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第7話
「ここだけでいけたな」
恥ずかしさと気持ちの良さで呆然となり、浅い呼吸を繰り返しているおれに、ヴェレドリルさまは褒めるように囁いてくる。
そろそろと視線を下ろせば、おれの腹のあたりにはしっかりと白濁が撒き散らされていた。
あまりにみっともない姿に今すぐ消え失せたいような気持ちになるけれど、なぜかヴェレドリルさまはなおも楽しげにしている。おれをからかうみたいな意地悪な笑みの中に、隠しきれない気持ちの高揚が感じられる。
それを見て、おれの胸は再びおかしな動作をはじめた。ぎゅうと締め付けられるように痛み、どんどんと鼓動も早くなりつつあるような気がする。
尋常ならざるその動きに、おれはふと心臓病の可能性を疑った。
怒りすぎて死ぬとか、悲しすぎて死ぬということもこの世にはあると聞くし、幸せすぎて死ぬ、ということも十分に起こり得るのではないだろうか。
行為中に死ぬことを俗に腹上死というけれど、腹に乗られる側のおれが死ぬ場合はなんと言えばいいのだろう。腹下死?
罰(バチ)が当たったんだ、と思う。ヴェレドリルさまは天罰など下さない優しい神様だけど、しかし世の中にはもっと心の狭い神様もいて、きっとおれの罪を見過ごしてはくれなかったに違いない。
今だって、そんなことを思いつつも、同時におれはすさまじく罪深いことを考えてもいるから仕方のないことだと思う。いつの間にか恥ずかしさの中に彼の感情が伝播したように嬉しさも混ざって、ますますおれの思考は正気から離れつつあるのだ。
羞恥心も嫌悪感も全てがくるりと裏返って、もっとやらしいことをしたい、それを見られたいような気分になっている。
例えまやかしの優しさでも、注がれるほどにおれは本性を剥き出しにされて、浅ましい姿を露わにしてしまう。こうしておのれの『正しくなさ』にどんどんと流されてしまう自分に、おれは近頃呆れ果てていた。
もはやどんな罰をあてがえば贖罪を果たせるのやら、見当もつかなくなりつつあるほどである。だから死をもって贖え、と言われても、正直怖いし嫌だけど、仕方がないかなあとも思う。
どこまでも正しいヴェレドリルさまと正反対に、おれはこんなふうにいつだって正しくなんかない。今も、そして昔もそうだ。
おれが自分をヴェレドリルさまに比べてずっと下賤な生き物だと思うのには、このあたりにも原因があるのだ。
おれがおれを初めて『正しくない』と気付いたのは、ヴェレドリルさまの身長がぐんぐんと伸びはじめ、彼がますますαらしくなりつつあった頃のことである。
お前の群れに帰れと言われるすこし前、おれは彼に言われたことがあるのだ。「お前といると、冷静でいられなくなる」、「正しい選択を出来なくなるような気がする」と。
正しさというものの規範みたいに思えるヴェレドリルさまが、しかしおれのせいで正しくいられなくなる。
その言葉は、おれに凄まじい衝撃を与えた。
しかし同時に、おれにはその言葉の意味が完全には理解できていなかった。
おれの何が彼の邪魔になるのか、おれの何が『正しくない』のかと悩みに悩み抜いて、そしてやがておれは一つの事実に気付いてしまった。
その当時、おれはヴェレドリルさまに恋をしていた。あるいは、片想いをしていた。
もちろん今だっておれは片時も休むこと無く彼のことを愛しているけれど、しかしあの頃と今ではその想いの性質は大分異なってしまっている。彼を対等に恋したり愛したりできる相手だとみなすことがどれだけ不敬な行為であるか、当時のおれはまださっぱり理解していなかった。
つまりその頃、おれは彼を愛すと同時に、不遜にも愛されたいとも望んでいたのである。
彼はαで、おれはβだから、おれたちが番になることはできないということくらいはさすがにわかっていたはずだけど、それでも彼にただ愛されることくらいは許されるのではないかとどこかで思っていた。
