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【番外編】僕のプロポーズ(1/2)

 これは、僕の過去の失恋話だ。  仕事が捌ききれないほど忙しかった頃、僕は遠距離恋愛をしていた。  途中から遠距離になったのではなくて、最初から834km離れたところに住んでいて、覚悟した上で始めた恋愛だった。  その距離は互いの気持ちをドラマチックに盛り上げて、僕は毛細血管のような東京の地下鉄と、サンゴのように枝分かれした路線図を持つ京急線を使い、難なく会社と羽田空港を行き来できるようになったし、空港内も迷うことなく走れるようになった。  最終のひとつ前の飛行機に飛び乗って、空港内でソフトクリームをひとつ食べて、物陰に隠れてキスをひとつ、最終便に飛び乗って東京へ戻り、さらに仕事をする生活だったが、寸暇を惜しんで会うことに価値があると思っていた。  たまにまとまった時間がとれたときは、それまで知らなかった土地の地理や風習を覚え、公園で遊ぶ子どもの姿に目を細め、彼女の妹を交えて食事をし、実家へ遊びに行って、東京とは違うイントネーションで話される言葉に相槌を打ち、将来のことを考えるようになった。  会えない距離と時間がふたりの心を強く結んだとも思って、本気で結婚を考えた。  結婚は勢いだという諸先輩方の言葉も鵜呑みにし、仕事と同じスピード感で話を進めることが正解だと思って行動した。  誕生日に指輪をプレゼントしてサイズを確認し、プロポーズのときにどの指輪が欲しいかも選んでもらい、指輪の刻印にかかる2か月を待てなくて、刻印は後回しにして指輪の取り置きだけを頼んだ。あとは当日その指輪を買って、ふたりが初めて一緒に食事をしたレストランで手渡すだけで、彼女は東京に来るはずだった。  さすがにその日は午後の予定を減らし、飛行機のチケットもレストランも予約して、あとはレストランへ行く前にジュエリーショップへ立ち寄って、取り置きしてもらっている指輪を受け取ればいいだけというところまで手筈を整えていた。  一番気に入っているスーツとネクタイを身につけて、周防にもまわりのスタッフにも定時退社を宣言して、僕はいつもよりさらに早く正確に仕事を終えて、時間通りに立ち上がったのだけれど、同時に目の前の内線電話が鳴り、こういうときの嫌な予感は的中する。 「サプライヤーの工場が1日止まります!」  稼働しない工場なんて、丸ごと赤字だ。1日止めたら損害額は億単位になる。  僕はすでに顔色を失っている担当者を椅子に座らせ、ディレクターの話を聞きながら、情報の正確なところを把握して、先方への連絡と謝罪、資金繰りを考える。  周防は僕が飛びたい方向とは真逆に912km離れた場所にいた。 「一番早い便に乗っても、羽田に18:20着だな」 同時進行で先方とアポイントメントが取れたのは17:40で、周防の合流は諦めた。 「先方に電話を入れておいて。僕とディレクターと担当者で実務の打ち合わせと謝罪に行く」  社員のミスは全て周防と僕の責任だ。周防が間に合わないならば、僕が行くのは当然で、それはプロポーズなんかより遥かに重要だと判断した。  まだ秘書も役員車もなくて、自分でタクシーを手配しながら、合間にオフィスの外に出て、彼女に電話で謝罪した。 「いつまでも許すと思わないで」  泣き出した彼女をなだめる時間もなく、ただ「ごめん」と通話を切り、取引先にはそう言われたくないなと思いながらスマホを胸ポケットに入れて、僕は菓子折りを手に、ディレクターと担当者と一緒にタクシーに乗り込んだ。  周防が電話をしておいてくれたおかげで、先方の態度はかなり軟化していた。それでもCOOを名乗る若造にからかいのひとつも言いたくなるのは人情だろう。   「経営者は誰もが自分の会社に命懸けだよ。覚悟が甘いんじゃないか?」 「おっしゃる通りです。僕は今日、彼女にプロポーズする予定で浮かれていました。地に足をつけて気を引き締め、改めて命を張りたいと思います」  先方の社長は周防の人柄を気に入るだけあって、根が優しくて情の厚い人だったので、かえって心配してくれて、彼女にとりなしの電話を掛けるとまで言ってくれた。 「ありがとうございます。お気持ちだけ。