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第46話(最終話)

 土曜日だけど、僕たちはわざわざスーツを身につけた。 「なんでそのネクタイなの?」 僕はボンタンアメ色のネクタイを見て笑う。 「佐和が初めて『愛してる』って言ってくれた日のネクタイだから、思い入れがある」 「ロマンチスト!」 「佐和がそう言って喜んでくれるあいだは、ずっとロマンチストでいる」 完璧なウィンクを決められた。僕は熱くなった顔を背け、階段を二段飛ばしで上り始めて、周防は笑いながら僕の手を掴んだ。 「ごめん、ごめん」  僕は頬の熱を夕方の風で冷やしながら、周防と手をつないだまま、東京タワーのメインデッキへ向かう階段をのぼった。  周防は一段飛ばしで、僕は一段ずつ飛ばさずに、それでも同じ速度で。  お姉ちゃんは偶然再会した高校時代の元彼が話を丁寧に全部聞いて、論点整理した上でひとつひとつ検証してくれて「凛々可ちゃんは悪くない」と結論づけてくれたので、すっかり元気になった。 「当時は物足りないと人だと思ってたけど、見直したわ」 なんて言って、まんざらでもなさそうだ。  仕事にも精が出て、僕たちに降りかかる仕事を力強く捌いてくれている。「嫌なら式は挙げなくてもいいけど、新婚旅行は行ってらっしゃい」と、夏休みとつなげて2週間の休暇がとれるよう、スケジュールを切ってくれた。  さらに「式は挙げなくても、両家の食事会くらいはしたほうがいいと思うのよね」と、両家のスケジュールを調整して、東京タワーのふもとにある料亭の個室まで手配してくれて、僕たちはうららかな春、大安吉日の日曜日に会食をして、全員で記念写真を撮った。  まるで小さな結婚披露宴のような雰囲気で、とにかく地味にしたかった僕は目の前がクラクラしたが、どちらの親兄弟も終始笑顔で僕たちの結婚を喜んでくれたのでよかった。  光島さんについては、もう関知していない。  隣の部屋は光島さんの親戚が立ち会って引き払った。壁に穴をあけて僕たちの寝室に向けてカメラが仕掛けられていたうえに、コンクリートマイクまで発見されたので、さすがに警察がやってきたが、念書と引き換えに不問にしていると伝えて、調書等はとらなかった。  そのとき部屋を見たのだが、僕がオーダーしたのとまったく同じデザインのソファが置かれ、テレビもコーヒーテーブルもすべて同じものを揃えて、僕たちの部屋のリビングがそっくりそのまま再現されていたことと、壁一面に学生時代から今までの僕の盗撮された写真が、服を着ているものも、着ていないものも、隙間なく貼られていたのを見た瞬間が、一番ぞっとした。  実家の庭へ行くとジョンが吠え、隣から返事のように院長の遠吠えが聞こえ、ジョンが呼応して吠えながら、笑顔で僕と周防のまわりを走るから、きっと光島さんの治療は順調なんだと思う。  そして僕と周防は、片思いという煩わしさを手放し、生涯共に歩むパートナーを手に入れて、気持ちに余裕ができたのを感じている。 「今年こそ株主総会はシャンシャンで。新婚旅行が楽しみだ」  周防は相変わらず時代の最先端を走り、未来を切り拓いている。以前ほど気短かではなくなり、僕がスマホを取り上げる回数は減ったけれど、時代感覚の鋭さに人間的な深みが加わって、ますます凄味を増している。 「株主総会より新婚旅行のほうが気が重い。ウェディングフォトなんて……僕はモデルじゃない」  左右に首を振っている僕も、仕事は波に乗っていて、グループ会社の改革は実現して兼務を解かれ、周防が示す指針の具現化は順調で、悩んでいたCSRも社内から積極的に手を挙げる人が現れて、上手く回り始めた。 「俺は佐和が一緒に笑ってる姿が見たいだけ」 「その説明は何度も聞いてる。納得はしてる」 「くすぐってでも笑わせるから、心配しないで。ね?」  周防が僕の顔を覗き込み、あやしてくれているあいだに、東の空の低い位置にストロベリームーンが現れた。  真っ赤に熟れたイチゴの断面みたいなピンク色の月が昇ってきて、窓際に立つ人たちは、こぞってスマホのレンズを向ける。  窓の向こうにオフィスが入居する高層ビルを見ながら、周防と僕だけが緊張していた。  周防は榛色の瞳で、まっすぐに僕を見た。 「1年近く悩んで、ロマンチックなセリフも考えたけれど。佐和に対しては常に誠実でありたいと思ったから、飾らず誠実に。……俺と結婚してください。佐和とずっと手をつないでいたい」  本気が伝わってくる視線と言葉に、僕はすぐには言葉が出てこなくて、何度か頷いてから口を開いた。 「はい。これからもずっと手をつないでいましょう」  周防がほっと息を吐き、僕も息を吐いて肩の力を抜いた。自然に笑みが浮かんで、並んで窓の外を見ながら肩をぶつけ合った。  