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【番外編】僕のプロポーズ(2/2)

 夕陽が沈むと空一面がサファイア色に染まった。 「しばらくすると、東の空からムーンストーンも現れる」  サングラスを頭の上に押し上げ、前の車に追従しながら、身を乗り出してほんの一瞬空を見上げる。 「周防って、2週間に1度くらいロマンチックなことを言うよね」 「ロマンチックなことは嫌いか?」 「得意じゃない。ガラにもなくプロポーズなんて、向いてなかった……」  言葉にしたら、本当に向いていないと実感した。少なくとも気象を宝石に例えるセンスや、それを口に出す勇気は僕にはない。  オールバックに整えている髪をつい掻き壊しそうになって手を止め、まだ慣れない伊達メガネを外して手の甲で目を擦った。手の甲にほんの少し水がついたような気がしたけど、一世一代のプロポーズを失敗した割には、僕は元気だ。  前を向いてハンドルを操作したまま、周防の左指の甲が僕の右頬をさらさらと撫でる。その感触に僕の心は砂の城のように簡単に崩れた。どうして僕はこんなに周防には素直になってしまうんだろう。どうして周防はこんなに僕を素直にさせるんだろう。 「プロポーズは何度してもいいと思う。もう二度としたくなければ、次はプロポーズを受ければいい」 「ん」  「あんまり擦るなよ。かえって腫れて目立つぞ」 「ん……」 車は首都高速を下りて、オフィスの近くまで来ていた。 「佐和。会社まであと何分かかる?」 「5分、いいかな」 周防は東京タワーの周辺を意味もなく1周してくれて、僕は充血を抑える目薬を差した。 「フォローが終わったら飲もうか。夏至の夜は飲んで騒いで過ごすものらしい」 「そんな習慣は初めて聞いた」 「そう? じいちゃんは子どもの頃、そうやって過ごしたらしい」 周防の少し日本人離れした容姿は、お祖父さんにルーツがある。 「お祖父さんに倣って、今夜はシードルを飲もう」  シードルはお祖父さんの故郷でよく飲まれているらしい。遊びに行くと、いつもたくさんの書物に囲まれた部屋にいて、分厚いレンズの向こうの目を細めて笑ってくれる。 「よし、店が開いているうちに帰るぞ」 「絶対無理。僕のプロポーズより無理」  その頃はシャレにならないほど仕事量が多かったから、日付が変わる前に仕事が終わることなんかなかった。夕食を食べに行く口実でふたりで会社を抜け出して、周防の提案でがっつりとカツ丼を食べ、輸入食料品店でいろんな種類のシードルを買って車の後部座席に積み込んで、何食わぬ顔をして仕事に戻った。  仕事をするときの、頭が冴え渡って脳髄を氷柱が突き抜けるような感覚がとても好きで、自分に疲れたり眠気を催したりする身体がなければ、いくらでも仕事をしていたかったから、仕事さえしていればどんなこともつらくなかった。  周防は築年数の古いデコレーションケーキみたいなマンションに部屋を借りていて、僕は徒歩1分のところにあるシンプルなワンルームを借りていた。自分の部屋でシャワーを済ませて、寝支度を調えてから、どちらかの部屋で軽く晩酌するのが1日の終わりの過ごし方だった。そうでもしなければ神経が休まらないほどに仕事をしていたとも言える。 「話、聞くぞ。愚痴でも泣き言でも思い出話でも」  周防はそう言って、僕の背中とソファの背もたれのあいだに座り、僕の頬に冷えたシードルの瓶をくっつけた。  お揃いのマグカップにトパーズ色の炭酸を注いで、意味もなく乾杯をした。 「どんな話をしても、全部過去の出来事だ。建設的な内容にはならないよ」 「こんなときまで前向きな議論は求めない。泣いていいぞ」 「やだよ」 「我慢するな」 「してない」 「可哀想に!」  周防は舞台役者のように大仰な動作で僕を抱き締め、さも切なげにため息をつきながら髪の毛に頬ずりして、僕は逃げ場のない腕の中で可能な限り身体をかたむけながら笑った。