幼い頃のおれの一番の望みは彼に愛されることで、一番恐れていたのは彼に嫌われることだった。
当時のおれは単純で、馬鹿で、ただヴェレドリルさまが好きだという気持ちばかりを頭に詰め込んで、彼の隣でしっぽを振りまくりながら日々を過ごしていた。
彼とともにいられるだけでおれは常にあたまのてっぺんまで幸福にひたひたに満たされていて、だからそうしておのれが彼に想いを向けるということの意味も、そしてあまつさえ同じだけの想いを与えられたいと望むことの意味も、考えることなんて全くしていなかったのである。
しかし思春期に差し掛かり、その頃にはさすがのおれにもだんだんと世間というものの形が見えてきていた。それが何を許し、何を許さないのかを理解しつつあったのだ。
そしてそんな中でおれの『正しくなさ』について考えたとき、おれはおれの恋が生み出す問題について気が付いてしまった。
万が一おれの望みが叶ってしまったとして。αの彼がβの、そのうえ男のおれを愛したとして、しかしその選択は果たして、ヴェリルを幸福にするのだろうかと。
おれたちはどちらとも貴族の長男で、やがて家督を継ぎ、子どもを残さなければいけないことになっていた。
しかしおれと彼が愛し合ってしまった場合、おれたちはそのどちらの責務も果たせなくなる。そのうえ、きっと奇異の目に晒され、世間にひどく責められることにもなる。
はるか昔、まだヴェレドリルさまの耳やしっぽがまだ灰色をしていた頃からずっと、彼は正しいひとだった。
αだから、大貴族の子息だからと、世の中の多くの人はヴェレドリルさまが生まれつき優秀で特別だったみたいに思っているみたいだけど、おれはそれが間違いであることを知っている。
彼はごく小さな頃から、自分が世間に多くを期待されている立場であることをちゃんとわかっていた。
彼はαに生まれたからαらしく育ったわけじゃなくて、αらしくあろうと努力したからこそ今のような姿になったのだ。
多くの者の幸福を託され、多くを導くことを求められているαであることを自覚していたからこそ、ヴェレドリルさまはいつも正しくあることにこだわってきたのだと思う。倫理観や常識に裏付けされた『正しさ』こそが、最大公約数の幸福につながるはずだと信じて。
おれはずっとそういうヴェレドリルさまが好きだったし、彼の『正しさ』を全面的に支持したいと思っていた。なのにも関わらず、その正しい道を外れて全てを投げ捨てる選択を、おれは知らずにヴェレドリルさまに求め続けてもいたということなのである。
この恋のほとんど破滅的なまでの『正しくなさ』についぞ気付くことなく、おれはそれまで彼にあけすけな好意をさらけ続けてきたのだ。
おれは自分の馬鹿さ加減を恥じ、そして正しくない恋を呪った。
しかし正しくないと理解していても、恋というのはどうにも制御の効かないものである。
人は正しいことだから――例えば健康にいいから、偏差値が上がるから、スタイルが良くなるから恋をするわけではないし、また相手が殺人犯だろうが親の仇だろうが、恋に落ちる時は落ちてしまうものである。
八方塞がりの行き場のない恋を抱えたまま、それからおれはいつおれの『正しくなさ』を彼に悟られるだろうかと、ずっと怯えて過ごしていた。彼の側にいられなくなることを、彼に嫌われることを、彼を不幸にすることをおれは恐れ続けた。
そしてそれからいくらも経たないうちに、まさしくその恐れをなぞるように、おれは彼から決別を宣言されたのだった。
群れに帰れと言われたとき、おれは多分どこかしらぶっ壊れてしまったのではないかと思う。おれの恋は間違いなく死んでしまったはずだというのに、しかし好きだという感情だけは、息の根が止まるその日まで延々と続くのではと思えるくらい強烈なままやっぱりずっと心のなかにあったからだ。
だからおれは『信仰』に目覚めた。そうすれば彼に『正しくなさ』を押しつけることもなく、ただ彼を愛することだけができるからだ。