それから僕はポケットから小箱を取り出し、蓋を開けた。  そこには繰り返し途切れることのないスクロールが刻まれた指輪がふたつ。  ベースの平打ちのリングに、プルメリアとスクロールを透かし彫りにしたプラチナリングを重ねたコンビネーション。プルメリアの中心には小さなダイヤまで入っている。  彫刻は繊細で、凝ったデザインだが違和感なくまとまっていた。  ベースがイエローゴールドで少し幅広の指輪が目立たせたい周防のもので、ベースがホワイトゴールドのつや消しで一般的な幅の指輪がさりげなくつけていたい僕のものだ。  指輪の裏側には、今日の日付とふたりのイニシャルSS、ふたつ重ねると完成する東京タワーの小さなイラストが刻まれている。  差し出された左手の薬指に幅広の指輪を嵌めてあげて、僕も左手の薬指に指輪を嵌めてもらった。  僕たちは左手の小指同士を絡めて昇り始めたストロベリームーンに掲げ、交換した指輪の写真を撮った。  そして、小指同士を絡めたまま、僕たちはそっとキスをした。 「佐和。何があっても、手を離すことだけはしないでいよう」 「うん。手を離さずにいれば、僕たちはどんなことも必ず乗り越えられる」  観光の人も、デートの人も、家族連れの人も賑わい、みんなが外の景色を見ている中で、僕たちは窓から離れ、床にはめ込まれたルックダウンウィンドウの前に立つ。いつものように周防は右側、僕は左側に立ち、あらためて互いの指を絡ませて手を握った。 「佐和、飛べるか?」 「もちろん」 「せーのっ!」  目の前のたった一歩先の世界へ、僕たちはこれからもスラストし続けていく。 ***  株主総会のリハーサルは、当日と同じ午前10時からで、僕と周防は優先順位の高い仕事だけ終えてエレベーターに乗り込む。 「オレも乗せてくださーい!」  アドバイザーの彼とは、その後の顛末まで話しながら食事をして、バーで飲んで、さらにDJがいるクラブへ行って生まれて初めて見る(周防は何度も見ているらしい)本物のパリピに紛れて朝まで騒ぎ、気持ちが晴れたらしい。今も変わらず監査法人のアドバイザリー部門にいて、一緒に2度目の株主総会を迎える。  周防は右端にあるエレベーターの操作盤を、とてもわざとらしく左手で操作する。ドアが閉まってからはしきりに左手で髪を掻き上げた。 「あれ、周防さん、ひょっとしてそれ結婚指輪ですかぁ!?」  素直に驚いてくれる彼に、周防は左手の甲を見せて自慢する。 「結婚した」 「うわああああ、おめでとうございますぅぅぅぅぅ! お相手は……」 タブレットとファイルを抱えている左手を、身体を折り曲げて覗き込まれ、僕もそっと左手の甲を見せた。 「どうぞご放念ください」 「そんなー。お祝いしましょうよー」 「いえ。もう身内で食事しましたから。マジでほっといて」  僕は心の底から断った。 「佐和はシャイだから、そっとしておいてやって。そのぶん俺が全部引き受ける」 周防は朗らかな笑顔を彼に向けた。 「プロポーズの言葉は?」 「残念、それは俺と佐和だけの秘密。でも、俺から言うと約束して、ちゃんと約束は果たした」 エレベーターを降りて、会場に向かって歩きながら、周防は自慢げに胸を張る。 「緊張しました?」 「緊張した。もっと普段の会話の延長で言えると思ってた。でも佐和も一緒に緊張してくれたから、一生忘れない、とても幸せないい時間だった」 周防は盛大にのろけて、彼は隣を歩きながら身悶えする。 「いいなぁ、オレもプロポーズしたい。誰か紹介してくださいよ」 「いいけど、俺のまわりは結婚願望がない人ばっかりだ」  話しながら控え室のドアを開ける。まだ誰も来ていなくて、部屋の中を見回した彼は、ドアに背をあて寄りかかって、人差し指の銃口を僕たちに向けて笑った。 「キスしてください。これは命令です」 「今年もまた脅迫されるのか」 周防は苦笑いしたが、素直に従って僕の腰を抱き、唇に唇を押しつけてきた。 「ん?!」  さらに舌まで差し込まれて応戦しているあいだ、シャッター音がいくつも聞こえる。  仕上げに口の周りの唾液を互いの唇で拭き取るキスをして顔を離した。僕は顔を背けたが、周防は平然としている。 「弱味は握らせてもらいました。ずっと幸せでいてください。おふたりの仲が険悪になったら、この写真はステークホルダーに向けて一斉に拡散されますから、そのおつもりで」  彼のスマホの画面には、顔を傾け深く唇を重ねている僕たちの姿があった。 「ありがとう。株主総会を混乱させないよう、ずっと幸せでいる。大丈夫だよな、佐和?」 「もちろん」 僕はアンダーリムのメガネを顔に押しつけながら、笑顔でしっかり頷いた。

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