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第1話

 長い触角をピンと立てて、艶やかな緑色のバッタが大きく弧を描きながら目の前を横切った。 その鮮やかさに心が躍り、ちょうどしゃがみこんでいた椎名は自分も同じようにビヨンと飛んだ。  ふくふくとした小さな両手で緑の生き物を包み込み、手の中に閉じ込める。 丸めた親指の隙間から掌の内側を覗き込んだが、真っ暗で何も見えない。 しかし確かに感じる皮膚の上のゴソゴソとした感触は、ここにあのバッタがいるということを証明していた。 「おかあさーん! バッタさんとった! 見てほら! バッタさんだよ!」  庭先から開けっ放しの掃き出し窓まで駆け寄り、甲高い声で母親を呼びかけると、家の奥で赤ん坊のグズる声が聞こえてきた。 「あらら、大きいのが出ちゃったかしら。お母さんみいちゃんのおしめ替えないと。お兄ちゃんはひとりで遊んでてね」  幼い椎名を一瞥した母親は、くるりと背中を向けて泣き声のする方へ行ってしまった。  ひとりぼっちになった椎名は、さきほどの興奮めいた気持ちが急激に萎んでいくのを感じた。 カサコソと狭い空間の中でバッタが動き回っている。 さっきまで綺麗な宝物を手に入れたと思っていたのに、その喜びは嘘のように色褪せ、一瞬で価値を失ってしまった。  力の抜けた指の隙間から、緑の生き物が自由を求めて身を乗り出す。 力強く跳躍して地面に着地した後、草の間に紛れて見えなくなった。  綺麗なものを手に入れた感動を母親と共有したかった。 そのキラキラとした純粋な感情は、しかし母親には届かない。 自分の発言も行動も、いつだって重要視されず後回し。  小さな家族が増えてからというもの、なりたくもない「お兄ちゃん」という役職を与えられ、むりやり自分ではないものとして扱われる。 自分ってなに。お兄ちゃんってなに。 妹が生まれる前のフミくんと呼ばれていた自分が、自分の知っている自分だ。 お兄ちゃんじゃないフミくんはいらないの? お父さんもお母さんも、妹さえいればいいんだ――と、そんな卑屈な思い込みが育ったのは自分のせいだろうか。 どこにでもある、誰しもが体験しうる、なんの変哲もない過去。 それが積み重なって「無価値な自分」というしこりを胸に根付かせてしまったのは、己の弱さのせいなのだろう。  高校卒業後、椎名は実家から離れた大学に通うため、上京して一人暮らしを始めた。  大学に入って最初の講義を受け終えた時のこと。 強い視線を感じて隣に座っていた人物を見ると、目があった瞬間声をかけられた。 「君なにかスポーツでもしてるの?」  受験期は塾だなんだと時間的な余裕もなく、この一年気が向いた時にしかやっていなかったのに、わかるものなんだなと椎名は微笑んだ。 「鋭いね。俺この間まで弓道やってたんだ」 「あ……ああ、そうなんだ! どうりで姿勢がいいわけだ」  やけに納得した顔で感心している男も、細いけれどきちんと筋肉が乗っている健康的な体型で、水泳とか陸上をやっていたのかもしれないと思った。 垢抜けた雰囲気を纏いつつスレた様子のないその人物は、第一印象からしてかなり好きなタイプだった。 「俺、椎名史陽(しいなふみあき)っていうんだけど、そっちは?」 「え、ああ、相庭忍(あいばしのぶ)」 「相庭? 良かったら友達になってよ」 「い……、いいよ」 「やった。相葉が大学での友達第一号だ」  手を差し出して握手を求めると、照れたように握り返してくれた相庭の笑顔がなんだか芸能人みたいにキラキラしていて、自分なんかとは全く違う人種に見えた。  大学に入って一番最初にできた驚くほど気の合う友人。いつの間にかそれが相庭忍の立ち位置になっていた。  彼は最初から椎名に好意的でよく笑った。  女子ウケの良さそうな中性的な雰囲気で、ピッタリとしたボディラインの服装を好み、さりげなくプレッピースタイルを取り入れたオシャレ優等生タイプだ。  浮いた話を聞かないのが不思議なくらいで、まさか自分の方に先に春が訪れるだなんて、椎名自身思ってもみなかった。 「若奈ちゃんと付き合うことになった!」  運命的に一目惚れした彼女に押して押して押しまくった結果、二ヶ月と経たないうちに交際がスタートし、その頃には親友へと昇格していた相庭に興奮気味に報告をした。 