同時におれの正しくない恋は、きっちり荼毘に付した。多分それは今も、貴族学院の中庭あたりに土深く埋められているはずだ。
今のおれが一番に望んでいることはヴェレドリルさまが幸福であることで、一番に恐れていることはヴェレドリルさまが不幸になること。それがおれの信仰の形であり、おれにとっての正しさだった。
信仰に出会ったあの日、おれは多分、神様に供物を捧げるように心臓をヴェレドリルさまに捧げてしまったのではないかと思う。というのもそれからというもの、痛みも苦しみも悲しみも、ついぞおれの心には響くことがなくなったからだ。
失恋の悲しみも、彼に嫌われているということの苦しさも、その日以来おれの中からはさっぱり消え失せてしまった。
ずっとそんなふうだったから、例え実の親に売られようが、全然好きじゃない男に抱かれようが、人以下の存在として粗末に扱われようが、おれは正気を保って生きてこられたんだと思う。
おれが喜ぶときはヴェレドリルさまにいいことがあったときだし、悲しむのはヴェレドリルさまによくないことがあったとき。
つまりおれの幸福も不幸もすべてヴェレドリルさまにアウトソーシングされており、そして徹頭徹尾『正しい』ヴェレドリルさまはいつでも幸福であってくれるはずなので、よっておれもいつでも幸福でいられる。
そうして永遠の幸せを齎してくれるヴェレドリルさまに、どんなに離れたところにいたってずっと、これまでおれは救われ続けてきた。
だからおれは、できるならずっとこのままでいたいと思っている。遠くから神を崇拝するように、彼を愛するだけの自分でいたい。
だというのに、おれは近頃おかしいのだ。
常に平穏無事に凪いでいたおれの胸は、しかし彼との関わりが深くなればなるほど、ざわざわと不気味に活性化しつつある。
もしかしたら、ヴェレドリルさまは昔おれに心臓を捧げられたのが迷惑で、だからおれに触るたび分割でそれを返却しているのかもしれない。おれの心臓は彼に抱かれるたび、どんどん質量を取り戻していっているような気がするからだ。
そして当然その心臓は、彼にそれを捧げた頃とそっくり同じ形をしている。ずっと昔、彼を愛すると同時に、愛されることも期待していた頃と同じ――
「……どうした?そんなに嫌だったか?」
ヴェレドリルさまが顔を青くしてそう尋ねてきて、おれは自分がぼろぼろと泣いていることに気付いた。涙は全くおれの制御を外れて、次から次に頬を伝っていく。
驚いた様子の彼と同じくらい、おれも自分の有様に驚いていた。
最中に泣き出すなんて相手を激しく萎えさせてしまうだろうし、性欲処理とかセックスとか関係なく完全にマナー違反である。
発情を抑えつつ後ろを慣らしてやって、いざ挿れようという時に泣かれるなんて、ヴェレドリルさまも正直勘弁してほしい気分だと思う。
「あっ、うぇっ、ぇっ……ごめ、ごめんなさ……ひっ、い、今、止めます、からっ……」
「……」
しゃくりあげながらなんとか言うと、ヴェレドリルさまは呆れたようにため息をついた。
早速萎えさせてしまっただろうかと思ってビクついていると、彼はなぜか子どもをあやすみたいにおれを抱きしめてくれる。
腹のあたりの汚れが彼についてしまうのではないかと思って必死に押しのけたけれど、ほとんど無意味な抵抗だった。
「……いちいち謝らなくていい。無理やりされたのが嫌だったのか?」
「む、無理やり……?全然、無理やりなんかじゃないよ。ヴェリル、いつもすごくやさしい。だ、だから、おれ……」
幸せすぎて、死にそう。
しどろもどろにそう言うと、おれの首元に顔を埋めている彼が息を呑んだのが分かった。
突然ヘビーすぎる体調不良を申告したせいで引かせてしまったのだろうかと思っていたら、ヴェレドリルさまは思い詰めたような声色で囁いてくる。
「……俺もだ」
同時に肩に回された両手によりいっそう力が篭り、苦しいほどに強く抱きしめられた。
