる。
深い眠りに落ちても自分が離れようとした途端に涙を零して泣き出した礼二に負けて、結局、翼は礼二が開けてくれたスペースに身を横たえて彼の隣で就寝する事にした。
いろいろあって疲れたのか、何か怖い夢でも見ているのかは分からないが、朝まで傍にいてやろうと思い、礼二の髪を撫でてやり横向きになって向かい合って眠る。
小さい電灯の明かりで浮かび上がる礼二の白い首筋に浮かぶキスマーク。
誰かが付けた痕の上に自分が強く吸い付いて付けたものだ。
そのキスマークを指先でなぞる様にして触れる。
自分が彼を愛しているのかどうかすらまだ分からないのに、礼二が他の男に抱かれるのは嫌だった。
自分以外の誰かに抱かれている礼二を想像するだけで沸々と怒りがこみ上げてくる。
――こんなのはきっと、ただの身勝手な独占欲でしかない。
礼二が誰か他の男に抱かれたと知った時に抱いた感情。
当たり前のことすら何も知らない礼二が、こうなる前に誰かと性的な意味で寝た経験があるとはとても思えない。
父親から聞いた話によれば礼二は、この学園に入学するちょっと前まで入院していたらしいのだ。
礼二の初めてを奪った誰かに憎しみと怒りと、そして嫉妬のような感情を抱いている。
無知だった礼二に性的ないたずらをして、彼の体に持て余すほどの快楽を植えつけた誰か――
見つけ出したら自分がその誰かに対して何をしてしまうのか分からない。
生まれてこのかた、ここまで誰かを憎んだ事はない。
だがしかし、怒りや憎しみだけに囚われて我を忘れてしまっては、結果的に礼二を守る事が出来ないかもしれない。
今はまだ一人で生きていけない礼二を自分が傍にいて、当たり前のことが当たり前に出来るように、いろいろと教えてやって後押ししてやらなければならない。
いつまでも、ずっと傍にいてやることが出来ればそれに越した事はないのだが、人の想いは移ろい行くもので、壊れやすく、そして絶対に明日が訪れるという保障はどこにも無い。
もし、礼二を置いて自分がいなくなるような事があれば、彼は後を追うように自身も消失する事を望み、それを迷わずにきっと実行するだろう。
自分の身を省みる事さえろくにしない彼に、命の大切さを教えてやらなければならない。
だから、何か小動物でも買い与えて、彼に世話をさせようと思う。
小さな命が一生懸命に生き、新たな命を生み出し、育んでいく様を間近で見て、触れて、礼二が自分で何かを感じられたら、見つけられたら、めいいっぱい抱きしめて、頭をいっぱい撫でてあげようと思う。
いきなり、小動物を買い与えるのも怖いから、まず何かぬいぐるみでも買い与えて、様子見をしよう。
それを大事にするようなら、小さな生き物を買い与えて世話をさせよう。
めだか、小鳥、ハムスター、うさぎ、まだ何を買ってあげるかは決めていないけど、礼二を連れて行って彼自身に選ばせようと思う。
何を飼うというか分からないけど、彼が気に入った小動物を買ってあげることにしようと思う。
明後日の日曜日、4月4日は礼二の誕生日だ。
彼は18歳になり、自らがやる事に責任を持たなければならない歳になる。
もう大人といってもいい年齢だ。
だから明日は隙を見て礼二の誕生日プレゼントを買いに行かなければと翼は考えていた。
翼が自ら礼二の誕生日を祝ってやるのは思えば初めての事だ。
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