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【番外編】俺は、佐和に出逢った。(2/3)

 母校の水球部後援会から、県大会の案内メールが届いたのは、梅雨の頃だった。  俺は一人暮らしのアパートで、誰に気兼ねすることもなく下半身をむき出しにして、スマホに佐和の写真を表示しながら自慰をしていた。  佐和がバナナを咥え、横目でレンズを見ていたずらっぽい笑みを浮かべている写真で、俺が 「エロい。ネタにしそう」 と打診したら笑って、あっさり 「いいよ。僕なんかでイケるのか知らないけど」 と許可が出た。  この写真を撮った翌日、正直に 「ごめん、マジで抜けた」 と頭を下げて謝罪したが、佐和は手で腹を押さえて笑い転げただけだった。  以来、俺はこの写真を使って自分の欲を高みへ導き昇華しているのだが、そろそろ本気で頂上を目指そうかと集中し始めたとき、案内メールが届いた。  プッシュ通知に表示される送信者名だけで、俺の欲はすっかり萎えて、下着とスウェットパンツを履き、手を洗った。  試合の日時と会場を見るだけで、頭の中には鋭いホイッスルが鳴り響き、視界一面にゴールとキーパーが立ちはだかり、塩素の匂いがして、口の中にはプールの水の味が広がる。  ふと試合を見たいような気がした。しかし独りで一歩を踏み出す勇気は持てなかった。誰かに背中を押してもらいたい。 『どうしよう』  俺はたった一言添えて、受け取ったメールを佐和に転送した。 『今、どこ?』 すぐに返信があって、俺はアパートの住所とマップを送信した。  30分もしないうちにインターフォンが鳴り、ドアを開けた先には、少し青ざめた表情の佐和が息を弾ませて立っていた。 「どうした?」  佐和は黒目がちの目を素早く左右に動かして、俺の顔を見た。 「ああ、よかった。大丈夫そうだね」 肩の力を抜き、大きく息を吐いて、佐和は膝に両手をついた。 「あ? ああ。上がれば。散らかってるけど」 「おじゃまします」 佐和は素直に靴を脱いで上がって、リュックサックを下ろし、ぺたんと床に座った。 「飲み会じゃなかったのか?」 「ん? 抜けてきちゃった」  明るい声で言いながら、床に置いていた水球の専門誌を拾い上げて読み始めた。それでようやく俺の頭の中で話がつながる。『どうしよう』を、こんなメールを受け取ってしまってどうしよう、感情の処理がしきれなくて混乱している、苦しいという言葉に解釈し、佐和は心配して駆けつけてくれたのではないか。 「ひょっとして、心配させた?」 「んー。ちょっとだけ」 照れたように耳が赤く、雑誌に視線を落としたまま佐和は笑った。俺を心配して駆けつけてくれたことに、申し訳なさを感じるのと同時に、その力強い優しさと行動力に感動した。 「ありがとう、佐和。飲み会を抜けさせて、ごめん」 「どういたしまして。周防が大丈夫ならそれでいい」 「少し飲む?」 「うん」  佐和はただ機嫌よく安酒を飲んで、俺の枕の半分に自分の髪の匂いを残して、翌朝帰って行った。  そして、佐和は母校の試合を一緒に観に行ってくれた。  電車を乗り継ぎ2時間近く掛かる距離にも関わらず、佐和は俺の隣に座って機嫌よさそうにして、初めて乗る路線の路線図を興味深げに眺めたり、窓の外の景色を大きな瞳に映していたりした。  駅からずっと景色に喚起された自分の思い出ばかりを話していて、県営水泳競技場の建物の入口は気づけば通り抜けていたが、観客席に通じるドアを開けて、塩素の匂いがする湿度の高い空気を鼻腔に吸い込んだら、足が止まった。  佐和も一緒に足を止めたが、ただ後ろから来る人の邪魔にならない位置へ俺の腕を掴んで誘導するだけで、何も言わず隣に立っていた。  きっとこのまま観戦せずに帰ると言っても、佐和は認めてくれるだろう。逃げ出したことを非難することもなく、明日からも変わらずにいてくれるはずだ。なぜかそれは確信できた。  だったらもう一歩踏み込んで、もっとかっこ悪い願いをしてみようか。 