さらに周防が僕の首筋や脇腹をくすぐってきたので、僕はますます笑って周防の腕の中ではしゃいだ。 「さて、佐和。次の恋愛はどうする?」 「周防と違って、すぐには考えられない」 「俺、一途だぞ?」 「どこが?」  僕が横目で周防を見たら、周防は僕の顔を押さえつけて思いっきり頬に唇を押しつけてきた。本当にぶちゅっと音を立てたキスで、僕は手の甲で周防の唾液を拭く。 「酔っ払い!」 「ごちそうさまでした。……こんなふうにチャラチャラしてるから、俺も年貢の納め時がわからないんだろうなぁ」  周防は天井に向かって息を吐き、僕はそんな周防の横顔に向かって息をついた。 「僕は周防の恋愛には関知しないから、自分で頑張って」 「励ましの言葉をありがとう。佐和、大好きだー!」  また強く抱き締められ、左右に揺さぶられて、僕は黙って揺れた。 「はいはい。酔っ払いは歯を磨いて寝ましょう」  シードルで酔っ払う僕たちではないけれど、周防は変に機嫌がよくて徹夜明けみたいなテンションだし、僕はいろんなことがありすぎて安らぎたかった。  赤と青の歯ブラシはどちらの部屋にも置いてあって、鏡に向かってほっぺたをふくらませ、歯磨き粉の泡を少し唇にくっつけながら歯を磨く。  タオルで口を拭きながら鏡の中で周防と目が合い、周防が微かに目を細める。それは目の周りのわずか数ミリの筋肉の動きで、しかもほんの一瞬、上下のまぶたが触れない分、まばたきよりも短い時間かも知れないのだけれど、僕はこの笑みを見るといつも少しだけ心臓が高鳴る。僕ですらこんな風にときめくのだから、女性なんて心臓が砕けるんじゃないかと想像する。 「僕、周防のその笑い方めちゃくちゃ好き」  周防はタオルで口を覆ったまま目を丸くして、それからまた同じ笑い方をしてくれたので、僕はタオルで口を覆ったまま、鏡から目を逸らした。 「そんな反応を見せられると、ますます惚れる」 「何それ、意味わかんない」 僕は笑って、そのままベッドへ倒れ込んだ。  右隣に周防も潜り込んできて、僕の首の後ろに周防の腕が差し込まれる。寝心地のいい位置を定めるまで、ふわふわと周防の体温を伴った匂いが立ち上った。 「……落ち着く」 僕はボディソープの向こうにある僅かな周防の匂いをしっかり嗅ぎ分け、ゆっくり深呼吸して目を閉じた。 「佐和」 「なぁに?」 「真面目な話。俺は佐和をとてもいい男だと思う。今回の人とは縁がなかったかも知れないけれど、経験を経て、佐和は明日からもっといい男になるし、佐和にはもっともっと相応しい女性が現れる」 「ありがとう」 鼻先で洗いざらしの髪を掻き分けられて、温かな呼吸が心地いい。 「どっちが大事なの? なんて言い合わなくてもいい、仕事も恋愛も一緒にできる人っていないのかな」 「俺」 周防は真顔で即答して、僕はつい笑ってしまう。 「恋愛ができないだろう」 「残念。名案だと思ったのに」  周防は僕の髪に顔をうずめたまま小さく嗤った。  僕は身体の力が抜けていくのを感じ、その夜は周防の夢を見た。  お祖父さんの懐かしいシードルを飲んだからか、周防はかっこいいおじいさんになっていて、白いマグカップを両手に包みながら、何かを話して楽しそうに笑っていた。その話し相手は僕で、同じマグカップを持ち、彼の話に相槌を打って一緒に笑っている。ただそれだけの夢だったけれど、睡眠は深く質がよかった。  気持ちよくて自然に身体が伸びをしたら、その気配で同じ枕に頭を乗せた周防が目を開けた。まだ目頭に小さくころんとした目やにをつけたままで、微かに目を細めるだけの僕が一番好きな笑い方をした。僕が彼女だったら「おはよう」なんて言わずに、ただ笑顔でキスをするのに。親友ってそういうところが残念だよなぁと思った。  周防は僕の身体を避けて両手を伸ばし、ライオンのようなあくびをしながら、気持ちよさそうに伸びをした。

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