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【番外編】俺は、佐和に出逢った。(1/3)

 選手には復帰できなくても、マネージャーとしてプールサイドに立つことはできるんじゃないか。  そう思って春休み中に水球部を見学させてもらったが、ダメだった。  水の中には高校時代に選抜で同じチームになったり、決勝で戦った選手が何人もいて、嫉妬と羨望、そして自分だけがプールの外にいる劣等感と屈辱と羞恥に叫び出しそうになった。  力強く水を掻く音、大きく跳ね上がる白い水しぶき、腹の底から出す掛け声。  基礎練習を見るだけで、自然に眉間に皺が集まり、目を眇めているのがわかる。心臓を圧迫されるような苦しさを感じ、ついに直視できなくなって目を閉じた。  俺は顧問に駆け寄った。  口は引き結ぶだけで精一杯、開いたら嗚咽か吐瀉物か咆哮か、いずれにせよ迷惑をかけるものしか出てこなそうだった。 「やっぱりまだキツいか。いいよ、またいつでもおいで」  顧問も俺の表情を見て、すぐに無理だとわかったらしい。引き止められることはなく、一礼してプールを辞した。  それから新入生オリエンテーションの日まで、また入学前のように酒を飲み、タバコを吸って、水球以外のことで気を紛らわせた。  スマホのアラームを止め、ソファの上に畳んで置かれていた服を着て、咥えタバコで自分の煙に顔をしかめながらスニーカーをつっかけ、名前も知らない女の部屋を出る。 「頭、痛ぇ……」  右も左もわからないキャンパスをふらふらと歩き、目についた自販機でコーラを買って、ベンチに座ってひと息に飲み干す。  込み上げる炭酸とため息を同時に吐き出し、ぼんやり目の前の景色を見た。景色は色を失って見え、賑やかな笑い声やおしゃべりはノイズに聞こえた。 「つまらない大学生活の始まりだ」  出勤する女の都合で追い出されたが、新入生オリエンテーリングの開始まで1時間ある。慣れないキャンパスで行く場所も思い当たらない。遅刻するよりは寝ているほうがマシかと、指定された教室へ行ってみた。  ドアを開けるとそこは階段状の教室で、彼はその真ん中で、ひとり静かに本を読んでいた。  黒板には学籍番号順に着席するよう指示されていて、辿って行ったら彼の右隣に辿り着いた。 「おはよう、早いね」  初対面なのに緊張する様子もなく、あっさりクラスメイトとして扱われて、俺は担いでいたリュックサックを机の下に放り込み、隣の席に座った。 「自分こそ早い」 「朝練のあと、そのまま来たから」  近くで見た彼は、背が高くて自分と同じくらい。姿勢のよい身体に黒のスキニーパンツを履き、アイロンの掛かったタイトなボタンダウンシャツを着て、黒のニットタイを合わせていた。服の素材は上質で発色がよく、身体のラインに合っている。育ちのよさが見て取れた。 「朝練か。体育会?」 「うん、馬術部」 「馬術か、かっこいいな。もう部活に参加してるってことは、……スポーツ推薦?」  スポーツ推薦という言葉は、つい鼻で嗤うような言い方になったが、彼は気にする様子もなく首を横に振って笑った。 「まさか! 国体に出るくらいの実力がないと、スポーツ推薦ってとれないらしいよ。僕は国体は逃したから、普通の内部推薦」  なるほど。内部生だから、すでに場所にも人にも慣れていて、クラスメイトに対しても物怖じをしないのか。  机に頬を押しつけて文庫本を覗き込む。紺地に銀色の星が散りばめられた布製のブックカバーを外してくれて、見えたタイトルは『君たちはどう生きるか』。  そんなことは、わざわざ吉野源三郎に訊かれなくても、今まさに自分で自分に問うていることで、プールサイドで味わった苦しさを改めて思い出して打ちのめされた。  星空のブックカバーと、文庫本を支える手を見ながら言った。 「俺、国体出たんだ……」 「素晴らしい! スポーツ推薦?」 はずむ声が頭に響き、つい自分の唇の前に人差し指を立てる。彼は黒目がちの大きな目を見開き、小さく肩をすくめた。 「……だったんだけど、引退試合で肩を壊して、一般推薦にまわった」 「そうだったんだ。ごめん、デリカシーのないことを言って」 心の底からすまなそうな声を出され、俺は小さく首を振った。 「全然諦めきれなくて、マネージャーとして関われたらと思って見学させてもらったんだけど。羨ましくて、悔しくて。叫び出しそうになって、逃げた。……情けねぇっ」  机に額を打ちつけた。彼は文庫本を閉じ、俺の背中へ手を当てる。 