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第6話

 そう、ヴェレドリルさまは優しい。  本来は望まない行為の最中、それもフェロモンに理性を大半食い破られたような状態であっても、彼はおれなんかにとても優しくしてくれる。  ほとんど正気を失ったような状況ですら、彼は歪みなく紳士なのである。  つまりそれは、やっぱり彼がいつだって正しいことをするということの証明でもあると思う。  おれみたいな性欲処理にうってつけのΩを前にしても、しかし相手が何者であれ人を性欲処理の道具として扱うというのは倫理的に正しくないことなので、よってヴェレドリルさまもおれをちゃんと人として抱こうとしてくれている。  気持ちよくセックスできるなら誰でもいいと思っていたに違いないゴシュジンサマやお客たちと違って、ヴェレドリルさまはきっとおれをおれという一個人として認識しながら触れてくれている。そう扱われていることが、彼のうやうやしいほどに丁寧な手つきからはいちいち伝わってくる。  おれはそれに心底感嘆し、感動しているけれど、しかし正直困ってもいた。基本的におれはヴェレドリルさまのやること為すこと全てを全面支持する心構えで生きているけれど、しかし近頃のこういった行動だけは、正直あんまり関心できないと思っている。  要するにヴェレドリルさまは、そもそも全世界的に見ても許されざる行為であるこの”セックスのような何か”を、無意識のうちに少しでもものに近づけようとしてしまっているのだと思う。  事故が不可避のものであるなら、人権侵害である性欲処理的なセックスではなく、両者の同意のもとに行われる想いの通じ合った”正しいセックス”を目指すべきだと、彼はどこかで思っているのだろう。  つまり行為中の彼の優しさも丁寧さも、全て『正しさの証明』のための手段だということである。  しかし優しさという姿をした正しさなんて、正直ちょっとたちが悪いとおれは思う。  なぜならそれは、なんというかとてつもなく、愛情というものに似ているからだ。愛するものを慈しもう、労ろうとする仕草に、そっくりな形をしているような気がする。  本来百メートルくらい離れた距離からヴェレドリルさまを見つめるだけでも大興奮できてしまうおれにとって、その愛のような形をしたものを彼にごく至近距離で――というかセックスみたいな行為の最中に――示されるということは、当然ながら刺激の強すぎることだった。  頭ではそれが単なる『正しさ』なのだと理解していても、しかし身体の方はどうにも制御が効かなくて、触れられれば触れられるほど階段を転げ落ちるみたいにぐずぐずになってしまうのだ。しかもぐずぐずになりながらも、おれの頭にはこんな考えが過ぎることがある。  『正しさ』のためだけに、本来愛しているわけでもないおれにこんなに優しく触れることができるヴェレドリルさまは、では本当に愛している人を抱く時、そのひとに一体どれだけ優しく触れるのだろう。  糖蜜のように甘ったるくおれを呼ぶこの声よりもっと甘く、そのひとの名を呼ぶのだろうか。  熱っぽい目で見つめるのだろうか。  キスをするのだろうか。  そしてそれを思う時、おれの胸には痛みが走る。  ずいぶん昔から、何が起こってもほとんど痛むことのなくなっていたおれの空っぽの胸が、なんだか鮮やかで懐かしい痛みに苛まれ始める。  彼の正しさのもたらすこうした現象に、近頃おれは困り果てていた。  本当に、本当にひどく困って、今やどうしていいのかさっぱりわからなくなってしまっている。  いつのまにかヴェレドリルさまは随分と手際よくおれの服を脱がせ、気づけばおればかりが一糸まとわぬ姿でラグの上に寝転んでいる状態になっていた。暖炉が近いので寒くはないが、その火に身体を明るく照らされていることがいたたまれなくて仕方がない。  ヴェレドリルさまはおれを押し倒した体勢のまま、こちらをじいと見つめてくる。 「しっぽ、揺れてるぞ」  ついと身体を寄せてきた彼が、耳に吹き込むように囁いてきて、おれは気が遠くなりそうになった。  死ぬほど恥ずかしいのに、けれどなぜか彼の声がうれしそうに弾んでいるように聞こえて、なんだかどうしようもなく温かい気持ちにもなる。  彼の言うとおり、おれのしっぽはずいぶん前――きっと彼に耳をグルーミングされていた頃からずっと、ゆらゆらと左右に揺れてしまっていた。  幼いころ、おれはとてもしっぽのたちだった。  すこし嬉しいことがあったり、楽しいことがあっただけでも無闇矢鱈にしっぽを振ってしまうのを、しかし学生の頃ヴェレドリルさまに諌められてからは、あまり分別なく振り過ぎないようにずっと気をつけてきた。