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初めてのお留守番~佐藤といっしょ~【9】

 自分と翼のどこがどう違うというのだろうか?   見た目だけで言えば翼は金髪青眼で顔立ちは幼く、多くの人から見て可愛らしいとか綺麗だとか評される類の容姿といえるだろう。  外側から見た感想なら自分も翼にはじめて会ってその姿を見た時にそんな印象を持っていた。  けれど少しだけ会話をして礼二との事もあって彼と関わった事で内面的な性格が少しだけ透けて見えてきた。  面倒ごとを嫌い、平穏無事に何事もなく日々を過ごす事を望んでいるような、変化の無い当たり前の日常を幸福と捉えているような節がある。  そのせいか礼二に執着されて人前で甘えられる事をあまり良く思っていないようで、何かあればすぐに抱きついたりしがみ付いたりしようとしてくる彼をうっとうしそうに引きはがしていた。  礼二にこんなにも深く愛されている事も翼にとってはただうっとうしくてそして面倒なだけなのかもしれない。  出来る事なら自分が翼に成り代わりたいとさえ思う。  礼二に無条件で愛されて求められているのを迷惑そうに跳ね返して自分の生活を彼に脅かされないようにとそれにばかり固執して必死になって礼二の一途で健気な想いを無下にしている翼を傍から見ていて酷く苛立ちを感じた。   自分が翼の立場であったなら礼二の気持ちに全て応えてやれるし、彼の望みを全て叶えてやって、無下にしたりはしない。  そう思う一方で実際に翼が礼二の気持ちに応えて、彼と肉体的にも精神的にも結ばれて幸せになる姿を思い浮かべるとそれを引き裂いてやりたいという激情に駆られる。  どうすれば自分を自分として礼二に見てもらえるだろう。  礼二の事を重荷としか思っていない相手にさえ、自分が劣っていると考えると怒りと屈辱で神経が焼ききれそうになる。  一人の人間にここまで深く愛され想われる様な価値が一体、翼のどこにあるというのだろうか?  結局のところは佐藤は佐藤であって翼は翼だ。  翼本人が何を考え何を思って、礼二に接しているのかは外側から見た印象だけでしかわからない。   「はは…はっ…礼二様は本当に馬鹿ですね」  乾いた笑い声を漏らしながら、ある程度、落ち着きを取り戻した佐藤が礼二を見下ろしてそんな事を言う。  その声色には覇気がなく、少しだけ疲れたように掠れている。 「翼君は礼二様の事なんてなんとも思ってないでしょうに」  外側から見た印象でそう感じただけで実際に本当にそうであるかまではわからない。  にしても、翼の礼二に対する態度や台詞の端々には彼を重荷に感じているようなそんな感情が見え隠れしている。   「そんな相手の事をどうしてそこまで愛せるんですか?  見返りは何も期待できないし、想うだけ無駄じゃないですか? 翼君にそこまで固執する理由は一体なんですか?」  佐藤の質問に対して礼二がまともな返事を返してくることは期待していない。  自分が言う事をどれだけ礼二が理解しているのかわからないがそれでも佐藤はそんな疑問を彼に投げ掛けずにはいられなかった。    自分もこんな風に誰かに愛される事が出来れば幸せになれるのに……そう思った。  見返りを求めずただ相手を想う礼二の純粋な想いは、自分のように汚れた人間には眩しすぎる。  他人を蹴落として自分だけが幸せになれればそれでいいというような考えを持つ人間で溢れ返っているこの世界で礼二は異質で狂っていると言えるだろう。  誰より純粋で穢れの無い精神を持つがゆえに狂っている。  ――人を愛するがゆえの狂気だ。  狂気と正常の境界は一体どこにあるというのだろう。  礼二の愛は純粋で誰より何より美しく穢れのないものだ。  恋は盲目という言葉が差すようにただひたすらに相手を想うがゆえにそれ以外のことがおろそかになったり、見えなかったりするのだろう。  