俺もだ――それはつまり、ヴェレドリルさまも生死に関わるほどの体調不良に見舞われているという意味だろうか。
だとしたら、非常に不味いとおれは青ざめた。おれなんかが死んでも大した問題ではないと思うけど、ヴェレドリルさまが死んだら多分世界は終わってしまう。
大丈夫ですか、一体どういうことですかと聞き返そうとした途端、ヴェレドリルさまは身体を離して、おれをくるりとうつ伏せに返した。
それから後ろに確かな熱量が押し当てられ、制止する暇もなく彼のものがぬるりと侵入してくる。
「あっ、ぁあぁっ」
挿入しながら、背中の上にぺたりと腹をつけるようにして彼が伸し掛かってきて、肩が落ちて尻だけを高く上げるような体勢になる。
おれが腰を上げるのと同時に、途方もない質量のものがずるずると中を擦り、すんなりと奥の奥まで進んで、すっかり根本までがおさまってしまった。
もともとαのそれは、大柄な体格に見合って他の性より大きいと言われている。そのうえ特にヴェレドリルさまのものは、おれが今まで相手をしてきたどのαのものよりも存在感があるような気がしていた。
処女でもないおれにすら、最初は全部挿れるのも大変なほどだったが、しかし今ではあっさりと中におさまってしまう。まるで剣がしつらえられた鞘に戻るみたいに。
「全部入った……お前の中は、もう俺の形になってるな」
耳元で吐息を吹き込むみたいに囁かれ、ひどい羞恥に襲われる。
しかし同時に、まるでその言葉を確かめるように中が独りでに狭まってしまった。
すると彼はそれに応えるように、おれの両手を絡め取るように握りしめてくれる。
身体を後ろから串刺しにされ、抑えつけるように伸し掛かられ、そのうえ手まで拘束されて、もうまるで身動きが取れない。
それがひどく心細いのに、おれの自由を奪ったのが彼であることが嬉しくもあった。
再び勝手に涙が溢れてくるくらいにその喜びは深くて、おれの正気はまたしてもどこかにいってしまう。
これは惑星衝突だから、とか、教義に反しているから、とか、あるいは激しい運動は体調が悪いらしいヴェレドリルさまには良くないのではないか、といった考えは全て消し飛んで、ただ早く彼に求められたくて仕方がなくなる。
「ぁうっ、」
知らないうちにおれは勝手に腰をうごめかしていて、するとヴェレドリルさまはそれを咎めるみたいに中を一度強く突いてきた。
彼に抱かれるうちに善くなってしまった場所は乳首だけじゃなくて、腹のずっと奥の方にある行き止まりもそうだった。今みたいに突かれるとじんじんと響いて、切ないような気持ちの良さが体の奥で弾けるのだ。
いつものような律動運動でなく、それが一度きりで止んでしまったことが寂しくてまた腰を揺らめかせると、ヴェレドリルさまは動きを封じるようにおれの肩口を噛んでくる。
「ひっ、ぅ、」
「……今、お前が誰に抱かれてるかわかってるか?」
答えないと、動いてくれないつもりなのだということが何となくわかった。急かすように先端を行き止まりにぐりぐりと押し付けられて、たまらずおれは叫んでいた。
「ひあ、ぁ、ヴェ、ヴェリル……おれ、いま、ヴェリルとせっくすして……ぃぁあっ」
終わりまで言い切らないうちに、まるで待ち構えていたようにヴェレドリルさまは腰を動かしはじめた。
実際前戯の間も含め、彼は相当に耐えてきたのだろうと思う。堪えたものを吐きだすように、その動きにはまるで遠慮がなく、貪るように激しいものだった。
けれどけして、乱暴に扱われているようには感じない。むしろ彼の想いを真摯にぶつけられているようで、熱が激しくこすれあうのが心地よくて仕方ない。
「ソレラ……ソレラ、」
獣の耳に吐息があたるように繰り返し囁かれ、おれはその度に達しているような気がした。彼の長大なものに中をくまなく擦られて、いいところもそうでないところも全てが気持ちよくて仕方ない。
何度も意識が飛びそうなほどの快感に襲われて、そしてその度にそれ以上の快感に意識を引き上げられる。
