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第1話 朔の夜

 その晩は、月のない夜だった。  ばさり。大きな翼をはためかせて、人影が闇夜の中を滑空していく。  何かに追われるように飛び急ぐ影は、舞い降りた屋根の上で一旦息を整え、辺りを見回した。 「チッ──しつけーな、こっちの力が弱い時を狙ってきやがって……卑怯だぞ!!」  息を切らした青年がそう叫ぶと、建物の影から一人の男が姿を現した。  長い黒髪は後ろで無造作で束ねられている。  さらには黒のカッターシャツに黒いレザーのズボンという、上から下まで真っ黒な出で立ちの男だった。  何より奇妙なのは、夜なのにサングラスをかけている、ということである。  真っ当な人間なら暗くて歩きにくいはずだ。  それなのに、男はものともせず青年がいる方へと歩み寄ってきた。 「それはあなたが逃げるからでしょう? 大人しく私と契約して下されば良いのですよ」 「けっ、お断りだね! 俺ァもう二度と誰も主に定めねェって決めてるんだ。いくらおまえが日片(ひひら)神社の神主の末裔だからって、土地神を従えようなんざ百年はえーぜ!!」  男の言葉を鼻で笑って一蹴した青年は、ひらりと近くの木の枝へと飛び移った。  負けることなどないだろう、とでも思っているのか。男を見下ろす瞳は随分と勝ち気で余裕がある。  「それは困りますね。なんとか考え直してもらえませんか?」  「やだね! だーれがお前のモンなんかになるかよ!」  「――では、仕方ありません。実力行使といたしましょう」  ふふ、と男は目を細めて笑った。ひゅう、と渦巻く風が起こり、長い髪がなびく。  手早く印を組む手をに気付き、青年が逃げようと身を引いた。  だが足下から忍び寄る蔓のようなものがその手足を絡め取る方が一歩早かった。 「水鏡(すいきょう)……諦めて、私のものになりなさい」  しゅるしゅると蔦は青年の身体と白い翼に絡みつき、動きを封じる。  身を包む白い狩衣(かりぎぬ)は蔦により、その身体の線がわかるほどに締め付けられている。  もがけばもがくほど絡みつく蔓は、今やぎっちりと水鏡の身体を縛り上げていた。  「はっ、てめー中々やるじゃねーか……月のない夜とは言え、俺様をここまで追い詰めるとはな」 「ええ、私は無月(むげつ)。月のない夜にこそ、力が最大限に発揮できますので」 「相性最悪じゃねーかよ……ったく、タチのわりー子孫だな……」  街灯の光に照らされぼんやりと浮かび上がる水鏡の身体は、上から下まで真っ白だった。  身体を縛り上げる蔓の上にさらり、とひとふさ髪が滑り落ちる。翼と同じ純白で、絹糸のように細くて艶やかだ。  雪のように白い肌は目の下の赤い隈取りを目立たせ、くっきりと浮かび上がらせている。  水鏡の身体の中で白以外の色があるのはただ二つ。目の下の隈取りと、この状況でもなお光を失わない紅の瞳だけだ。  明らかに分が悪い状況のはずなのに、彼は大層余裕があるように振る舞っていた。  まだ絞めたりなかったかな、と男が呟き、更にその力を強くする。  だがどれほど無月が力を強くしても水鏡はうめき声一つあげず、顔色も全く変えないままだった。 「無月、か……その諦めの悪さと力に敬意を表して、てめーの名前くらいは覚えといてやろう。だが、覚えておけ。次に俺に手を出したら、こうなるのはてめーの体だって事をな!!」  水鏡が叫ぶと同時に、身体を縛る蔓は全て風に切り裂かれてバラバラになった。  おととい来やがれバーカ変態野郎!!  そう捨て台詞を残して逃げ去っていく背中を、無月は静かに見送る。 「うーん……土地神とはいえ、曲がりなりにも神相手。新月の夜だからと、さすがに手加減しすぎましたかねえ……」  はあ、とため息をついて、いつの間にかほどけてしまった髪をかき上げる。  ずれたサングラスの端からのぞくのは、水鏡の瞳と同じ色をした、赤い瞳だ。  今日もまた逃げられてしまった。そう呟きながら帰路につく男の表情は、どこか嬉しそうなものだった。

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