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第2話
「お待たせ致しました、佐和です」
荷物を抱えたままミーティングルームのドアを肩で押し開けていると、ドアがふっと軽くなった。
「お待たせしました、周防です」
あとからやって来た周防が大きな手でドアを押さえてくれていた。
「ありがとう」
「どういたしまして。その資料、半分持つ」
「いいよ、テーブルは目の前だ」
周防がテーブル奥の中央、その左隣に僕が立って、あらためて挨拶をしてから席に着く。光島さんの後ろにはまだスーツが馴染まない青年が数名、居心地悪そうに背筋を伸ばしていた。
かつて僕も周防も光島さんに連れ回してもらい、場違いな席で緊張した経験があるから、彼らのぎこちなさは懐かしい。
「アドバイザリー部門に配属されました。お見知り置きを」
光島さんが紹介してくれて、全員と名刺交換をしたが、左右どちらの手で名刺を差し出すのか、名刺入れの上に誰の名刺を載せるのか、混乱しているのがありありとわかって微笑ましかった。
周防はさすがの人懐っこさで、朗らかな笑みを浮かべて全員を見渡す。
「梅雨入りした途端に晴れましたね。気温もだいぶ上がっているから、暑かったら我慢しないでジャケットは脱いでください。俺も脱ぎますので」
率先してジャケットを脱ぎ、自分でコートハンガーに掛けた。光島さんは立ち歩く周防を目で追いながら微笑む。
「梅雨の晴れ間は夏のような陽射しですが、さすがにダイビングには向かない時期でしょうかね」
光島さんは若輩者の僕たちにも、いつも丁寧な言葉と態度で接してくれる。日だまりで丸くなる猫のように人の気持ちを和ませる力がある。
対して周防は力強い笑顔で返事をする。
「梅雨時もダイビングはできますよ。雨の日に潜るのも意外に楽しいんです。な、佐和?」
僕は一瞬だけ周防を見て、光島さんに向かって小さく頷いた。
光島さんは僕たちの大学のOBで、講義を一コマ受け持っている。当時学生だった周防と僕の話を面白がり、起業を勧めてくれた人だ。
普段は大手会計監査法人のアドバイザリー部門にいる。経営コンサルタントが現場に向けたアドバイスをくれるのに対し、監査法人のアドバイザリーは取締役や監査に向けたアドバイスをくれる。光島さんは、僕たちにとって大切なアドバイザーだ。
「ダイビングに行くためには、まずは株主総会を終わらせないとね」
僕は話を片づけて、たっぷりと幅のあるテーブルに資料を広げた。周防のインタビュー記事で過去を振り返ったせいか、資料を広げるスペースに余裕があるだけでも感傷的になる。
起業してすぐの頃は今ほどコワーキングスペースが普及してなく、ろくに信用も資金もない若造が事務所を借りるのは難しくて、僕の実家の自分の部屋にローテーブルを置き、ふたりでノートパソコンを広げていた。
名刺を作っても、その扱い方すらわかっていなくて、当時すでに企業の秘書室に勤務していた姉が、僕たちを見て悲鳴を上げた。
「あなたたち、せめて名刺交換のやり方くらい覚えなさいよ!」
姉がビジネスマナーを仕込んでくれて、光島さんが「面白い子たちがいる」とあちこち紹介してくれたおかげで、会社は勢いよく滑り出した。すぐに忙しくなり、周防はほとんど僕の部屋に住んでいて、僕たちは仕事の合間に大学へ行くようになった。
仕事のやり方は今よりずっと下手で無駄が多かったけれど、毎日が楽しくて仕方がなかった。力一杯仕事をして、ふたりでシングルベッドに倒れ込み、互いの額が触れ合う距離で、まだ僕たちは仕事の話をして、将来のビジョンについて語り合った。
先にベッドに倒れ込んだ僕の背中に、周防が倒れ込んでくることもあったし、僕が周防の肩に頭を乗せて目を閉じ、僕の髪を周防が黙って撫でてくれることもあった。
いずれにしても、僕たちは怖いものがなくて、何かにつけてはじけるように笑っていた。
腹を括って就職活動はしないと決め、事務所を借り、人を雇った。
そこから事務所の広さと従業員数は雪だるま式に増えていき、経営企画、総務人事、財務、営業、技術、コンプライアンス、内部監査、リスク管理、知的財産、広報、その他付随するあれこれ、僕が一人で統括していた仕事が、社員数3桁を超えたあたりで急に捌ききれなくなった。
