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第1話

誰だって、いつでも強者の側に立っていたい。それが当たり前だった。それが無理でも、虐げられる側にだけはなりたくなかった。支配から逃れるためなら俺たちはなんでもしたし、何もしなかった。たとえ誰かが殺されそうになっても。 たった一人の生贄でより多くの人間が救われるなら、それは安い買い物だ。だから今日も俺たちは目を閉じ、耳を塞いでいる。可哀想だなんて思わない。高校生にもなればそのくらいの処世術を誰もが身につけている。 「間宮〜、早く決めろよ」 マジで最悪だ。 トイレに屯するクラスメイトたちを見て、俺は今すぐ教室に戻ろうかと思った。引き返せばよかった。3時間目と4時間目の間の短い休憩時間は教室移動で消えてしまうのがわかっていたから、トイレに行くには今しかない。嫌というほど後悔するって知っていたのに、俺はその場の尿意と僅かな好奇心に負けた。 クラスメイトの中心にいるのは当然のように御鏡響生(みかがみ きょう)だ。俺たちの王。権力、暴力、容姿、才能、どれを取っても一級。彼に背くのはすなわち教室での死を意味していた。そして御鏡の足元に蹲っているのが、間宮智浩、御鏡に差し出された、俺たちを生かすための生贄。 彼らにゆっくり近づいていくと、塩臭い、端的に言ってしまえば小便の臭いがした。間宮は頭から水を被ったように濡れていて、軽くウェーブのかかった黒髪がしんなりしている。ダサい黒眼鏡のレンズも黄色がかった水滴で濡れているのが見てとれた。誰かが漏らしたのかと思ったが、どうやら間宮が文字通りの「便器」にされていたらしい。 「おっ、マリチャン。いいところに来たね〜」 御鏡が目ざとく俺に気がつき、取り巻きを割って近づいてくる。肩を組まれてしまえば逃げるなんてもう不可能だった。その呼ばれ方で俺の教室王朝での地位はわかるだろう。“真利(まり)”なんて女みたいな名前しているくせに、顔はかわいくねえな、と言われたのが陛下からの最初のお言葉だったわけだ。実際俺は可愛くはないし、取り立ててイケメンでもない。御鏡と並んで遜色ない顔立ちの男なんて教室にはいないだろう。もちろん、ここは男子校なので、御鏡に並び立てるほどの女も存在しない。 肩をガッチリと固められて間宮の前に引き出された。小便の臭いが鼻をつく。反射的に鼻と口を手で覆う。それを周りの奴らがニヤニヤと笑うのがわかった。 「真利チャンさあ、間宮にザーメンかけてみない?」 「は?」 は?って言っちゃった。あまりに予想外の展開だったので思わず。場合によっては俺もあちら側に這い蹲ることになるかもしれないのに。 「間宮がね。ションベンかけられてもいいって言うからさあ、もっと良いモンかけてやりたいじゃん?でもぶっちゃけ間宮に勃つとかね〜しさ、真利チャン、どう?なんならチンポしゃぶらせてもいいよ」 狐みたいに目を細めて、御鏡が俺の耳元に囁く。 「い、や……てか、俺も勃たねえし……」 正直な話、このメンツの前に自分のソレを晒したくなかった。仮性包茎なので。バレたらどんなにバカにされるかわからない。 「ふーん」 「つまんねえな」 「じゃ代わりになんかやれよ」 「床でも舐めるか?」 ハハ、と笑いが起きる。冗談じゃない、でもこのままだとまずい。俺はそっち側に行きたくない。 「じゃあさ、間宮にキスでもしてやんなよ。床舐めるか、間宮とキス。あ、口にだから」 「さすが御鏡、えげつね〜」 「おい橘、早くやれよ」 最悪の二者択一だ。どっちを選んでもゲロだし、どっちを選んでも俺は死ぬ。でもトイレのクソ汚い床を舐めるよりは、男とキスの方がまだマシな気がした。 キスしろ、と盛り上がる周りの声を無視して、間宮の顔を掴んだ。 「お?マジでやんの?」 言い出しっぺの御鏡が一番驚いてるのはなんなんだ。なるべく粘膜が接触しないように、歯を立てて噛み付くように俺の口を間宮の口と合わせた。キスってきっとこういうものじゃないだろう、だけどそれが俺のファーストキスになってしまった。 舌の先にしょっぱいものが触れて、それが間宮の肌だと気づいて、そこにかかっているもののことを思い出したら急に胃がひっくり返ったように吐き気が込み上げてくる。間宮を突き飛ばしてトイレの一番奥の個室に飛び込んだ。喉を酸味が駆け上がって、口に充満したそれを思い切り便器にぶちまけた。 「あ〜あ〜、真利チャン吐いちゃったじゃん。かわいそ」 白々しく大声で御鏡が言うのが聞こえた。それに被るように授業開始のチャイムが鳴る。ガヤガヤと喧騒が去っていくのを背中に感じる。口の中が苦い。 「大丈夫?橘くん……」 背中をさすられる。そんなことをわざわざする人間がいるとしたら、この場ではただ一人に限られた。 「別に、平気だけど。ほっといてくれよ。おまえとこれ以上関わりたくない」便器に溜まった吐瀉物を流して息をついた。間宮も早く出て行ってほしい。俺はここで一人傷心を宥めたいのだ。次の授業はサボることになってしまうだろう。 後ろから急にぐいと腕を引かれて便器から引き剥がされる。間宮の顔が近いし、臭い。でも初めて見る、レンズを通さない間宮の目はやけにキラキラしていた。 「見つけた♡おれの――王子様♡」 俺はもう一回ゲロを吐いた。

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