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第5話
ちなみにこの前事故が起こったのは昨日のこと。おれは朝早くに、寝起きのヴェレドリルさまに襲われた。
少し前までは夜になればヴェレドリルさまはきちんと屋敷に帰っていたのだが、最近はおれの家に泊まることが多くなり、おれは朝のシャワーの最中に後ろから立ったままヴェレドリルさまに――
「ソレラ、」
獣の耳に生ぬるい吐息が吹きかかり、ふいに現実に引き戻された。
気付けばヴェレドリルさまは後ろからおれの腹に手を回し、壊れものを抱くみたいにそっと力をこめてくる。
彼の声が熱っぽく掠れていることに気づいて、おれはますますまずいと思った。色気全開のヴェレドリルさまの声色には正直目眩を覚えるくらいに興奮するけど、しかし事故が起こるのはやっぱり良くないと思う。
おれのフェロモンが一体いつどのようなきっかけで漏れてしまうのか、未だにおれにはよく分かっていなかった。別にいやらしいことを考えていたわけでも、ムラムラしていたわけでもないというのに、いつでもふと気付けばヴェレドリルさまはこうしてフェロモンに誘引された状態になっているのだ。
さっきまで彼は怒ってるみたいな様子だったのに、一体それがいつ発情にすり変わったのだろうかと思う。もしかして、イライラとムラムラは似たところがあるのだろうか。
「ヴェ、ヴェリル……ごはん、まだ途中、」
「……もう我慢出来ない」
まるでネコ科の獣がするように、ヴェレドリルさまはおれの耳の毛並みを舐めてくる。
リカントロープにとってグルーミングは本来相手に深い愛情を示すためにする行為であり、一般的に恋人や夫婦の間でのみしか行われない。けれどおれはヴェレドリルさまの恋人でも奥さんでもないので、つまりやっぱり彼はまた正気を失っているということだった。
耳を濡れたものが撫ぜるたび、ぞくぞくした感覚が背筋を走り、おれの腰は勝手に砕けてしまう。
ヴェレドリルさまが発情してしまうのはフェロモンのせいだから仕方がないとして、しかし近頃はおれの方も彼に触られただけで簡単にそういう気分になってしまう。
ヴェレドリルさまと違って、おれは間違いなく彼の存在そのものに欲情している。そう思うと、自分がひどくいやらしい生き物みたいに思えて恥ずかしかった。
背中のあたりにまた固いものが触れ、おれの身体の力はますます抜けてしまう。自然と背後の彼に身体を預けるような状態になり、するとヴェレドリルさまはおれをひょいと担ぎ上げて、キッチンを出ると食卓の横に敷かれたムートンのラグの上にころりと転がした。ラグの前には暖炉があり、今も暖かく火が焚かれている。
事故の最中、おれがいつも何を思っているかといえば、そこには基本的に抱えきれないくらいの後ろめたさと畏れ多さしか存在しない。そうであるべきだと、おれは日々自分に言い聞かせている。
さすがにこんな時までは、おれも『好きなアイドルとセックスができる券』のことについて考えたりはしない。
だってそれを俗には枕営業と呼ぶのだし、たかが凡人のファン風情が空に輝く星々の身体を金銭で好きにできると思うなんて刎頚 にも値する重罪だからである。ゴシュジンサマがおれをお金で買って番にしたのより、それはもっと悪質な行為だと思う。けして許されるようなことではないだろう。
しかし彼とおれの間に起こっていることは、もしかしたらその枕営業よりももっとひどいことかもしれなかった。
だって少なくとも枕営業は両者の同意を得てから行われるだろうけど、『事故』はいつだって彼の意志を無視して突然に発生するからだ。
しかもそこには別に何の見返りがあるわけでもない。それどころか、あとにはただ精神的な傷ばかりが残るのだ。
それでもおれが、少しくらいはヴェレドリルさまに抱かれる価値のある人間だったなら、まだ救いようもあったのかもしれないと思う。
天上の星である彼と釣り合うような存在――大貴族の令嬢とか、某国の王女とか、はたまた神話に伝わる森の女神とか――が相手だったなら、きっとその精神的な傷も多少は浅くなったに違いない。
しかし許しがたいことに、おれはどちらかといえばそのほとんど真逆の存在である。おれはもともとヴェレドリルさまに比べてずいぶんと下賤なリカントロープだったけれど、そのうえ今では『元性奴隷』ですらあるのだ。
