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【番外編】俺は、佐和に出逢った。(3/3)
試合は母校の勝利で終わり、観客席前に整列して一礼する選手たちに拍手を贈った。
「あ、周防先輩!」
1学年下の後輩が俺に向かって手を振り、気づいたほかの選手も手を振ってくれた。
「いい試合だった! おめでとう! お疲れ様!」
俺と一緒に練習し、試合に出て、その後の顛末も全部知っている後輩たちに、心からの笑顔と共に拍手して、手を振ることができた。佐和のおかげだ。
もう一度拍手を贈り、手を振って別れて、椅子に座り直したら佐和が言った。
「周防の母校ってここから近いの?」
「歩いて15分くらい。どんなところか見てみる?」
「うん」
自分で訊いておいて変な話だけれど、佐和が『うん』と返事するとは思わなかった。俺は自分に興味を持ってもらえているように感じて嬉しくて、学校までの道すがら、またもや自分の話をたくさんした。佐和は全部の話を笑顔で頷きながら聞いてくれた。
「俺の話ばっかりだ。楽しい?」
「楽しいよ。僕はずっと内部進学で、ほかの学校のことを知らないから。水球っていうスポーツもほとんど知らなかったし、寮生活なんて小説や漫画の中の話だと思ってた。そういうことを全部経験している周防の話は楽しい」
佐和は笑って、本当に興味深そうにあちこち見回しながら校舎内を歩き、廊下で掲示物を見て、校庭で部活動をする生徒たちを見た。
「いい学校だね。自然に囲まれて、のびやかで」
廊下を歩きながら窓の向こうの緑を見て、佐和は気持ちよさそうに伸びをした。
それだけで、今まで何とも思わなかった校舎が、居心地がよくて気持ちのいい場所だったように思える。
「のびのびしてるのは確かだ。……俺はいい6年間を過ごしたの、かな」
「うん、きっとそうだよ。周防、笑顔だもの」
顔を上げると、佐和が俺を見て笑っていた。今まで自分が笑っていたかはわからないが、今、佐和の笑顔を見て自分の頬が盛り上がっているのは感じた。
「周防の教室はどこ?」
高校3年の教室を案内した。校舎の端にあって西日がきつく差し込む教室だ。
「どこの席に座ってたの?」
「窓際から二列目の一番後ろ」
佐和はスマホを取り出して、俺が座っていた席を撮った。
「周防、座ってみて。どんなふうに座ってたの」
俺は浅く椅子に座り、肩幅に脚を開いて、机の脚と脚を繋ぐパイプに爪先を乗せ、パーカーのポケットに両手を突っ込んだ。
佐和は「周防っぽい」と笑って写真を撮り、俺のスマホに送信した。
「ちゃんと大学生になったよって、この席に座ってた半年前の周防くんに教えてあげたいね」
佐和が手のひらの上のスマホに向けて目を伏せて、画面を指先でそっと撫でた。その言葉と仕草に胸を打たれた。
こんな優しい感情を、俺は今までに持ち合わせたことがあっただろうか。ありがたく噛み締めながら頷いた。
「ああ。半年後には、佐和に会えるって、そう言ってやりたい」
佐和は俺にとびっきりの笑顔を向けた。
「ようこそ大学へ。周防に会えてよかった」
「それは俺のセリフだ。佐和に会えてよかった」
誰もいない教室で、これ以上こんな会話を続けていたら、壁際に追い詰めてキスをしそうだ。今はもう俺ではない誰かの席を立ち、佐和を促して教室を出た。
佐和と一緒だったら、大丈夫かも知れない。
おそるおそる南校舎の地下へ行き、外側からプールを覗いた。
結露したガラスの向こうでは、試合から戻ってきた選手たちが、さらに練習を重ねていた。試合を通じて自分の強さも弱さも知って、気分が高揚しているときの練習は楽しい。
「みんなタフだね。周防もこんなふうに練習していたの」
「ああ、まぁ。試合のあとの高揚感は強烈だから、練習して発散させたい気持ちもあるかな。懐かしい」
卒業から3か月しか経っていないのに大げさかと思ったが、隣に立つ佐和は笑わず、プールを見ながら頷いた。
「懐かしいって思えるってことは、いい学校生活だったんだね」
「ああ、きっと」
後輩たちの努力と活躍を素直に素晴らしいと思って、俺は時間が過ぎたのを感じた。
「渦中にあるときは周りの奴と競うことしか考えられなかった。ひょっとしたら、今日、俺はその渦を抜け出したかも知れない」
「そっか、よかったね。ちょっとお兄さんになった」
