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第3話

 昼食を食べながらレジュメを読み込み、取締役会に出席し、報告を受けて指示を出し、部下の相談に乗り、根回しの連絡を何往復かして、翌日のスケジュールを確認したら、約束の時間まであっという間だった。 「帰ります」  僕は秘書室に一言だけ言い残し、ビジネスバッグを持った手にジャケットを掛け、誰にも掴まらないようにエレベーターを避けて、非常階段で駐車場まで駆け下りた。  この高層ビルにオフィスを構える人たちの車がたくさん並ぶ地下駐車場でも、周防の白いスポーツカーは目立つ。  運転席には既に周防がいて、その少し日本人離れして整った顔は計器類のバックライトに照らされていた。僕は目立たないように深呼吸してから、助手席のドアに手を掛ける。 「お待たせ」 「全然平気」 周防はすぐにスマホの操作を止めて、僕に人懐っこい笑顔を見せた。  地下駐車場から出た車は、地球の上を滑るように走り出す。力強いエンジン音や幅広のタイヤが細かく拾う路面の凹凸は、車が好きな彼にとっては楽しみのひとつだろうけど、僕は車に興味がない。エンジン音だけでは息が詰まる。  僕は勝手に自分のスマホをペアリングして、スピーカーから無難なクラシック音楽を流した。  本当は僕だってニルヴァーナやパール・ジャムをかっこいいと思うし、ノイジーなギターサウンドだって好きだ。でも、周防が好きな物にはなるべく近づきたくない。仕事以外の共通点は減らしたい。  僕のこの変な気持ちが溢れ出して、彼を困らせたくないし、これからもずっと一緒に会社をやっていきたいから。  再開発地区の一年中煌めくイルミネーションを見ながら走り、お濠の近くにある老舗ホテルの駐車場へ滑り込んだ。 「リニューアルしても、このシャンデリアはそのまま残したんだな」  周防の言葉に、思わずシャンデリアを見上げる。  海の中へまっすぐ差し込む陽射しに、クリスタルの水泡が絡みついて天井に向かって上っていくようなシャンデリアは、今でこそレトロモダンだけれど、当時は先進的なデザインだったと思われる。  僕は煌めくクリスタルの粒に、海の中から見上げる気泡の美しさを思い出していた。  初めて周防と一緒に海へ潜ったとき、自分が住む地球にこんな世界が広がっていることを知って感動した。重力から解放されるような浮遊感、全身の皮膚に染み渡る海水、透き通った海、空を飛ぶように泳ぐ魚たち、水面で割れて揺らぐ陽の光、雨の日でも傘を差すという常識から離れて遊べる楽しさ。  周防がまた潜りに行きたいと言うのはもっともだし、僕もあの海を恋しいと思っている。  器材はショップに預けっぱなしになっていて、いつでも行けば潜れるのだけれど、辺鄙な穴場スポットなので宿泊施設が限られていて、畳の部屋に布団を並べて敷いて寝るしかない。  僕は至近距離で彼の寝顔を見る、その自分の目の濁りが後ろめたく、とうとうその後ろめたさに耐えきれなくなって、少しずつダイビングへは行かなくなった。 「行きたいよな、潜りに」 周防の言葉に素直に頷きかけて、僕は素っ気なく答えた。 「スケジュールが合えば」  ダイビングは楽しかった。できればまた行きたい。周防とバディを組んで潜り、一緒にあの幻想的な世界に身を置きたい。でも、もう二度と行かないだろう。  ざわめくロビーを横切って、高層階にある中華料理店へ行く。  周防が接待に使えそうだと言うとおり、ソファを置いた待合スペースつきの個室があって、直接店で待ち合わせても、ソファでアペリティフを飲みながら時間調整ができそうだ。  ビジネスバッグもスマホも全部手放してソファの上に置き、円卓に90度の角度でセッティングされたテーブルにつく。人と向かい合って食事するのは緊張するから嫌だという僕のために、秘書室がわざわざこのセッティングを依頼したのだろう。  正確にはこの角度じゃないと食事できない相手は周防だけなのだけれど。  周防が窓の外の景色に目を細めた。 「東京タワーが見えると嬉しいよな」 「そうだね」 周防の何気ない一言に相槌を打つ。その声が部屋の空気に溶けてなくなる。