この世の有象無象を上から順番に『ヴェレドリルさまとセックスする価値』があるかどうか格付けしていったとして、間違いなくおれは下から数えたほうが早いくらいの位置にいると思う。
ゴシュジンサマとの初夜の夜、彼に聞かれたことをおれは今更になってよく思い出している。『好きな男がいればそいつに貞操捧げたいと思うのが人の情ってもんじゃないのか?』、確かあの人はそう言っていた。
正直、その時は何を言ってるんだこの人はと思っていた。
おれの貞操に当然ヴェレドリルさまに捧げるほどの価値はないし、それをヴェレドリルさまが欲しがるようなこともまず絶対にありえないのだから、そんな仮定や妄想にはなんの意味もないだろうと。
おれ自身の価値も、ヴェレドリルさまの意志すらも関係なく、こうして彼とセックスをする日がやってくるなんて、その頃のおれは考えたことすらなかったのだ。何せそういった想像をすることは、おれの信じる宗教で禁じられているので。
こんなことになるとわかっていたなら、きっとおれは死んでもゴシュジンサマになんか抱かれなかったと思う。命を賭けてでも絶対に誰にも触れさせず、まっさらな身体のままでいようとしただろう。
ヴェレドリルさまにとっては、どうせしたくもない行為なのだからおれが処女だろうが非処女だろうがあまり関係はないのかもしれない。
けれどそうは言っても、やっぱりおれは気にしてしまう。なぜならそこには確かに、一つの事実が――あの誰よりも清く正しく美しいヴェレドリル・ヘルテライトが、実の親に売り飛ばされ、尖った性癖の変態に適当に番にされて、何人もの行きずりの男に奉仕したようなΩと関係をもってしまったという事実が――、残されてしまうからだ。
それはすごくすごくまずいと思う。アイドルをスキャンダルから守るのもファンの務め、そんなことは何としても阻止しなければならない。
けれど日々、逃れようもなく事故は繰り返されてしまう。
だからおれは、これはあくまで『性欲処理』なのだと思うことにした。
単なる性欲処理ならば、それはきっとほとんど自慰と変わらないと思う。オナニーは個人差があれ誰でもせざるを得ないことなので、食事や排泄とあまり違いがないだろう。そしてそういった日常の行為に何を使おうが、関心を持つ人はほとんどいないはずだ。
つまり性欲処理のお手伝いをしている、という体 ならば、彼がおれを抱いたとしてもそれはぎりぎり正式なセックスということにはならないのではないかと思うのである。
ヴェレドリルさまがフェロモンに酔わされ、がむしゃらに貪るようにおれを抱く場合、それは大変『性欲処理』感がある。なのであれが、おれたちにとって理想的なセックスなのだと思う。
しかし困ったことに、おれたちの行為は比較的すぐにそれとは大分違う形のものになっていってしまった。『事故』の回数を重ねるごとに彼の発情の度合はだんだんと弱くなり、我を失ったように乱暴におれを抱くようなことはなくなって、彼は逆におれを気遣うような素振りを見せるようになっていったのだ。おそらく少しずつおれのフェロモンに耐性がついて、多少理性を保てるようになってきたのだと思う。
理性の混じった発情状態のヴェレドリルさまは、基本的にとても紳士である。
彼はいつもけして怪我を負わせないように、血を見るようなことがないようにおれを抱いてくれようとする。Ωのくせに自動的に濡れもしないおれの後孔を懇切丁寧にローションでほぐして、わざわざおれの許可を得てから中に入ってくる。
けれどそんな紳士的な抱き方は、残念ながら全然性欲処理っぽくない。性欲処理に、相互的な満足など必要ないのである。
おれたちの行為は、ただヴェレドリルさまが気持ちよくなるためだけにあるべきで、おれが気持ちよくなったり、あるいはあまつさえ彼がおれに奉仕してしまったりしたら、途端に破綻してしまうのだ。
ところで恥ずかしい話だが、おれは人の性欲処理のお手伝いをすることが、多分結構得意だと思う。なにせ性奴隷なんていうことをしていたのだから、当然のはなしである。
かつてのゴシュジンサマやお客たちとのセックスについて、おれはいつもこれはまさしくただのオナニーみたいなものだよなと思っていた。