身体に力が入らなくなり、人形のように揺さぶられながら、それでもおれは彼がちゃんと満足しているかが心配だった。だから必死で彼に合わせるように腰を動かし、後ろを締め付ける。
「う、」
低く呻く声が聞こえ、彼のものがぐんと質量を増すのがわかった。
リカントロープの体の構造はほぼニンゲンのそれと同じだが、αの陰茎のみは狼の特徴を残しており、メスの中で射精を始めるとそう簡単には引き抜けないように根本が膨らむのだ。そのうえ、その射精は軽く十分程度は続く。
入り口がぐ、と圧迫されるのと同時に、中に熱いほとばしりを感じて、おれは何とも言えない満足感に包まれた。
ちゃんと彼が感じて、おれの中に出してくれたということにひどく心が満たされる。
何度繰り返しても、この息の詰まりそうな充足はいつも変わることがなかった。そうして出しながら、同時に彼はうなじに噛みついてきて、おれはまた軽く達してしまう。
最初の夜とは違う、それはただ甘噛するような優しい噛み方だ。射精するとき、彼はいつもこうしてうなじを噛むので、おれはいつのまにかそこに噛まれただけで気持ちが良くなるようになってしまった。
長い射精の間中、そこを舐めたり喰んだりされ、おれの意識はいつも高みに上ったまま下りてこなくなってしまう。
Ωは基本的にとてつもなく妊娠確率の高い身体の仕組みをしているが、しかし番を得たΩはそれには当てはまらない。
発情状態のΩは性交の刺激により問答無用で排卵するが、番を得たΩは性交に加え番の匂いを感じられなければ排卵しなくなるからだ。つまり、番のいるΩは基本的に番の子しか妊娠しないということである。
よっておれはいつどんな状態でヴェレドリルさまに中に出されようが、絶対に妊娠することはない。そしてそれはきっと、ヴェレドリルさまにとってはいいことなのだろうと思う。
レイプしてしまったうえ、妊娠までさせてしまったら、彼が感じる罪の意識はきっとより一層重くなる。ただでさえ『正しくない』行為だというのに、そのうえ何かしらの後腐れが残るというのは非常によろしくないだろう。
けれどやっぱり、あさましいおれは悔いずにはいられなかった。
毎度毎度こんなに出してもらっているのに、全て無駄になってしまうのはなんとももったいない。
こんなことになるのだったら、別に認知してもらいたいとか、父親になって欲しいなんて大それた事は望まないから、せめて彼の子どもを産んで育ててみたかったと思う。事実上文無し甲斐性なしのおれが願うには、あまりに無責任過ぎる夢だとは思うけれど。
しかしそれはもう、とっくに叶わなくなってしまった夢である。
引かない絶頂に白んだ意識の中で、おれはふいにそれがとてつもなく哀しくなった。
やっぱり今ではおれの胸には間違いなく心臓がおさまっていて、そしてそれは彼に触れられればこうして痛む。心臓病の一歩手前かと思ってしまうくらいに激しく、苦しく――でも、何となく懐かしい痛み。
本当はおれは、その痛みの名前を知っていた。なぜならそれはかつてのおれがよく知っていたものだからだ。かつてのおれが、手放してしまった痛みだからだ。
「ヴェリル……」
彼の名に繋ぐようにして、無意識のうちに唇が二文字の単語をつむぐ。
音になったかどうかはわからなかったが、応えるみたいにヴェレドリルさまは俺の手を握り締めてくれた。
それが嬉しくて、けれど息が出来ないくらいに苦しくて――終わりの見えない快楽に溺れながら、気付けば俺は意識を飛ばしていた。
◇
いい匂いがしたんだ、そう彼は言った。
妙にあかるい夜だった。月光のまばゆく照らす中、森に迷い込んだおれを救い出してくれたヴェリルに、おれはまずはじめに聞いた。どうしておれのいた場所がわかったの、と。
すると彼は言った。いい匂いがしたんだと。甘い花の蜜みたいな、思わずあとを追ってしまいたくなるような匂いがしたのだと。