「話してくれてありがとう。ヘビーだったね。それでもちゃんと教室へ来て、偉いと思う」  同じ18歳とは思えない彼の思いやりある言葉と、心地よい低音に、俺の波立っていた心は少しずつ落ち着いた。  初対面なのに、変な奴。  クールな一重瞼の下の黒目がちの目を見たら、彼は涙袋をふっくらさせた。  俺は急に顔がむず痒く、心臓が絞られるような心地がして目を逸らしたが、会話は続けたくて言葉を紡ぐ。 「こんな感情を抱く自分は醜くて嫌だと思うけれど、解決の仕方はまだわからない。……でも、今、話すことができて、孤独からは救われた。ありがとう」 「どういたしまして」 「サンキュ。まだ酔ってるのかな……ごめん」  ゆっくり背中を撫でられて、俺は不覚にも小さく洟をすすり、まばたきを繰り返してしまった。でも彼は俺の情けない姿を優しく無視して、足元に置いていたバッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。 「水、飲む? 水分とったほうがいいよ」 「酒臭い?」 「酒臭いし、タバコ臭い」 眉をひそめる彼に、俺は苦笑した。 「タバコの匂いは嫌い?」 「うん、嫌い」 「そうか。考えておく」  わざわざ未開封のキャップを緩めて渡してくれたミネラルウォーターを、俺はありがとうと受け取って口をつけた。  机の上の置かれた文庫本は、読み癖がついて表紙が浮きあがり、ブックカバーの折り返し部分にS.Sとイニシャルが刺繍してあるのが見える。 「同じイニシャルだ。名前、なんていうの? 俺は周防(すおう)眞臣(さねおみ)」 発行されたばかりの学生証を机に置いて滑らせると、彼も学生証を差し出してくれた。附属高校の学ランを着た証明写真が貼付されていた。 「佐和(さわ)朔夜(さくや)」 「朔夜ってかっこいい名前だ」 「新月の夜に生まれたかららしいよ。気に入ってるけど、名字のほうが名前より短くて呼びやすいから、ずっと『佐和』って呼ばれてる。よければそう呼んで」 「よろしく、佐和。俺のことは周防で」 「よろしく、周防」  右手を差し出したら、きちんと握り返してくれた。ふたりの体温は近くて、馴染みがよかった。  俺はまたブックカバーを見た。夜空に月の姿は見えない。 「ひょっとして、新月の夜のブックカバーなのか」 「言われてみれば、そうなのかも。頂き物で、デザインの意図まで聞いたことがないけど」 「彼女?」  佐和は文庫本に目を落としたまま、小さく首を傾げるだけだった。ひょっとしてその彼女とはもう付き合っていなくて、未練で使っているブックカバーだったのか。 「訊いてはいけないことだったなら、謝る」 「ううん。そういうことじゃないんだけど。彼女がいるって言いたくないんだ。男同士ってそう言った瞬間に、彼女に悪いからって気を使われて、話の輪から外されるだろう。それにエッチな話をしたときに、彼女の姿と結びつけられるのも嫌だ」  毅然とした態度で言ってのける姿に、軽い衝撃を受けた。 「そんな考え方には初めて触れた。でも、そういう考え方もいいと思う」  自分よりはるかにしっかりした考えを持つ佐和に興味を持った。もっと知りたい、デートしたい、そう思って顔を覗き込んだ。 「このあたり、詳しくないから案内して。放課後でも、週末でも、予定は合わせるから」  佐和は首を傾げたまま身体まで傾けた。 「んー。今週は新人戦。来週も大会があるから難しいな。馬とのコミュニケーションを密にしておきたいから、世話をサボることはできない」 「試合はどこで? 応援に行く」 「遠いよ?」 「佐和の姿を見られるなら、どこへでも」  佐和は呆れたように笑って、試合の日程と会場を教えてくれた。  それから俺は、佐和がエントリーする全ての試合を応援に行った。  最初は一重まぶたを大きく開けて、黒目がちの瞳がこぼれ落ちるんじゃないかというほど驚いていた佐和だったが、すぐにニーケー号の上から黒目がちの瞳を動かして俺を探してくれるようになった。  佐和は俺の姿に気づくと、涙袋がふっくら膨らむ。  読書していて気に入った表現に出会ったときと同じ癖で、観察してみたところ、俺以外の人にはそういう反応はしない。  自分だけに特別な反応を示してくれることを誇りに思うし、大好きな癖だから、一生指摘しないで自分だけで楽しもうと思いつつ、俺は練習馬場の柵にもたれ、緩む口許を腕の内側に隠した。

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