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第1話

「いい顔だ」 経済誌の表紙を飾る人の頬を指先でそっと撫で、光沢のある紙を開く。 --- 巻頭インタビュー ――(株)SSスラスト 代表取締役/CEO 周防(すおう) 眞臣(さねおみ)  旧態依然とした業界に革新を巻き起こし、飛躍的な成長を遂げた若獅子  始まりは大学時代、親友との何気ない会話と小さな疑問だった  親友とのツートップ体制でスラスト(推進)してきた今までとこれからを聞く --- 肩書きの隣に写るのは表紙と同じ人物で、亜麻色の髪を肩まで伸ばし、ほんの少し日本人離れした顔立ちをして、(はしばみ)色の瞳を生き生きと輝かせている。  社内カフェでテイクアウトしたコーヒーを飲みつつ活字に目を走らせていたら、ドアがノックされた。 「どうぞ」 「副社長、おはようございます」  すぐにドアが開き、僕と似たすっきりした顔立ちの女性が入ってくる。僕は肩の力を抜いて挨拶をした。 「おはよう、お姉ちゃん。この雑誌、無難だけどいい内容だね」 秘書室長を務めるのは僕の実姉、凜々可(りりか)だ。 「そうでしょう。周防くんの素直で前向きなところを切り取ってくれたわ」 「周防は華があるし人当たりがよくて弁が立つ。やっぱり企業のトップとして前面に出るのに向いている」 「実務を執り仕切る副社長といいバランスね」  秘書室長を務める姉は笑いながら、名刺の箱を僕のデスクに置いた。 「新しいデザインの名刺。とりあえず5箱で足りる?」 僕はデスクに置かれた名刺の箱を開けて内容を確認する。 ――株式会社SSスラスト 取締役副社長/COO(最高執行責任者) 佐和(さわ) 朔夜(さくや) 「ありがとう。……怪我?」 姉の左手薬指には、まだ新しい銀色のリングがある。その手の甲から手首にかけて、テーピングが施されているのに気づいた。  姉は僕の視線を辿り、テーピングを見たまま困ったように笑った。 「ああ、これねぇ……。腱鞘炎よ。キーボードの打ち過ぎね。株主総会前は連絡事項が増えるし、作らなきゃいけない書類も多いから」 「そっか。大変だね。……って、他人事じゃない。僕ものんびりコーヒーを飲んでいられるのは、あと五分だけだ」 視認性のよさが気に入っているパイロットウォッチに目をやって、僕はがぶりとコーヒーを飲んだ。 「監査法人の光島(みつしま)さん、もういらしてるけど。新人研修みたいな若い人たちが一緒に来ていて、なんだか大人数よ」 姉は笑って部屋から出て行き、僕は雑誌を閉じてデスクの引き出しに収め、大きく伸びをして椅子から立ち上がった。  はめ殺しの分厚いガラス窓から外の景色を見る。  目の前には天を削るような高層ビル群(スカイスクレイパー)。眼下に広がる街はジオラマのようで、手を伸ばせば掴めそうな距離には赤と白に塗られた東京タワーがある。  あの低いところにある大展望台(メインデッキ)が、この会社の始まりだった。  大展望台まで階段で上れると知った周防がチャレンジしたいと言い出し、大学の帰りに立ち寄った。エレベーターでも階段でも展望料金は同じなのに、わざわざ苦労する手段を選び、少しずつ地上から離れた。 「なあ、佐和。さっきの光島さんの話、本当にやってみたくないか」  ドクターマーチンの8ホールを履いた足で階段を一段飛ばしに上りながら周防が言った。僕はバンズのスリッポンを履いて律儀に一段ずつ上りながら周防と肩を並べていた。 「会社を作るって話? いいんじゃないかな。光島さんが言うとおり、株式会社の設立自体は簡単だから、とりあえずやってみるという選択肢はアリだと思う。就活が本格的に始まる前にこういう経験しておくのは勉強になりそう」  大展望台までほんの10分ほど、地上を離れるにつれて話は具体的になって、大展望台に着いたときには会社名を考えていた。 「佐和の好きな社名でいいよ」 「何で?」 「佐和が決めた社名なら、自信を持って名乗れる気がするから」 「変なの」 僕は笑ってガラスの向こうの景色を見回した。  澄んだ空を航空機が一機、空を切り裂くように雲を引いて飛んでいる様子が見えた。機影は小さく、かなり離れた場所を飛んでいるだろうに、移動速度は速くて力強そうに見えた。 「thrust(スラスト)ってどうかな」  スマホに表示させた単語の意味も一緒に見せた。 「推進力、強く押す、突出する、か。……よし、そこにふたりのイニシャルをつけて『SSスラスト』にしよう」 僕が頷くと、周防は頬の筋肉を盛り上げた。 「佐和、見て。あのオフィスに入居したら、毎日東京タワーが見えていいと思わないか?」 指さしたのは、すぐ目の前にある天を削るような高層ビルだった。 「あのビル?」 「そう。5年後にあのビルの中にオフィスを構えよう」 「面白そうだね」 僕の頭の中では、既にプランが組み上がり始めていた。周防の言っていることは現時点では滅茶苦茶に思えるが、周防と僕のふたりなら実行できそうに思えて、視界はクリアだった。 「佐和。俺と一緒に飛べるか?」  手を掴んで引っ張って行かれたのは、ルックダウンウィンドウというガラス張りの床の前だった。覗き込んでみると145m下のアスファルトまで一直線に見下ろせて、足の裏がくすぐったく内蔵が浮きあがるような気がする。でも僕は顔色なんか変えないで、平然とした態度で周防に向かって頷いた。 「いいよ。周防と一緒なら飛べる」 僕たちは互いの指を交互に絡め、しっかりと握りあって軽く膝を曲げた。 「せーのっ!」 軽いジャンプで一歩先のガラスの上に飛び移る。そのままアスファルトへ叩きつけられそうな恐怖がせり上がってきたが、それよりも繋いでいる手の確かさを信頼できた。  ガラスの上に乗ったドクターマーチンの8ホールとバンズのスリッポンは、今でも互いのスマホの中に残っているはずだ。僕たちの会社の第一歩として。  今、僕たちは、あの日周防が指さした高層ビルにオフィスを構えている。5年後というのも予言通りの移転だった。今はもう役員室にも木目のデスクにも馴染んで違和感はないけれど、創立から今までの経緯を改めて活字で追って読めば、懐かしさも、今ここにいる不思議さも感じる。 「副社長、監査法人の光島さんがお見えです」 内線電話のスピーカーから聞こえる秘書室長の声に僕は振り返った。 「すぐ行きます」  姿見の前に立ち、オールバックに撫でつけている黒髪と、自分の身体に合わせて仕立てたスーツの衿を整え、アンダーリムのメガネを押し上げてから、タブレットと資料が詰まったバインダーを抱えて部屋を出た。

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