「え、あ……ああ、そう! よかったな……!」  満面の笑みで喜んでくれる親友の姿を想像していたのに、彼は驚いたように瞬きをして、むりやり笑ったと分かるほど固まった表情で祝福した。  ――なんだ?  逡巡した後、きっと反応が出遅れたことへの焦りがそうさせたのだろうと自己完結し、椎名は一瞬で違和感を忘れた。  翌日はいつも通りにっこり笑って椎名を祝いながらも、独り身だった頃とは違う気遣いを見せる相庭の態度が嬉しかった。  最愛の恋人と過ごす時間が増え、それに比例して親友と過ごす時間は格段に減っていった。 それはあまりにも自然なことで、なんの疑問も寂しさも感じなかった。 「フミくんって、呼んじゃおうかな……」  若奈と付き合い始めて最初のデート。 夕方の薄暗い時間、まだ少し肌寒いカフェテラスでキャンドルの灯りに照らされながら、椎名が彼女の肩に上着をかけた時だった。  オレンジ色の薄明かりがちろちろと優しく彼女を照らし、ほんのり染まった頬と艶やかなピンク色の唇が揺れる様を、吸い寄せられるようにぼんやりと眺めていた。  あからさまに注がれた視線の熱に気づいて、若奈は潤んだ瞳を見せつけるように、恋人になったばかりの男の顔を上目遣いで覗き見た。  睫毛のクルンとした綺麗なカーブが、椎名の男心をくすぐる。  自分の魅力を充分理解している仕草は、そうとわかっていても惹きつけられる。 むしろそういう女性だからこそ、憧れに近い眩しいほどの想いを抱かずにはいられなかったのだろう。  その彼女が自分と特別な関係になり、特別な呼び方をしようとしてくれている。 痺れるほどの高揚感と幸福感で、頭のネジがぼろぼろとこぼれ落ちていくのを感じた。 「俺も若奈って呼んでいい?」 「うん。……ふふふ、恋人っぽいね」 「――っぽいじゃなくて、恋人でしょ?」  んふふ、と照れたように頬を紅潮させた若奈が愛しくて、人目を盗んでキスをした。 恋人になってから初めてのキスだった。  理想の彼女との恋愛は、あまりにも簡単に椎名をのぼせ上がらせ夢中にさせた。 自分には勿体ないほどの相手が側にいてくれることに、優越感のようなものも感じていた。  キレイ事ばかりではくくれない身を焦がすような恋情を覚えたのは初めてで、これが本当の恋なのかもしれない――と椎名なりに感じていた。  大学も夏期休暇もひたすら若奈との蜜月を謳歌した椎名は、秋になるとささやかな三ヶ月記念の旅行を計画した。  ――近場でのんびり温泉でも、という彼女からのリクエストで目指した日光では、二泊三日のまったり旅をめいっぱい楽しんだ。  三ヶ月、四ヶ月、半年が経っても、喧嘩一つしたことがないほど仲の良いカップルで、周囲に自慢して回りたいくらい順調な交際を続けていた。  しかし若奈が理想的な女性であればあるほど、どこか釣り合わない自分への劣等感が日増しに強くなり、彼女との関係を維持することに疲れを感じて始めていた。  椎名は昔から決してモテるタイプではなかった。 背が高く体格の良さはプラスになっていても、造作の目立たない目鼻立ちはどこにでもいる至って平凡な顔で、一重のはれぼったい瞳と黒縁眼鏡は古風な印象を与える。 昭和のバブル期にでも青春を迎えていればマシだったのだろうが、容姿のみならず中身も期待を裏切らない平凡な男で、『椎名くんっていい人だよね』と女性から言われるのが関の山だ。  それだけではない。生まれ育った環境で出来上がった『自分は注目されない存在だ』という固定観念が、二十年近く意識の奥深くまで浸透し、こびり付ていて離れない。  自分が小さな存在だと、そのうえ男としても目立った魅力はないのだと知りながら、大抵の男に通用するであろう魅力を持った若奈を繋ぎ止めるのは、ひどく大変で不可能に近いことのように思えて、不安を抱かずにはいられなかった。  憧れのような存在を側に置くことは、こんなにもコンプレックスを突きつけられるものなのかと、彼女を好きになって初めて思い知らされた。  若奈一色の生活を続けていたら自分は間違いなく自滅する。 このままだといつ愛想を尽かされるかわからない。  コンプレックスの塊である自分自身に危機感を覚え、椎名は適度な距離を保ちながら、若奈と上手く付き合っていこうと気合を入れ直した。

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