同じ頃、資金調達のため一部の株式を公開したので、会社を見る目を一層厳しくする必要が生じ、さらには株の動向を気にする必要も生じて、マスコミからの取材も増え、いろんな人がいろんな意見をくれるようになって、周防の神経もすり減っていた。
僕たちのスマホは鳴動しっぱなし、会議中でもメールやチャットの返信を続けなければ追いつかず、起きている時間はすべて仕事に費やしているような状態に陥った。
そこまで追い込まれると、シャワーを浴びたりドライヤーを使ったり大きな音を聞いているときに、ふとスマホが鳴動しているような錯覚に囚われる。寝ていても夢の中で仕事をしているし、たまの休日なんて周防も僕も何をしていいかわからずそわそわする。
遊びに行く場所も思いつかず、実家の庭でスマホを見ながら周防と仕事の話をしつつ、交互に飼い犬のジョンに空気の抜けたボールを投げてやっていたら、また姉にどやされた。
「あなたたち、秘書を雇うっていう発想はないの? 秘書に仕事を整理させなさいよ。秘書を雇ったら、あとは電波の届かない場所に遊びに行きなさいっ!」
「お姉ちゃんが秘書になってくれる?」
そう言ったのは周防だった。空気の抜けたボールを左右の手で往復させ、投げて欲しくて待ちきれないジョンが周防の周りをぐるぐる走って、でも周防は真っ直ぐ真剣に姉を見ていた。
「いいわよ。私の給料は安くないから覚悟してね」
「わかった。俺の役員報酬を削ってもいい、ウチの会社に来て、俺と佐和の仕事を仕切って」
姉は頷き、さらに言った。
「スキューバダイビングがいいらしいわよ。電波の届かない場所!」
そういった経緯で、周防と僕は姉を秘書室長に迎え入れ、スキューバダイビングを趣味にした。
「今年は業績が上向いていて、特に動議などはないと思うけれど、油断はしないほうがいいね。周防社長も佐和副社長も注目されているから、スキャンダルには気をつけて」
穏やかな光島さんの笑顔に、周防は強い笑顔を返す。
「社長と副社長が一緒にダイビングに行くくらいで、スキャンダルにはならないでしょう。シャンシャンで終わらせて、打ち上げに潜りに行きたいな。な、佐和?」
僕は一瞬だけ周防を見て、すぐに光島さんへ目を逸らし、小さく微笑んで頷いた。
打ち合わせは順調で、光島さんは穏やかな笑みを残し、僕たちに励ましの言葉を掛けて帰って行った。
「では次は総会のリハーサルで」
「はい。よろしくお願い致します」
エレベーターまで見送ってドアが閉まるまで頭を下げ、周防と一緒にミーティングルームに戻る廊下を歩き始めた。
「光島さんに会うとホッとするね。総会も何とかなりそう」
僕は歩きながら両手を頭の上で組み、天井に向けて伸ばした。強張っていた筋肉がほぐれてじわりと身体が心地いい。
「光島さんは社外の人間だからギャランティに見合う仕事だけすればいい。佐和に対していい人でいられるよな。同じ会社にいたら、笑ってばかりもいられない」
周防は自分の不機嫌を払うように軽く頭を振った。亜麻色の髪がライオンのたてがみのように揺れる。
ミーティングルームに戻り、僕はその場でサマリーを書き始めた。場所を移動すると、どうしても気分が切り替わって書きたい内容を盛り込めない気がするから、なるべくその場で書き上げてしまうことを心がけている。
「佐和、今夜空いてる?」
テーブルのすぐ隣のスペースに軽く腰かけながら周防に訊ねられて、僕はわずかに顔を背ける。自分の視線がその大きな手と長い脚とトラウザーズのファスナー付近へ向かないように。
「そんなに遅い時間でなければ」
努めて素っ気なく答え、口許を手で覆う頬杖を突いて、書き上げた短いサマリーを無駄に何度も読み返した。
「リニューアルオープンしたホテルの中華料理店が接待に使えそうなんだ。偵察に行こう」
「いいけど」
「19時に駐車場で」
周防が歩き去り、ミーティングルームのドアが閉まる音を確認してから、僕は大きく息をついた。ふたりきりになるのは苦手なのに、どうしていつもYESの返事をしてしまうんだろう。
「浮き足立つなよ、佐和」
僕は自分に厳命し、片づけに入ってきた秘書たちと入れ替わりに部屋を出た。
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