彼の側にいられなくなってからも、おれはその言いつけだけは頑なに守り続けてきたのだ。  しかしここで働くようになってからというもの、そうして長年培ったおれの自制心はどんどんと役に立たなくなりつつあるような気がする。  近頃おれは、ほんの些細なこと――遠くからヴェレドリルさまがやってくる足音が聞こえればそれだけで、もうそれはぶんぶんとしっぽを振りまくってしまうのだ。  それどころか、彼の視線がおれの方を向いていることに気付けばまた揺れるし、名前を呼ばれるだけでも揺れるし、乱暴に腕を掴まれたって揺れる。そしてもちろん、彼にこうして触れられても揺れてしまう。  きっとあまりに許容量を超えたような出来事ばかりが起こるので、感情が用意されたコップを溢れ、身体の中をひたひたに満たして、しっぽを振って発散でもしなければ決壊してしまいそうになっているのかもしれない。  長い時間をかけて、ただヴェレドリルさまを崇拝することにだけ特化して(しつら)えてきたおれのこの身体が、内側からばらばらに壊されそうになっているのだ。 「……キスをしても?」  すぐさま触れてしまいそうなくらい唇を近づけて、ヴェレドリルさまが呟いた。  キス阻止が失敗に終わってからというもの、なんだかヴェレドリルさまは逆にキスというものにこだわるようになってしまった。行為のはじめにいつも彼は、こうしておれにキスをしてもいいかと乞うてくるのだ。  今ヴェレドリルさまがどの程度発情しているのか、おれにはよくわからない。けれどきっと、嫌だと言えばやめてくれる程度には彼は正気を保っていると思う。  つまりこれは、拒む余地のある行為だということだ。  そもそも無理矢理に組み伏せられた初めの数回と違って、多少の理性を取り戻してからの彼との行為はいつだって『拒む余地のある』ものだった。今だって、別にヴェレドリルさまはおれを抑えつけているわけではないのだから、おれは簡単にしっぽを丸めて逃げ出すことができるはずなのである。  おれみたいな問題の多いΩとヴェレドリルさまがセックスするなんて一大スキャンダルなので、あなたに抱かれるわけにはいきません。当然キスもできないし、ヴェレドリルさまがおれに優しく触るのもアウトです。あなたはおれとは絶対にセックスしちゃいけないんです。  おれにとっての『正しさ』をそう声高に宣言し、彼の手を撥ね退けてこの場から立ち去るべきなのだと、おれはずいぶん前から気付いていた。  発情状態の相手を途中で放置するというのはそれはそれで酷なことかもしれないけれど、しかし行為を『性欲処理』の域に留めておけなくなった時点で、おれにはそもそもそうする他に選択肢はなくなっていたはずなのである。それにヴェレドリルさまはある程度は正気なのだから、真剣に説得すれば発情が鎮まる可能性だってある。  けれどおれはそれをしない。どうしてもそうできずにいる。  ごくごく近くからおれを見つめるヴェレドリルさまの瞳には、いつでもひどく切実で、飢えたような光がちらついている。  穴が開きそうなくらいただおれだけを見つめて、世界中でおれだけを求めているのではないかと勘違いしてしまいそうになる視線。  彼にそんな目で見つめられていると認識するだけで、おれの心はわけもわからず震え、水の中に顔をつっこんだみたいに息がうすくなって、気付けばいつでも冷静な判断力をすっかり失っているのだ。  これから起こることの意味も、自分が何者であるかも忘れて、彼に何もかもを差し出してしまいたくなってしまう。  今日も気付けばおれはこくりと頷いていて、するとヴェレドリルさまは待てを解かれた犬みたいにすぐさまおれの唇を奪った。  彼の目指す正しいセックスにおいてキスは間違ったことではないのかもしれないけれど、おれのにおいてはそれは重大な過ちである。  しかし禁忌を犯しつつあることを悔いるより先に、彼とキスをしているということの喜びが波濤のように襲ってきて、おれの思考はあっという間に押し流されてしまう。  そう、おれは。  おれの不手際(フェロモン)によって彼とこうして繰り返し肌を重ねてしまっているということを、おれは畏れ多くも申し訳なくも思っているけれど、しかし本質的には、どうしようもなく喜んでいる。  当たり前だ、おれは彼のことが好きなのだから。  本当のことをいえば、うなじを噛みちぎられたあの最初の夜ですら、おれはどこかで彼に暴かれていることを喜んでいたような気がする。  やっと彼に――に、抱いてもらえたんだって。  