あの人たちは誰とするかなんて本当はどうでもよくて、基本的に自分がいかに気持ちよく出すかにしか興味がない。おれが痛がっていようが、あるいは善がっていようがそれ自体には関心がなく、彼らにとって大事なのはおれがいかに有効に使えたかどうかだけだった。
ゴシュジンサマやお客を不機嫌にさせてもろくな事がないので、やがておれは自然とそういう相手と上手くセックスをする方法について学習していった。
いかにその場からおれの人格を消して、相手ばかりを気持ちよくさせ満足させるための道具になりきるか。ただの作業手順として、おれはそれをよく心得ているのだ。
あまり役に立ってほしいとは思えないような特技だったけれど、しかし今のおれにとってはそれはまさしく必要な技術であるように思えた。
彼にばかり優しく触れられるままでは、おれたちの行為が正式なセックスに格上げされる恐れがあったからである。
それを阻止するため、おれはそれらの技術を総動員させてなるべく彼にだけ気持ちよくなってもらおうと試みた。例えば、
「慣れてるから、まかせて」
濡れ場に相応しくあまり明るすぎない営業スマイルを浮かべてそう囁き、まずは彼の手をスマートに払って自ら自分のうしろをほぐす。
ローションを手に掬い、後ろに指を差し入れながら、その間は彼を待たせてしまうことになるので同時に”ご奉仕”もする。フェラをしたり、仰向けになってもらって、ローションで濡らしたおれの胸を彼のものに押し付け、蛇のように身体をのたうたせてそれを扱いてみたりするのだ。
彼がそのまま達してしまったらそれでもいいが、けれど出来ればぎりぎりのところで寸止めし、後ろの準備が整ったら騎乗位の体制でおれが自ら彼のものを中に――
「やめろ、」
しかしいつも、おれがそういうことをするとヴェレドリルさまはすっごく不機嫌になった。
制止の声とともに後ろにいれた指をすぽんと引き抜かれて、非常に怖い顔をしながら「そんな淫らな仕草をお前に仕込んだのはあの男か」「あの男にもそうして奉仕したのか」などと問い詰められたりするのだ。
確かにおれのいかにも性奴隷的な振る舞いは一般的な価値観に照らして『淫ら』だろうし、倫理的に見てもどうかと思うようなものなのだと思う。
頭がどうかしているゴシュジンサマやお客たちならいざ知らず、非常に常識的かつ正義感の強いヴェレドリルさまにとって、おれのそういう仕草は残念ながら興奮を煽るための道具としては機能しないのかもしれない。
いやらしいことをしている最中に、いやらしいことは非道徳的ですよ、と真面目に指摘されるのは結構恥ずかしいことで、おれは彼が怒りはじめるといつもすっかりすくみ上がって叱られた子どものようになってしまう。
するとヴェレドリルさまはその隙におれを押し倒して、いつものように――あるいはいつもよりずっと優しく、砂糖菓子みたいに甘くやわい手つきで――延々とおれの身体のあちこちに触れ、頭がおかしくなりそうなほど止めどなく気持ちの良さを注ぎ込んでくるのだった。
困ったことに、おれがこれまでの経験値をフル活用して性奴隷的に振る舞えば振る舞うほど、反動として彼のその愛撫の甘さも増していくみたいだった。
結果として、いつもおれの企みは途中で阻止され、気付いたらおればっかりが喘いで感じさせられるはめになっている。
それではまるで、畏れ多くもヴェレドリルさまのほうがおれの性欲処理のお手伝いをして下さっているみたいだし、完全に本末転倒である。
おれの方から積極的に奉仕する、という形での性欲処理的なセックスの実現は難しいらしいということがわかり、おれはまた別のアプローチを模索することにした。
性欲処理と正式なセックスの最も大きな違いは、それが相互的な行為であるか否かだと思う。片方が一方的に快楽を貪っているならそれは性欲処理だし、両者ともに気持ちよくなれるWin-Winの関係ならきっとそれはセックスである。
またセックスというのはそもそも一種のコミュニケーションツールであって、本来そこには人間らしい感情のやりとりがあるべきなのではないかと思う。
つまり、感覚であれ、感情であれ、それが相互的に与えたり与え返したりされない状態なら、それはセックスではないということになるのではないだろうか。
