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【番外編】佐和のプロポーズ(1/2)

 佐和が仕事の合間を縫って、時間を惜しむような恋愛をしていることは、何となく知っていた。夕方仕事を抜け出して夜中になって戻ってきたり、飛行機の最終便に間に合う時間に「ごめん、今日はちょっと出掛ける」と言って会社を出て、次の日の朝にネクタイだけ変えて同じスーツで出社してきたりした。  そんな情熱的な恋愛をする佐和を見るのは初めてで、ひょっとしたら今回は結婚に至るのではないか、そんな嫌な予感がした。  今まで一度も恋人を紹介されたことはないが、紹介されるかも知れない。  どこかの店に呼び出され、結婚相手だと紹介されたら、果たして俺は笑えるだろうか。笑顔で佐和の肩を叩き、相手の女性に佐和は親友の俺から見てもいい男です、よろしくお願いしますと 「言うべきなんだろうけどな」  角の丸い小さな窓の下に広がる雲を見ながら、俺はため息をつく。  佐和が前日と同じスーツで出勤した日、ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出すのと一緒に、ジュエリーショップの伝票を入れた小さな封筒が滑り落ちた。  佐和は俺より思慮深いが、頭の回転が速いから決断までの時間は短い。誕生日プレゼント程度の買い物なら、伝票なんか立てずにその場でカードを切るはずで、日時を指定したそれなりの買い物をしたのだろうと想像する。  一週間も前から佐和は「今度の金曜日は定時で上がる」と宣言していたし、今日は一番気に入っているシャドーストライプのスリーピースを着ていた。ネクタイは無地の紺色で、どっちも俺と一緒に買い物に行って、俺が見立てたのだから、間違いなく似合っている。 「プロポーズなんか失敗すればいいのに」 人を呪わば穴ふたつと聞くが、俺の恋愛はどうせ成就しない。一生分の叶わない恋愛を前払いしているのだから、心の中で呪うくらい許して欲しい。 「……佐和が幸せになりますように。運命の相手と結ばれますように」  特別な信仰がある訳ではないが、ネガティブな言葉で思考を終わらせるのは嫌いだ。口の中で呪文のように佐和の幸せを願ったら、飛行機は静かに着陸した。  新規の取引は佐和の根回しが功を奏してスムーズに約定し、帰りの便まで余裕ができた。チェックインカウンターの上に表示された羽田便はどれも空席があり、すぐにでも社に戻って片付けたい仕事を思い浮かべる。しかし佐和が社内にいる時間に戻って、「お疲れ」と声を掛けて送り出す勇気もなかった。  空港内のコーヒーショップでノートパソコンを広げて日報を書く。端的でわかりやすいサマリーの書き方は佐和に教わった。佐和は読書家だが理系科目が得意で、いつも整理された文章を書く。  学生時代は提出前のレポートをよく佐和に添削してもらった。佐和はスプーンを赤ペンに持ちかえて学食のテーブルに頬杖をつき、次々赤ペンで文字を消した。かなり頑張って書いたと自負する部分も容赦なくて、軽く腹が立つこともあったが、いつも内容は格段によくなって戻ってきた。  赤ペンを片手に頬杖をついて、黒目がちの目を素早く動かす姿は今も同じで、大学を卒業しても離れずその姿を見続けられるのは眼福だ。 「親友の賞味期限は長い。一生モノだ」  いつ頃思いついた持論だろうか。片思いをこじらせた挙げ句、こんな考えで自分を支えるようになった。  何かあれば真っ先に連絡が来る。  それが自分の喜びでプライドだ。ノートパソコンの脇に置いていたスマホに触れた瞬間、小さく鳴動した。  居場所を確認されて、俺はすぐに検索を返す。入れ替わりに電話が掛かってきた。 「発注ミス。先方の工場が1日止まる。過失割合は8:2ってところ」 佐和の声は低く落ち着いていた。  ショップ内にもある電光掲示板を見て、一番早い羽田便を伝える。 「一番早い便に乗っても、羽田に18:20着だな」 さっき迷わず繰り上げていれば、1時間半早く羽田に到着できた。  佐和が誰かの言葉を聞いて頷く気配がある。 「先方とアポが取れた。