ヴェレドリルさまは一旦唇を離すと、いつの間にかしっかりと手元に用意されていたローションを手のひらに垂らした。それからいつものように、おれの片足を抱え上げてそろそろと後ろに触れてくる。  事故は本当にところ構わず起こるので、最近ではおれの家にはいたるところにローションのボトルが置いてあり、暖炉のマントルピースの上にもちゃっかり常駐している。  日常を過ごす場所にこういった道具が置いてあるというのは、性奴隷なんてことをやっていたおれにすらどうにも気恥ずかしく思える。けれどあちこちでヴェレドリルさまに抱かれまくるうち、便利なので何だかそのままにしておくようになってしまった。  おれを気遣っていつも後ろを慣らすことを忘れないでいてくれるヴェレドリルさまに、いちいちローションを取りに行かせるのも申し訳ないと思うし。  おれの後ろは相変わらずちっとも濡れない。おれはすっかり脱力しきって、彼に抱かれることを拒む気持ちなんてほとんど無くなってしまっているのに、けれどそれでもそれはΩ性としての発情状態とはやはり何かが違っているらしい。  普通に恋をしてセックスをするニンゲンたちみたいに、おれは動物としてでなくヒトとして彼を求めているのだと思う。  のぼせ上がって頭がぼうっとし、いやらしいことをすることしか考えられなくなってしまう発情中と違って、今のおれは意識もはっきりしているし、まだそれなりに理性も保たれている。  おれが今誰に抱かれようとしていて、一体どういうわけでこういったことになって、彼がおれにどんなふうに触ってくれるのか。おれは全部ちゃんと認識できるままに彼に抱かれている。  それは果てしなく幸福なことであり、そして恐ろしいことでもあった。  おれにとってヴェレドリルさまは、本来ただ崇拝だけしているべき存在である。  地上から空を見上げ、星に存在を知られることすらなく、ただそれを美しいなあと眺めているだけのポジションがおれには一番相応しいのだ。おれは今までずっと自分にそう言い聞かせてきたし、そして実際そんなふうに生きてきた。  けれど気付けば、なぜかヴェレドリルさまはおれのすぐ側にいて、それどころかおれの裸の肌に触って、唇に唇を寄せてくる。  いわばこれは、突然に空の星が流星となって落ちてくるような大事態である。  彼に雇われたことを、おれは天文現象のようなものだと思ってきた。数百年、数十年に一度の奇跡。ほんのいっときだけ起こる、惑星の接近のようなものだと。  しかし星が落ちてきたとなれば、もはやそれは『接近』でなく惑星衝突である。  惑星が常時よりも接近する程度のことならば、いつもより大きく見える星に「きれいだね」と暢気にはしゃいでいるだけのことで済むけれど、衝突してしまえばそうはいかない。星同士が触れ合ってしまえば、そこにはもはや致命的なまでの変化が引き起こされることになるのだ。  衝突の衝撃によって星は焼けただれ、地表はえぐれ、巨大なクレーターが作り出される。最低でも、地表の全生物が死滅するくらいのことは覚悟しなければいけない。  天文現象というのはあくまで現象でしかなく、季節の移り変わりや天気の変化と同じようなことなので、そこには正しいも間違っているもないと思う。  けれどそれが破壊と滅亡を引き起こす現象ならば、少なくとも地表に生きるおれたちみたいな小さな生き物にとってそれは正しくない。  それに惑星同士が衝突したとなれば、本来は空で輝いているべき星そのものすら何らかの傷を負うことになる。地表を這いずる小さな生き物がいくら死のうが大した問題ではないだろうけど、まばゆく輝く恒星が傷ついたとなれば、それは世界全体にとっての大きな損失である。  つまりやっぱり、この惑星衝突は正しくないということだ。どんなに優しさという名の正しさで装飾したって、結局根っこのところではそれは正しくないままなのだ。  そして正しくないことは、いつだって正しいことをし、正しい方を選ぶヴェレドリルさまにもやっぱり相応しくない。  なのにおれは、彼に正しくないことを押し付けている。 「……何考えてる?」 「ひ、ぁっ、」  中に差しいれられたヴェレドリルさまの指がふいに敏感な箇所を押してきて、おれは思わず声を上げた。  発情しないとはいえ、ほとんど毎日ヴェレドリルさまの常人よりずっと立派だろうものを受け入れているわけだから、おれの後ろはそんなに慣らさなくてももうすんなり入るようになっているのではないかという気がする。  けれどヴェレドリルさまはいつもいつも、とても時間をかけてそこの準備をした。  もう随分前に見つけられてしまった、入り口近くの腹側にあるを執拗に撫ぜたりこすったりしながら、彼は延々とはしたない水音を響かせて中をいじってくる。   