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「えっ?口吸い・・ですか・・?」
確か、初めはそんな会話だった。どうやら『口吸いの日』というものが存在するらしく、絽玖が世渡に対して悪戯交じりの視線で「どうやらこういう日があるようです。私たちも試しにしてみませんか?」と投げかけて来たのだ。
自身に対して敵対心を剥き出しにしている李棵の手前、そんなことは出来ないと世渡は何度もお断りを申し上げていたのだが、なかなかどうしてこの絽玖という男。断りを入れれば入れるほど楽しいと言わんばかりの表情で首を横に軽く振りながら「いけませんよ。世渡、何事もしてみなくては・・ねえ?」と眼を細めて笑うだけなのだ。はっきり言って傍迷惑この上ない。
世渡が龍国北部に位置する茊芪汕に連れて来られてからひと月が経過した。
あれからコンちゃんはどうしているのだろう?朧月夜は?もしかしたら帰ってしまったのだろうか・・と心配の種を増やして植えたとしてもどうすることも出来ないのは事実であるのだが・・・。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・渡?・・」
「・・・・・・・・・・・渡?」
「・・えっ?」
牀(しょう・細長い形をしていて寝具と座具、どちらにも使用可能な家具)の上に座したまま、暫くの間ぼんやりとしていたのだろう。絽玖の労わるような優しい声に世渡の意識が少しずつ浮上していく。ふと顔をあげると心配そうにこちらを見る絽玖と視線が重なった。
「大丈夫ですか?」
「ん・・」
絽玖の指が世渡の右頬に伸びる。ひんやりとした手のひらが今は心地良い。
労わるような優しい手つきで世渡の頬を撫で、頬と後頭部を行き来するように滑るその指はふんわりとした安心感を与えてくれる。
指に強弱を付けながら摩る絽玖の指に、少しずつ世渡の意識がぼんやりと薄れていく。
瞳が何度も閉じては開く動作を繰り返しながらウトウトと船を漕ぐように揺れる世渡の肩を、絽玖が引き寄せるように抱き、何度も髪を梳きながら世渡の耳元で囁くように呟いた。
「いずれ、帰して差し上げます。ですから今はまだお待ちなさい」
「・・・・ん・・」
絽玖の低く落ち着きのある声と優しい指に、世渡は意識を手放すように眠りについた。
「・・・・・・・・・・・」
「おや?目が覚めましたか?」
「・・・ここ・・は・・?」
「あれから眠っていたのですよ。ご気分はいかがですか?」
「えっ!?寝てっ!」
「いけませんよ。急に起き上がっては」
まさか寝ていたとは思っていなかった世渡である。いつの間にか寝衣姿に変わっているだけでなく、寝台にまで移動していたこの状況を上手く理解できないまま、ガバリと起き上がろうとした彼を腕で静止しながら絽玖が微笑んだ。
起き上がろうとした身体を再度、寝台に戻しながら
「もう少し落ち着いたらお茶にしましょう。東方美人茶(味は紅茶に似ていると思います。飲みやすくて美味しい)の良い茶葉が手に入ったのです。一緒にいかがですか?」
と微笑んでいる。絽玖の背の後ろには茶葉と共にいくつか用意された茶器の卓が見えた。
ぼんやりとした意識のまま、瞬きだけを繰り返す彼の瞳は前より斜め方向に向けられているようにも見える。
「いただきま・・す」
「ええ。今、少しだけ淹れて差し上げますから、そこでお待ちなさい」
ゆっくりと立ち上がり、世渡に背を向けながら絽玖が微笑む。その奥には白い蓋碗(ガイワン/お茶を飲む器。蓋がついており飲む際は蓋を少しずらして飲んだり蓋を外したり・・)が見えた。
「・・・はい」