微かなBGMが流れるだけの部屋に戻る。  会話が続かないような相槌を選んでいるのは僕なのだけれど、食事が始まる前から空気が重苦しい。  相槌を打つ僕の席からはスカイツリーが見えていて、その冷たい光の神々しさに、跪いて縋り付きたい気持ちになっていた。早くこの会食を終わらせてください。僕は彼とふたりきりでいることは、嬉しいけれど苦しいのです。  周防は僕の素っ気ない相槌を気にするでもなく、メニューを広げる。  メニューを持ってきたウェイターの態度はスマートだが親しみやすく、料理の解説はわかりやすく滑らかで、好みを聞き出しては適切なリコメンドをしてくれる。  僕が何も決められなくても、すんなり決まって、ウェイターが恭しい態度で退出すると、周防はグラスの水で口を潤してから不意に笑った。 「最近、『どうしてここにいるんだろう』と思う瞬間があるんだ。佐和の実家の部屋じゃない、ジョンもいない。何でだ? 大丈夫なのか? って。朝目が覚めた瞬間に、佐和の部屋じゃないことに慌てる」 「そう」 僕もそう思うことがあるよ、懐かしいね、言いたい言葉はあったけど、喉の辺りでUターンさせた。 「ジョンは元気か?」 「元気らしいよ。相変わらず塀の下に穴を掘って、お隣さんの庭へ遊びに行っちゃうって」 「結構な深さまで掘らないといけないのに、よく頑張るな、ジョンは」  ノンアルコールビールで乾杯をして、小さな笑みが浮かぶ口にグラスを触れさせた。  僕はついグラスが触れる周防の唇に目を留めそうになり、逸らして窓の向こうのスカイツリーを見た。  冷菜から順番に、よく選ばれたデザインの器に彩りよく、形よく料理が盛りつけられてサーブされる。各自の皿への取り分けはウェイターがしてくれる。ソフィスケートされたサービスは、僕たちが会話しなくても進行した。  僕は、心がけて素っ気なく周防の言葉に相槌を打ち、目の前の料理に注視する。フカヒレの何か。絡みつくとろりとした餡が魚介ベースなのか、鶏ガラベースなのか、あるいは椎茸を使ったものなのか、そういう些細な味の違いは、周防とふたりきりの今、僕の舌には判別できない。 「おいしいね」  空々しいセリフを口にしながら、フカヒレの透き通った繊維の束をするりと口へ含む。その口許を榛色の瞳でじっと見てから、周防は口を開いた。 「佐和は、いつから人と向かい合って食事するのが苦手になった?」  僕は気取られないよう、ナフキンの角で口を拭きながらゆっくりと呼吸をし、表情を消して小さく首を傾げながらノンアルコールビールのグラスを口にする。 「いつかな? 子どもの頃のほうが怖いもの知らずで、大人になるにつれて少しずつ苦手になったのかもしれない。……このノンアルコールビール、美味いね。どこの銘柄だろう」 周防はそれ以上の追及はせず、僕はなるべく会話が続かないよう苦心して、さほど会話が盛り上がることもないまま会食は終わった。 「コーヒーでもどう?」 エレベーターのボタンを押しながらの誘いに、僕はかぶりをふる。 「今夜は予定がある」 「どこ? 送るよ」  少し思案してから答えた。 「自宅」 「来客?」 「そうじゃないけど、着替えてから出掛ける」 僕が借りている部屋は、周防の自宅とは会社を挟んで真逆にあるにも関わらず、嫌な顔もしないでハンドルを切る。 「恋人か?」 単刀直入な質問に、僕は顔を背けてガラスの向こうの街を見る。 「さあ」 「よければ今度、紹介して」 「いずれ、そういうときが来たら」  周防は赤信号のタイミングで僕のほうを見たが、僕は頑なに助手席側の窓ガラスから外を見続けた。ハンドルを抱え込むようにしてこちらを見ている周防の顔もガラスに映っていたけれど、視線は合わせないようにした。  周防は青信号になると微かに息を吐いて、静かに車を発信させた。 「送ってくれてありがとう。おやすみ」  素っ気なく挨拶をしても、周防は人懐っこい笑みを浮かべる。 「おやすみ、また明日」 僕は助手席のドアを閉め、見送ることもしないでマンションの中へ入った。嫌なヤツ。

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