「もし途中でダメだと思ったら、逃げ出していいか」 「もちろん」 佐和はさらりと頷いて、俺は一番後ろの出入口に近い席に座った。  俺は頬を膨らませて強く息を吐き、左右の膝を揺らしてこばわる身体を緩めた。  会場にはロック系の洋楽がBGMとして流れ、プラカードを先頭に2校の選手が入場、審判を中心に2校がプールサイドに一列に並んだ。各校の選手の名前がひとりずつアナウンスされ、会場にいる人たちはそのたびにリズムよく2回拍手をする。選手は1回目の拍手で手を挙げて一歩前に出て、2回目の拍手で一礼する。 「こんなセレモニーをするんだね」 佐和はすぐに要領を飲み込んで、一緒になって楽しそう拍手していた。  イヤーガード付きのキャップをかぶった選手たちが入水して、赤いロープの下からコートへ入る。  白いキャップのチームから、顔をあげたクロールで泳ぐウォーミングアップを行い、いくつもボールが投げ込まれてパス練習をする。 「ボールを受け取るのも片手!?」 「水球はキーパー以外がボールを両手で持ったらファールをとられる。ボールの動きに合わせて手を後ろに引くようにするとキャッチしやすい」 実際の動作を見せながら佐和に説明して、以前ほど自分の肩の可動域が広くないことを感じたが、佐和が感心しながら話を聞いてくれたので、その黒い大きな瞳に気持ちを持って行かれた。  各チーム水中で円陣を組み、水中から飛び上がって解散し、ゴールラインに後頭部を押しつけてホイッスルを待つ。  ホイッスルと同時に水を掻いて進みながら陣形を作り、ドライバーはボールを目指す。先にボールをとったチームが攻撃権を持つ。素早く正確なパス回しで敵ゴール前のフローターにボールが渡り、さっそくシュートが決まった。 「もう1本っ!」  気づけば試合に夢中になって俺は手を叩き、声を出していた。第1クオーターが終わって、俺は大きく息をついた。 「いい感じだ。このままいければいい」 気持ちは久しぶりに高揚し、隣に座る佐和に俺は笑顔を向けていた。佐和は俺の笑顔を受け止めて一緒に笑ってくれる。 「水球の試合って初めて見たけど、ゲーム展開が早いね。審判がファールのホイッスルを鳴らしてるっぽいのに、選手はいつフリースローしてるの?」 「笛が鳴ったあとの一投目がフリースロー。サッカーみたいに試合を止めないから、わかりにくいかも」  俺は夢中になって自分と水球の話をした。自分のポジションはフローターだったこと、フローターはセンターフォワードとも呼ばれること、水中での競り合いは激しくて頭を掴んで沈められること、シュートのときに水中から高く飛び上がりたくて練習を繰り返したこと、ゴール前で手を広げるゴールキーパーは大きく見えること、シュートが決まった瞬間は勝手に腹から声が出るほど興奮すること。 「陸上と違って自由に動けないぶん、頭脳戦になる。激しいコンタクトプレーに目を奪われがちだけど、戦略とテクニックが必要。選手に求められるのは熱い心と冷静な頭脳」 「かっこいい。周防のそういう気持ちの熱さと冷静な頭脳は水球で培われたんだね」  佐和の笑顔があまりにも美しかったので、却って俺は不安になった。 「俺、鬱陶しかったか?」 「ううん。僕自身はハイカロリーな自己表現って、あまり得意じゃない。だからストレートに表せる周防をとてもいいと思うよ」 「そっか。よかった嫌われてなくて」 「何言ってるんだよ。僕は周防のことが好きだよ」 佐和は相手を認めて評価するように、好きという言葉を口にした。恋人に対して告げるような甘さも照れもなくて、そこに自分にとって都合のいい誤解は生まれない。 「ありがとう。俺も佐和のことが大好きだ」  俺は平静を装って『大好きだ』と言いながら、心臓が跳ね上がっているし、手に汗もかいていた。  ふたりの『好き』の違いはわかっているけれど、それでも俺は嬉しくて、さらにたくさん水球と自分のことをしゃべった。 

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