あとでまた本人と話し合います」 笑顔を作って告げて、損害額は僕のプロポーズとは関係なく、妥当な落としどころとして、利益を含まない実損の8掛け、分割の支払いで手を打ってもらい、先方の社長室を辞した。  周防は機上の人になっていて連絡がつかず、僕は部長と担当者を会社へ戻し、ひとりで羽田空港へ向かった。  到着ロビーで周防を待ち構えて経過報告をして、そのまま彼女のところへ飛んで、最終便で戻ってこようと考えていた。ビジネスと同じように、直接会って誠意を持って話をすれば修復可能と甘ったれていた。  一方通行の自動ドアを前に、電光掲示板を見つつ、僕は彼女へ電話した。  受話口からは、数億円よりもたくさんのクレームが溢れてきて、僕は言葉を失った。彼女は、僕が想像していたよりも遥かにたくさんの我慢をしていたらしい。  僕はそんなことは求めていなかったし、むしろ積極的に自分の野望もビジョンも話して、行動にも移してもらいたかったのに、彼女は彼女で自分の理想とする女性像を目指して、勝手に耐え忍んでいたらしかった。 「仕事ばっかり!」 「今さらそれを言うか……」  周防が912kmの距離を飛び越え定刻で到着し、自動ドアを出てきたところへ片手を挙げて合図する。  隣を並んで歩いたが、834km向こうの言葉に相槌を打つだけで、肩が触れ合う距離の周防と話すことはできなかった。  結局、フォローのため帰社を急ぐ周防の隣を同じ速度で歩いて、一緒に駐車場へ足を踏み入れた。  僕は圧迫感が嫌いでカナルタイプではなく、外耳をクリップする骨伝導タイプのヘッドセットを使う。  到着ロビーの雑踏には紛れても、駐車場でほぼ身長が変わらない周防と肩が触れ合う近さで歩いたら、ヒステリックな泣き声なんか周防に全部筒抜けだ。 「私と仕事、どっちが大事なの!」 僕はざらつく灰色の天井を見上げた。そんなことを訊かれたら、僕の答えは決まっている。それまで高まっていた気持ちが一気に冷めた。 「行ってこい。あとは俺が引き継ぐ」  低く唸るような周防の声に、僕は首を横に振った。そのまま車の助手席に乗り込んで、周防と一緒に空港を離れた。 「僕の力が及ばなかった、ごめん。今までありがとう」  結論を告げる頃には、車は首都高の湾岸線を走り、羽田トンネルもくぐって、簡単には空港へ引き返せないところにいた。  レストランは彼女が妹と食べに行き、好きなだけワインでもシャンパンでも飲んでもらって、僕が支払いを受け持つことで話をつけた。指輪も内金をキャンセル料として支払うことでジュエリーショップと話が着いた。 「佐和個人も大損害だな」 ヒステリックな泣き声も、ジュエリーショップの店員の腫れ物に触るような応対も、僕の面倒くささを押し殺し、頑張って集中力を繋ぎ止めた返答も全部聞いて、それでも笑ってからかってくれる親友に、僕は肩の力を抜いて苦笑いした。 「まったくだよ。レストランは僕の支払い。指輪を取り置いてもらった内金も戻ってこない。……大した損害額じゃないね」  西日が強く差し込んで、周防はサングラスを掛けて前を向いていた。僕はサイドミラーに映る東の空の宵闇を見てため息をついた。自分の背中にその闇が後悔という名でのしかかっている気がした。 「指輪の刻印に2ヶ月かかるって言われて、刻印は後回しにしたんだ。だからキャンセルできたんだけど。焦らないで、プロポーズまで時間を掛けて、もっとしっかりコミュニケーションもとればよかったかなぁ」  助手席側のサイドガラスから高速道路の蔦が絡まる防音壁を見た。 「次のプロポーズは時間を掛けて、指輪もキャンセルできないように刻印しまくったらいい」  周防の声は明るくて、僕の気持ちはいくぶん励まされる。  僕はヘッドレストに後頭部を押しつけた。 「そうだね。たっぷり時間を掛けて、表からも裏からも刻みまくって、透かし彫りにしてもらうよ」 「いいデザインだ」    周防は笑って、西の方角を指差した。 「指輪と恋を失った佐和に、神様から宝石のプレゼントだ」  それはビルの谷間に沈んでいく太陽だった。頭上にあるときよりも大きく強く光を放ち、ビルのガラスに反射して、街中がトパーズ色に光っていた。 「きれいだね。そういえば今日は夏至だった」  午後7時を指す時計を見て、僕はさらに日の長い土地に住む彼女をすでに遠く思う。

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