佐和はまた美しい笑顔を見せた。隣でこんなふうに笑ってくれる人と出逢えて、自分は幸せだと思った。
「周防か?」
背後から声を掛けられた。水球部の顧問だった。
「ういっす」
「試合、観に来てくれてたんだってな。いい顔をしている、元気そうだ。肩はどうだ?」
「可動域が狭くなったなって思いますけど、日常生活には支障ないです。……何か。何か次を探します」
何か次を。突然、自分の口から出た言葉に驚いたが、俺の視線は高くなっていた。
「そうか。中高6年間、周防は本当によく頑張った。その経験は次の場所でも必ず活きる。周防なら大丈夫だ。頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」
顧問は、引退後も俺の進路を一緒に考え、人生はまだまだこれからだ、多くの可能性があると、しつこく話してくれた人だった。半年前の俺の耳には入ってこない内容だったけれど、今日、少し腑に落ちた気がする。
「大学はどうだ?」
「行ってよかったです。親友ができました」
揃えた指先を向けて紹介すると、佐和は育ちのよさを感じさせる身のこなしで、すらりと会釈して微笑んだ。
学校からの帰り道、佐和は両手を後ろに組み、爪先を跳ね上げるように歩いた。
「周防が次に楽しい、面白いって思えるものは何かな」
俺はジーンズのポケットに両手を突っ込み、自分の爪先を見ながら、佐和と並んで同じ速度で歩いた。
「そんなもの、簡単に見つかるか?」
「親友が見つかるんだから、見つかるよ。探そう。僕も探すっ」
佐和の笑む横顔が西日に輝き、俺はまた見とれた。慌てて俯いて緩む口許を誤魔化す。
「ねぇ、周防」
「ん?」
「親友って呼んでもらえて嬉しかった。ありがとう」
「よかったのか、俺の親友なんかで」
「周防は僕の親友たるに相応しい」
笑顔を浮かべ胸を張って言う佐和に、俺も笑った。
「それは光栄だ」
帰りの電車の中で、俺は眠ったふりで佐和の肩に頭を乗せた。佐和はその肩を動かさないように気を使いながら、ジャケットのポケットから文庫本を取り出して読み始めた。
薄目を開けて本の柱に書かれたタイトルを読み取る。キケロの『友情について』は俺も読んだことがある。入院中は読書の時間が山ほどあった。
「俺たちのことが書いてある?」
佐和の肩に頭を乗せたまま問うと、佐和は小さく首を傾げた。
「僕たちが一緒にここを目指すなら、こういう友情もありえるかも」
「きっと俺たちはこの本の通りの友情を築く。時間はさして掛からない。来年の春には、キケロの記述が昔話ではないことを実感できるようになっている」
何の科学的根拠も示せない予言に、佐和は真面目に頷いた。
「来年の春っていうのは、いいセンかも。やってみよう」
俺はもうひとつ思い浮かんだことを口にした。
「12年後、俺たちのあいだには愛が芽生えて結婚してる」
「結婚? それはここに書いてあるのとは違う愛だろ。周防を好きでも、男は無理」
佐和は一笑に付して、俺も頷いた。
「だよな」
ふたつめの予言に関してはあっさり引き下がり、俺は引き続き佐和の肩に頭を乗せたまま目を閉じた。
***
キケロの『友情について』は、俺と佐和が初めて赤と青に色分けして傍線を引きながら読んだ本になった。今と較べて要領も効率も悪く、でも丁寧で、ディスカッションの内容まで事細かに鉛筆で書き込まれている。俺の字は少し右上がりで、ちょっかいを出すように斜めに書かれていて、佐和の字はすんなりとした達筆で行間や余白に真っ直ぐ並んでいる。
一緒に読書した本の大半は佐和の書斎に置いていたが、俺が欲望に勝てず夏至の夜についぞ手を出し、佐和が怒ってレジデンスを出て行くとき、それらの本は本棚ごと俺の部屋へ運ばれて来た。
佐和は何も言わずに合鍵で部屋の中へ入ってきて、書斎の壁にメジャーをあてて、自分の書斎に置いていた本棚をバラして運んできて、組み立て直して電動ドライバーで次々にビスを締め、11年分の本を詰め込んだ。
それきり佐和は1年間、俺の部屋に入ってこなかった。
出逢ってから12年経った今、バスローブ姿の佐和は本棚から取り出した『友情について』を手に目を細める。
俺は背後から佐和を抱き締め、肩に顎を乗せて一緒に本を覗き込んだ。
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