「ひ、……ぅ、ヴェリル、おれ、……傷、ついても……ん、平気、だからぁ……」 「……そんなわけにいくか」 「んっ、あぁっ」  指は簡単に三本まで増やされ、それらをばらばらに動かしながらヴェレドリルさまはもう片方の手で乳首をつまんできた。  すでに固く凝っているそれを親指と人差し指で擦るようにされて、おれは思わず女のひとみたいな声をあげてしまう。  どういうわけか、ヴェレドリルさまはおれのそこに触るのが好きらしかった。以前、ここだけでイったことはあるかと聞かれ、そんなことあるわけがないと必死で否定してからというもの、ヴェレドリルさまはいつでも必ずそこに触ってくるようになってしまった。  ゴシュジンサマはそうでもなかったけど、お客の中には乳首にやたら触りたがる人もいて、赤くなってひりひりするくらい弄られまくったことも何度かある。その時は痛くて気持ち悪いとしか思わなかったのに、しかしヴェレドリルさまに触られるのはそれとは全く違う。  彼にそこを舐めたり押し潰したりされるだけで、おれはなんだか信じられないくらいに気持ちよくなってしまうのだ。  はじめはそうでもなかったような気がするのに、行為のたびに触られ続けるうち、いつのまにかおれはとてつもなくはしたない反応を返してしまうようになってしまった。  多分ヴェレドリルさまは内心そんなおれを軽蔑しているのではないかと思うけど、しかしおれが声をあげると彼はなぜか嬉しそうに微笑んでくれたりする。  それを見るとおれはなんだかもっと体が熱くなって、気持ちの良さをよりいっそう拒めなくなってしまうのだった。 「ま、待って、ヴェリル、や、だ…両方、やだぁっ、ぁっ、あぁっ」 「…お前の『イヤ』は『イイ』のまちがいだろ」  指を出し入れしながら前立腺を軽く押し上げられ、同時に乳首を舌で嬲られるともうたまらない。指はすでに擬似的な交合みたいな動きをしていて、明らかにもう十分に慣らされていると思うのに、けれどそれでも彼は簡単には前戯をやめてくれなかった。  発情状態にあって、ヴェレドリルさまもさっさと挿れたくて仕方ないだろうと思うのに、けれど彼はけして行為を急ぐことがない。例によって優しく、かつ執拗な手つきで、彼はいつもおれをどろどろにするまでけして中に入ってこない。  容赦無く指を動かされ、同時に胸元にも強く吸い付かれて、おれはいよいよ快楽が限界に行き着きそうになっているのを感じた。  しかし挿れたいのを我慢してくれているヴェレドリルさまをさしおいて先に達してしまうなど、あんまりにも失礼なことだと思う。  だからどうにかこらえようと唇を噛み締めた途端、彼は指の動きを止め、そのまま後ろからずるりと引き抜いた。  やっと彼のものを挿れてもらえるのかとほっと息を吐くが、しかし彼はそうはせずになぜか乳首への愛撫を激しくしてくる。片方は口に含み、もう片方は指で捏ねるようにしながら、先ほどより強い力で繰り返し嬲られる。  ぬろりと濡れた感触が乳首を撫ぜるたびに背筋を快楽が走って、それがやまないうちにもう片方は乱暴に押しつぶされる。  快楽と同時に与えられる痛みは次第に『気持ちいい』の一部となっていって、気づけば爪を立てられようが甘噛みされようが、何もかも良くて仕方なくなってしまっていた。  一度達する寸前まで高められたおれの身体は、そののっぴきならない刺激をより鮮烈に受け取って、先ほど途中で絶たれた道筋を繋ぐように、また快楽が絶頂に向かって高まっていく。  再び達しそうになっていることに気づいて、おれは自分の淫らさにぞっとした。  今までもここに触れられて散々感じてしまってきたけれど、しかしさすがに達するまで至ったことは一度もない。  直接的な性器でもないこんな場所で感じること自体そもそもありえないと思ってきたのに、しかし今おれはそこに触られて確かにイきそうになっている。しかもよりにもよって、ヴェレドリルさまの手によって。  耐え難い羞恥に襲われて、おれは何としても耐えなければいけないと再び唇を噛んだ。  しかしその時、乳首を嬲りながらおれの顔を見つめているヴェレドリルさまとふと目があって、彼がなぜかまた随分と楽しそうな様子をしていることに気づく。玩具を弄り回して喜ぶ子どもみたいな、同時に愛し子を見守る親のような慈愛にも満ちた気配。  それに気付いた途端、どういうわけか快楽の水位がぐんと上がり――あっという間に、おれは達してしまった。

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