労わるような優しい手つきで上体を起こされた世渡の手には蓋碗が乗せられている。
それを黙って眺めていると同じように蓋碗を手にして座す絽玖の影が見えた。
「・・ここはもう、慣れましたか?」
「・・ええ。少しずつですが・・」
最初は飲み方が分からず、これは一体どういう物なのだろうと首を傾げていた頃が少し懐かしい。
「湯をあまり熱くしていませんから、飲みやすいと思いますよ」
そう言って蓋を少しずらしながらお茶を飲む絽玖をジッと眺めながら、世渡も習うように蓋をずらしてお茶をゆっくりと口に含むことにした。蓋碗の中には茶葉がそのまま浸された状態で注がれており、蓋で茶葉を防ぎながらお茶の味を楽しむと良いとは聞いてはいたのだが、これがなかなか難しい。最近になってやっと茶葉を口に含む回数が少なくなってきたとはいえ、皆のように上手く飲めた試しは一度も無かった。
しかも蓋碗だけでなく、茶器の数や多さも様々でいくつか作法という物があるらしく、絽玖の側で何度もそれらを見てきたはずなのになかなか覚える事が出来ないままだった。
『・・・・まだ茶杯(ちゃはい/お茶を飲むための道具の中のひとつ。ここにお茶を注いで飲みます)の方が飲みやすいなぁ・・・・』と心の中でこっそりと思う。
飲みなれた仕草でお茶の香りを楽しむ絽玖とは裏腹に、世渡の心は未だ晴れないままだった。
今まで親しく話していた者は誰もいない。晴明様の屋敷の中は穏やかだけれど賑やかで。
色とりどりの花々が咲き乱れる庭を通れば沢山の怨霊や幽霊の姫君が微笑み返してくれる。
毎日コンちゃんズが通る度に鳴る廊下の足音と、軽快な笑い声の絶えない場所は世渡の中で揺るぎない安心感を与えてくれる場所に他ならなかった。
だが、ここは世渡が住みなれていた屋敷とは全く異なる場所だった。
御簾で仕切られているわけではなく、灰色の土壁がそこかしこに見える。赤い格子窓は見慣れていなければ非常に窮屈で、広い部屋をひとつ間違えれば自分が何処に立っているのかさっぱり分からないままだ。
家具も違えば食事も違う。最初は油が合わなくて何度指を唇に当てたまま戻しそうになったか知れない。
その度に李棵の表情がきつく歪み、部屋の空気もピリピリと悪くなってしまう。
李棵だけでなく、彼女の隣に座す絽枇も瞳を閉じたままだがあまり表情は良いとも思えず
食事の時間が来るたびに世渡の心は苦しくなり、びくびくと背中が強張ってしまっていた。
同じ時間でも絽玖や梨皛が共に席に着く日はまだ良いのだ。
食の作法に慣れておらず目を泳がせるだけで料理に手を付けようとしない彼に、あれも美味しい。これも美味しいと彼らの方から世話を焼いてくれていたので、気まずい雰囲気の中にいても何とか食べる事が出来ていた。けれど、二名が共に居ない日は李棵や絽枇と共に席に着くので冷や汗が止まってくれない。
ほかほかと湯気が立ち上る料理を前にして、大皿から小皿へと取り分ける際も料理を落してはいけないと気を配り、衣のついた鶏の揚げ物や魚の蒸し焼きも一度小皿に取り分けてしまっては残すことは不可能だ。
温かい食事を少しずつ口に含んでいても、全身を締め付けるような雰囲気が変わる事はなく、一、二度口に運んだだけで喉が動かなくなってしまう。
濃い味付けのように見える料理は全て薄味で、野菜だけでなく肉や魚も卓に並んでいる。
きっとどれもこれも食べる人の健康を考えて作られたものであり、美味なのだろう。けれど今の世渡には何を口に含んでも味を感じる事は出来なかったのだ。
自分がいなければ和やかで楽しい時間だったのかもしれない。
今は全てが変わってしまった。
空になった小皿を見る。
「・・・・・・・・」
