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第3話

「これで、帰りのホームルームを終わります。」 3時40分、日直がそう告げたら、辛い1日が終わる合図。 「楓、じゃあな。」 「またあしたー 」 いつも一緒にいる5人は、サッカー部。楓は帰宅部。だから、テスト期間以外は彼らとはここでお別れなのだ。 「うん、またあした!みんな部活、頑張ってね。」 「「おう!」」 5人に手を振り返して、そのあとは図書室にいって勉強をする。英語と数学の予習や課題。決して勉強が好きなわけじゃいが、何もかも忘れられるこの時間は嫌いじゃない。 時々疲れてうとうとして、机に突っ伏して寝たり、自販機にコーヒーを買いに行ったり。 そして5時半。 「そろそろ閉めるぞー。」 鍵を持った先生が図書室全体に呼びかけて、みんながぞろぞろと帰る準備を始める。楓もぐーっと伸びをして、テキストと筆箱をリュックにしまった。 だが、数学のテキストだけは仕舞わない。 今からが楓の1日で1番、大好きな時間だからだ。 わからない問題は、数列の問題。解答を呼んでも途中から何をしているのか全くわからない。 変な格好してないよね?などと、デート前の女子のように少し前髪を整えて。 とくとくと心臓が鳴っている。その中で、コンコンと二回、ノックをした。 「はーい。」 少し低い、やる気のなさそうな返事が聞こえてきて、楓はにやつきそうになるのを必死で抑える。ただわからない問題があったから、聞きにきた。それだけだ。 「あ、あの、2組の、桜木です。」 机に頬杖をついて読んでいた難関大の赤本を置いて、声の主がゆっくりと視線を上げる。 難しい顔をしていた端正な顔立ちが、楓を見た瞬間ふわりと緩められた。 この瞬間が、楓は好きだ。嬉しさに変な顔をしていないか、思わず自らの口を触って確かめてしまう。 数学科の職員室には教師が1人いるだけで、それ以外の人は楓しかいない。 嵐田静樹(しずき)。彼は、楓が数学科に来ることを楽しみにしている1番の理由。 「おー桜木。今日はどこだ?」 今日はどこだ?とまるで当たり前のことみたいに優しく微笑まれて、楓の心音が加速する。 自然に、自然に。意識すればするほど表情がこわばるのが自分でもわかった。 「あ、嵐田先生。えっと、ここがわからなくて…。」 ワークの解答を差し出すと、彼はごく自然にそれを手に取り、 「あー、群数列か。その辺めんどくさいよな。 …これはな、倍して引いて式ごと足すと…。 ちょっと時間かかるから、そこ座って。」 と言った。ペン立てからボールペンを取り、長い指が綺麗な字をつらつらと書き並べていく。 嵐田が参考書を眺めるのを目の前で見ていると、俯きがちになった目元から長い睫毛がヴェールを落とした。 嵐田は男で、決して女性的というわけではないハンサムな顔つきであるのに、楓はその所作に儚げな美しさを感じ、いつもときめいてしまう。そして多分これが恋であると、自分でも自覚していた。 楓の高校2年の最初の二者面談は、副担任である嵐田と行われた。そのとき、楓はうっかり、嵐田にリストカットの跡を見られてしまったのだ。 絶対に何か言われる。そう、覚悟した楓に嵐田は、 「何か話したいことは?」 と一言聞いて、楓がありませんと答えると、 「そうか。お前も、頑張ってるんだな。」 と、ただ優しく声をかけてくれたのだった。初めて、自身が認められた気がした。 おそらくその時から、彼を気になっていたように思う。 …僕なんかが恋愛をするなんて、そんなの許されないけれど、見てるだけなら、いいよね。 想いはもちろん、心の奥に潜めて。 「…と、できた。この行から次の行にかけて、こういう処理がなされてるんだ。これでわかるか?」 テストの解答の裏側に、几帳面な字が並べられている。それを一目見て、解答をすぐに理解した。 「わ、わかります。そっか、こうなっていたんですね!」 こくこくと楓が頷く姿をみて、満足そうに嵐田が目を細める。 「ここ少し不親切だよな。今度授業中時間が余ったら解説しとく。 …これだけか?」 「はい、ありがとうございました。」 もう1問くらい、わからないところ見つけたかったな。 そんなことを思い後ろ髪引かれながらも、楓はしっかりと礼を言い、参考書をしまった。 「よく、頑張ってるな。」 楓の頭を、ぽん、と一回、嵐田の大きな手が優しく触れる。目の前で何が起こったかを理解するのに数秒かかり、理解した後に顔を真っ赤にして口をパクパクさせて、 「あっ…あ、ありがとうございましたっ!失礼しますっ!!」 そのまま慌ただしく礼をして、楓はその場を立ち去った。 ばたん、と音を立てて職員室のドアを閉めて、どくどくなる心臓に右手を触れる。 …どうしよう、嬉しい。 にやけるのが止まらなくて。 今日はみんなに恥ずかしいところを見られたけど、先生にご褒美をもらえたからよかった! 電気の消えた暗い廊下を、軽い足取りで歩いていく。 明日も頑張ろう。 そう思いながら楓は、先ほどの光景を下校中脳内で、何度も何度も反芻していた。

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