それから彼はおれについと顔を近づけて、鼻をひくひく動かしてみせた。
「不思議だな、今はしない……でもきっと、お前の匂いだ」
白い歯をみせて屈託なく笑った彼に、おれの胸はぎゅうとなった。
張り裂けそうに痛んで、苦しくて――そしておれは、彼に恋をしたことに気がついた。
◇
目が覚めると、おれはヴェレドリルさまの腕の中にいた。どろどろだったはずのおれの身体はすっかり綺麗になり、そんなおれを抱き込むようにしながらヴェレドリルさまはすやすやと眠っている。
いつのまにやら彼は気をやったおれの身体を洗って、おれの部屋まで運んで、おれのベッドに寝かせてくれたらしかった。しかもそのうえ、彼はおれと添い寝をしている。
ヴェレドリルさまの用意してくださったおれのベッドは成人男性が二人横たわっても十分な広さがあるのでスペース的には問題はないが、しかし状況としてはこれは大問題だった。
彼に行為の後始末をさせてしまったことも、おれを運ばせてしまったことも、一緒に同じベッドで寝ていることも、何もかもが大問題である。
実は寝起きにこのような状況になっていることは初めてのことではなく、むしろ近頃では一週間に半分くらいはこんなパターンでおれは眠りついていた。
最初の頃は、あまりの畏れ多さに耐え難い気持ちになっておれだけ床で寝たりもしていたのだが、しかしそういうことをするとヴェレドリルさまが悲しんだり、怒ったり、「そんなに嫌なら俺は一階のソファーで寝るからお前はベッドで寝ろ」などと言い出してしまうことがわかったので、近頃では大人しく彼と一緒に眠るようにしている。
彼と肌がぴたりと触れ合っているような状況でおれが心穏やかに眠ることなんかできるのかと言えば、不思議と問題なくねむれた。それどころか、おれは極めて安らかで深い眠りに落ちることが出来た。
はじめは心臓が爆発しそうに緊張していても、間近から香ってくる彼の肌の匂いに包まれているうち、なんだかおれはだんだんと安心しきってしまうのだ。おれはずっと昔から、彼の匂いが好きだった。
そういえば今日は満月のようで、天窓からはまぶしく月光が差していた。
彼のほうに寝返りをうってみれば、その光がちょうど彼の顔のあたりを照らしていることに気付く。長いまつげが光を受け、ふるふると細かく震えて、息を飲んでしまうくらいに美しかった。
それを見て、おれはやっぱりつくづく彼が好きだなあと思う。
そして思うと同時に、性懲りもなくまたおれの胸は痛む。
絶対に許されない、一度は諦めた痛みだ。
しかしかつて思い知ったように、この世にはどうにも制御ができないものというのが存在して、それは生まれてしまったからには好き勝手に暴れ続けるものである。
おれはおれを、世界で一番幸せだと思っている。
なぜなら今おれは世界で一番の職場に務めていて、そして世界で一番素晴らしい人に雇われているから。
けれどそんなおれにも、ただ一つだけ悩みがあって――それはその素晴らしい人に、どうやら恋をしてしまったらしいこと。
この恋を認めるということは、信仰を失うということだ。畏れ多くも、対等な愛情を彼から与えられたいと望むということ。
依然として正しくないおれの恋はきっと、また悲惨な形で死を迎えると思う。
けれどそれでも、おれにはまだそれを殺そうとは思えない。彼がこうしておれを抱きしめてくれるうちは、おれはけしてそれを手放せないだろうと思う。
月光に明るく照らされた彼は、けして触れることの許されないもののように神々しい。
けれど恋とは、はた迷惑なものである。欲深いものである。与えると同時に、与えられたいとも望んでしまうものである。
そういえば、社内恋愛は禁止なのか彼に聞いていなかった。片想いが恋愛のうちに入るなら、今度こそおれはクビかもしれない。
そう思いつつ、生まれて初めて、おれは自分から彼にキスをした。
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