だからこそ、その穢れの無いただ真っ白なその想いをどす黒く自分色に染めてみたいという欲望が自身の身の内を蟠るのを感じた。  そう、思い返してみれば、自分は礼二にまだ名前すら呼んでもらった事は無い。  礼二にもっとちゃんと自分を認識してもらい見てもらいたい。  名前で呼んでもらいたい。  そんなささやかな願望すら叶えられてはいない。 「礼二様。こちらをもっとよく見てください。今、貴方の目の前にいるのは翼君じゃない」  礼二の頬に手を翳して、自分の方を見るように促して、淡々とした口調で言い聞かせる。 「涙を拭いて、しっかりと、目の前にいるのが誰か確認してください」  そう言いながら礼二の眦に浮かんだ涙を自分の服の袖で拭ってやった。  涙を拭き取ってクリアーになった視界に映る相手を礼二は見つめる。  焦げ茶色の癖の少ないなんの特徴もなくきっちりと短く切りそろえられた髪。  目立たない地味な顔立ちをした男が目の前にいる。  もう名前すら忘れかけてるその相手を礼二はただ無言で見返した。 「佐藤博文……それが僕の名前です」  今更、自己紹介をするというのもどうかしていると思うが礼二に自身の存在を認識してもらうためには必要な事だ。  何かあればすぐに彼の思考は翼だけでいっぱいになり自分などすぐに忘れ去られてしまうだろうからだ。 眉根を寄せて無言でこちらを見返してくる礼二が何を考えているかわからない。  自分以外の他人が考えている事などわからなくて当然のことではあるが、礼二はさらに常人の斜め上をいく様な発言や行動をする。  余計に何を考えているのか予想しにくい。  礼二は無言でこちらを伺うように見返していたが拭いてやったばかりの眦にまた涙を浮かべて泣き出してしまった。 「うっ……うぅっ」  両手を握り締めて幼子がぐずっている時のようにしきりに瞼を擦って涙を拭うしぐさを繰り返す。  一応、こちらが言う事をちゃんと聞いてはいるようで涙で滲んで見えなくなりそうな視界を拭って佐藤を見つめ返す。  佐藤に言われた通りに目の前にいるのが誰か確認しているのだろう。 「礼二様、僕の名前覚えてくれましたか?」 「さっ…さと…うっ…ひろ…なんとか……」  佐藤は礼二の嗚咽交じりの答えを聞いてうなだれる。    翼以外の人間の名前はおぼえようと意識したことがない礼二にとっては特徴のないそして興味も無い相手である佐藤の名前を覚えることが難しかった。  出来る事ならたった今も視界にいれたくない存在で忘れ去りたいと思っている。    翼に貰った大切なクマのぬいぐるみのつばしゃんを五体満足で返してもらおうとそればかり考えて頭がいっぱいで目の前にいる人物の名前がなんであるかと言う事自体は礼二にとっては本当にどうでもいいことだった。  がっかりとしてうなだれている佐藤を見返して礼二はソファーの下のフローリングの床の上に寂しそうに転がっているクマのぬいぐるみをチラチラと見て落ち着きなく、時折、視線を泳がせていた。 「クマのぬいぐるみは礼二様がちゃんと僕の言う事を聞いていい子にしてれば返してあげますから、とりあえず僕の名前をちゃんと覚えて呼んでください」  佐藤にそう言われて礼二はチラチラとクマを見ていた視線を元に戻して涙目のままコクリと頷いた。 「苗字だけは一応、ちゃんと覚えていてくれてたんですね。 さとうって」 「うっ……ん」 「今日から僕とこうやって二人きりの時は下の名前で呼んでください」 「ん……ゎ、かった」 「『ひろふみ』です。博士の博に文章の文で博文」 「ひ…ろ、ふみ…博文……」  礼二の声で紡がれる自分の下の名前を聞いて佐藤は口端を綻ばせて笑みを浮かべた。  下の名前で呼んでもらえたというだけで破顔するなんて自分らしくも無い。  自分はこんなにもたやすい事で幸せを感じるような人間ではなかったはずだ。  それなのに、なぜこんなにも嬉しいのだろうか。

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