張りつめた緊張感を身に纏ったまま口にする食事は、世渡にとって生きた心地のしないものであることは確かだった。
自分がいた平安時代の食事と言えば、小台盤(こだいばん/一人用の食卓台の事。料理を盛りつけた皿を乗せる木製の四脚)に強飯(こわいい/うるち米を蒸して更に水を加えて蒸したもの)と羹(あつもの/吸い物、スープ)を含んだ数種類の野菜や魚料理が主だった。
これらはほとんど味がついていない為、塩や酢といった様々な調味料が添えられた小皿を用いて自身で味を付けながら味わうという食生活で育ってきたため、この世界に来てからというもの、見るもの口にするもの全てが初めての事ばかりだった。
当然、失敗を何度も重ね、その度に頭を下げた。
屋敷に来て間もない頃、麺料理を初めて見た日の事になる。
少し大きな汁椀に赤茶色の羹が注がれている。ホカホカと湯気が立つその碗には細長い大根を干したような何かと共に厚く切られた肉のような物がどんと鎮座しているではないか。
『・・・・・・・こんなの・・見たことない』
キョロキョロと顔を動かせば、細長いものを器用に箸で摘まみながら音ひとつ立てずに黙々と口に運んでいる絽玖達の姿があった。
ホカホカと湯気がのぼるその碗は何処から見ても熱そうで、冷めているようには見えない。仕方なく蓮華を手にした世渡が見様見真似で、羹をすくいふうふうと息を吹きかけ、それをゆっくりと口に含むことにしたまでは良かったのだが・・。
「・・・・・・・!」
口に入れた瞬間。世渡の眼前にガツンとした衝撃と共に星が飛び散ったのは言うまでもなかった。
びりびりと毛虫でも通ったのかと言わんばかりの衝撃と火傷する程の熱さが舌の上を滑り、ひりひりと喉が焼けつくような強い痛みを直に感じた彼は、ほぼ無意識の中、気がついた時には「かっらぁ・・!」と蓮華を手放し声を荒げてしまっていたのだ。
あの日の生きた心地のしない感覚は今でも忘れる事が出来ないままだ。
「・・・あ・・・」
カシャン。
しいんと静まり返った部屋の中に大きく響く高い音と、静止画のように落ちていく蓮華、刺した針のようにピリッと張りつめ固くなる場の雰囲気は世渡の唇を瞬時に振るわせた。
「・・・ぁ・・あっ・・ごめっ・・なさ・・」
拾います。そう伝えようにも喉はすぐに乾いてしまって上手く言葉を発する事が出来ない。
ガクガクと震える顎を止める事も出来ないまま、ぶるぶると震える手で立ち上がろうとしたのだが、自身の右足が動かないことをすっかりと失念していた彼は無理に動こうとしたことで動かない足に躓き、椅子から転げ落ちてしまった。
「・・・・・・ぁ・・・」
ぐらりと視界が揺れたのは、それからすぐの事だった。
砂が池の水を吸うように、じわじわと攻めてくる何かがあった。
ザアザアと視界を濡らす雨音が全身を容赦なく叩きつけ、明りひとつない闇は昼に比べると一層高い音で千早の耳に攻め来ようとしている。
ゴロゴロと唸るように鳴る雷はどれだけ耳を塞ごうとしても隙間から入り込み、その度に光る土が見える。
肌寒い闇の中でガサゴソと動く風音に幾度もびくりと身体を震わせながら鬼丸の姿を目で追いかけては、這いながら隠れる場所を探した。
食べられる物は何も無く、口に出来るものとしたら葉を落ちる天露のみ。
途中、捨て置かれて路頭に迷う身なりの良い着物の女性に襲い掛からんとする妖怪の姿を幾度も目にした。嘲笑の中で衣を剥ぎ取られながら、もたつく足が引きずられていく。
露わになった腿の白い素肌に伸びる手は太く、艶を失った髪の隙間からは大きく開かれた唇が見えた。乳房を掴まれ髪が切られる様を見て何度耳を塞ごうとしたことか。
上下に揺れてもがく指と悲痛な声が止まぬ中、震える身体をそのままに鬼丸と共に木の陰、森の闇に身を隠しながら何度も逃げた。