つまりおれが始終物言わぬ人形みたいに振る舞えば、その行為はかなり性欲処理的になるのではないかという気がする。
しかし残念ながら、ヴェレドリルさまに触れられておれが人形のように無反応でいられるわけがなかった。
単純に人の欲として、彼に触れられることが嫌か嫌じゃないかと言えば、当然嫌じゃないに決まっているからだ。それどころか耳に吐息を吹きかけられるだけでも、おれは本当は感激のあまりに卒倒してしまいそうなくらいなのだ。どんなに唇を噛み締めようが、手のひらに爪を立てようが、彼にこの上なく優しい手つきで肌を撫でられればおれは声を上げてしまうし、あさましい欲を煽られてしまう。
だからせめて感情の方については相互的にならないように、おれは努めることにした。具体的に何をしたかと言えば、絶対にキスだけは阻止することにしたのだ。
ヴェレドリルさまはどういうわけか、ごく自然な流れで度々おれにキスをしようとする。発情中ならば、おれも特に嫌悪感のないままゴシュジンサマとキスをしてしまったことが何度かあるので、きっとヴェレドリルさまも発情に流されてしまっているのだと思う。
唇へのキスが単なる挨拶程度の意味しか持たない国もこの世にはあるというけれど、ネウロア王国においてはそれはグルーミングと同じく愛を伝える意味をもつ行為である。キスとは愛を与え、受けとるという、大変相互的な行為なのだ。
だからセックスにキスが存在してしまった途端、それは非常に正式なセックスっぽくなってしまうのではないかとおれは思う。
ヴェレドリルさまはいつも、おれの後孔を時間をかけてゆっくり慣らしながら、おれの負担を減らそうとするように身体のあちこちに繰り返し唇を落としてくれる。
首筋を下から上に舐め上げられ、耳介を喰まれ、頬を甘噛されて、そしてふいに顔を離した彼と目が合った瞬間――
「だ、だめっ」
『キスをされる』と察するやいなや、とっさに彼から顔を背けるおれに、ヴェレドリルさまはいつもひどく傷ついたような顔をした。
彼を守るためとはいえ、悲しい顔をされるとおれもとてもとても悲しい。
「……なぜ駄目なんだ。誰かに操を立てでもしてるのか」
ある晩、なんだか剣呑な雰囲気を纏わせた彼に焦れたような様子でそう聞かれ、なんと答えたものかと悩んだ挙句、おれは馬鹿正直にこう言った。
「だ、だって……これはただの性欲処理なので、キスするのは、変かなって……」
どうか納得してください、と懇願するような気持ちで彼を見ると、なぜかヴェレドリルさまはひどく驚いたような顔をしていた。
さらに彼は唐突にぎゅうとおれに抱きついてきて、絞り出すような声で言った。
「……思ってない」
「……へ?」
「性欲処理だなんて、思ってない」
震えたような彼の声には、正体の分からない切実な感情が込められているのがわかり、何か決定的なことを告げられてしまったような気がしておれの胸はどきりと跳ねた。
性欲処理だと思っていないなら、一体なんだと思って彼はおれを抱いているのだろう。
思考が結論に行き着いて、脳みそが沸騰しそうになる一歩手前で、おれははたと彼がフェロモンにより正気を失っていることを思い出した。つまりさっきのことも酔っ払いのうわ言みたいなもので、きっと深い意味はない。
気を取り直し、「思う思わないの問題ではなく、これはそうであるべきだという話で……」と諭そうとしたおれの言葉は、結局言う隙がなかった。
彼はその後すぐにおれに舌を絡ませるようなキスをしてきて、それから以前“ご奉仕”しようとしたときと同じく、おれは彼の手によってとても意味のある単語を発せないくらいにどろどろの状態にされたからである。
またしても企みが失敗に終わり、おれはいよいよ途方に暮れてしまった。
日々甘やかさを増していく気がする『性欲処理』に追い詰められた気持ちになり、ついにはえぐえぐと泣きながら「おれは下賤な性奴隷なので、ぜひもっと乱暴にしてください」とどストレートに彼に懇願したこともある。
けれどやっぱりそれも逆効果で、彼はぼろぼろと頬を伝う涙を舐めとり、落ち着くまで辛抱強く背中を擦 って、そのあとにはやっぱりとても優しくおれを抱いてくれた。
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