その日々が、封じていたはずの光景がじわじわと世渡の、否、千早の脳裏を侵食しようと進んでくるのだ。
「・・・・・・・あ・・・」
発した声は枯れていて、揺れる視界に紅の衣が見えた。
「・・・・・・・・・・動けないなら、余計な事しないでくれる?」
腰を落として蓮華を拾い上げる李棵の抑揚の無い声が世渡の頭上に落ちる。
その声で、世渡は過去から現実へと一気に引き戻されてしまっていた。
「・・・顔に足蹴りされないだけマシだと思いなよ。立ちな」
「・・・・ぁ・・・」
言い放たれたその声は冷たく、怒りにも似た感情が声の奥に込められたまま世渡の側を通り過ぎ、残された彼の瞳には床だけが映されてしまっている。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
その後、絽玖の手を借りて座り直し、何度も同じ失敗をするわけにはいかないと張りつめたままの体でどの料理にも口を付けた。
ギリギリと締め上げられたかのような雰囲気の中で震える腕をそのままに、もたもたした動作で噛まずに飲み込んだ時間が懐かしい。
びりびりと刺すような痛みに耐えながら、椀の中の料理を何とか口に含んだまでは良いけれど、逃げるように自室に戻る際、腹の奥から全てが込み上げ、その衝動に急ぎ厠で戻したのはその後一度や二度ではなかった。
虫の声響く深夜。
『もう、嫌だ・・食べたくない・・・もう嫌だ・・帰りたぃ・・帰りたいよぅ・・』
コンと朧月夜の名を呼びながら寝台の上で蹲り、ぐすっぐすっと溢れては止まりそうもない涙を手のひらで何度も拭い格子窓を見上げても、その窓は全ての視界を遮るように閉ざされたままだ。
隠すように漏れるその声も涙も夜の帳の前では溶けるように落ちて、消えて行ったのである。
「・・・・・・・・・・・・」
世渡自身も何も考えていないわけではなかった。連れて来られた理由を何度問おうとしてもその度に絽玖の口から答えを聞く事が出来ないまま日だけが過ぎて行き、その度に世渡の首が幾度も垂れ、口からは重い溜息だけが零れて行く。
水も味も全てが違った場所での生活は予想以上に世渡の心を蝕み、それは現在も続いている。
「・・・・・・・・・・・」
砂糖を入れていないのに何処か甘さを感じるそのお茶はじんわりと世渡の喉を潤していく。
「・・・ここのお茶は不思議ですね・・どのお茶も柔らかい味がします」
「・・そうですか?」
「ええ」
「毎日飲んでいると気付かないことが多くあります。それに気付かせて下さるのは、きっとあなたのような存在がいて下さるからでしょうね」
そう言って絽玖が蓋碗に視線を向けた。
「・・・・あ・・・あの・・」
「・・なんでしょうか?」
「あ・・えっと・・」
先程の話はやはりお断りしますと言いかけるけれど、なかなか上手く声に出せない。けれど目の前に座し「うん?」と首を少し傾けながら世渡を見る絽玖の表情は何処か優しいものだった。瞳を逸らすことが出来ないまま、どこか気恥ずかしさを感じつつ視線を泳がせる世渡の姿に絽玖は「ああ・・」とだけ呟くと蓋碗を背の卓に戻した。
「では・・そうですね。私と賭けをしませんか?」
「賭け・・ですか?」
「ええ・・今から私があなたにすることをお許し願いたいのですよ。世渡」
「・・っ・・」
「おや?違うのですか?」
笑みを浮かべながら、絽玖の顔がゆっくりと世渡に近づいていく。その表情に一瞬出遅れた彼の手からゆっくりと蓋碗を受け取ると「いかがですか?」と言わんばかりの微笑みを見せたのである。
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