17:40だから僕が行く。いい?」  定時で上がるんじゃなかったのか、ディレクターに任せて行けよ、あとは俺がフォローするという言葉を飲み込んで 「頼む」 と告げる自分が嫌いだ。  先方との関係は明らかにこちらが格下で、ディレクターで収まる話でも、俺の電話で終わる話でもない。佐和が行って収めてくれるのがベストな判断だ。むしろ佐和が行くと言ってくれて助かったというのが正直な感想だ。  年齢もキャリアもかけ離れているが、気が合って可愛がってもらっている社長へ電話を掛けた。客観的に自分の感情を観察して分析して片付ける佐和と違って、俺はこういうときの胃の痛みは刃物を差し込まれるようだし、先延ばしにしたくなる。佐和と組んでいるから、かっこいいところを見せたくて、背筋を伸ばして意地を張れている。 「先方に電話を入れておいて。僕とディレクターと担当者で実務の打ち合わせと謝罪に行く」  佐和にそう言われていなければ、俺は一瞬ぐずついていたかも知れない。 「やってくれたなぁ!」 人情派の社長が笑ってくれて助かった。 「申し訳ありません、まだ東京に帰れなくて。取り急ぎ手前どもの佐和がお伺いします。……はい、俺も頭が上がらない権力者です。決裁権はすべて彼にあります」 こちらも笑いながら話して、謝罪すべきところは真面目に謝罪した。 「優しくしないが、意地悪もしないから、安心してセリヌンティウスを寄越せ」 「ありがとうございます。よろしくお願い致します」  この社長がそう言うなら、本当にその通りにするから心配は要らない。安心して機内モードにして飛行機に乗った。  佐和のことも心配していない。数字に関する判断は俺の数倍の場数を踏んでいるし、どんな状況でも落ち着いて静かに謝罪し、相手の気持ちを騒がせずに収めて引き取ってくる。  飛行機の上では読書をした。吉本ばななの『キッチン』は佐和が珍しく気に入った恋愛小説で、青色の線がたくさん引いてある。こんなふうに夜にこれが愛だと確信しながら駆けつけるような恋愛をしているのだろうか。  そう思うと胸がキリキリするが、栞がわりに挟んであるのが香水のムエットで、俺にくれた香水の匂いが残っている。  そのときはどうしてもスケジュールを合わせられず、佐和がひとりで1週間も海外へ出張した。佐和は俺がぐずっても大して相手にしてくれないので、3日目くらいからは佐和の部屋で勝手に寝起きしていて、家主が帰ってきたときは枕を抱いてベッドに寝ていた。  この本の中には、恋人の父親が主人公にくやしがりながら服を譲ってくれるエピソードがあるが、佐和もくやしがりながら香水を譲ってくれた。  今でも同じ香水を使っていて、佐和にはほかの人を魅了しないよう徹底的に探して、完全に甘さを排除したアロマンティックな香水をプレゼントして落ち着いた。  そんなことを思い出しながら読み終えて、佐和と夜を過ごしたくなった。無性に佐和に会いたい。でも今夜、佐和はきっと恋人のところへ行くだろう。喉元を掻きむしりたい衝動に駆られてネクタイを外し、ワイシャツのボタンをふたつも外して到着ロビーへ出たら、佐和が右耳にヘッドセットをクリップしたまま、俺に向かって手を挙げた。  佐和は話し相手に相槌を打つだけで、ただ俺の隣を歩く。佐和はイヤーカフのような骨伝導のヘッドセットを使うので、話し相手が女性で、かつ感情的になっていることは判った。  駐車場の車の前まで歩いて来て、運転席と助手席に離れる直前に、その叫び声ははっきり聞こえた。 「私と会社、どっちが大事なの!」 俺も佐和もこの質問をされたら答えはひとつだ。この感覚は簡単には理解されないかも知れないが、会社に関しては命の掛けかたが違う。  佐和は天井を見上げて息を吐いた。俺はその気持ちをもっとも理解する。しかし、佐和の恋人をしていながら、そこまで言うのだとしたら、相手が相当追い詰められているのも確かだ。ここは挽回すべきだと思う。 「行ってこい。あとは俺が引き継ぐ」  腹に力を込めて告げたが、佐和は首を振って助手席に乗り込んだ。それからも相手の言葉は続き、佐和は根気よく相槌を打ったが、言い尽くされたらしいタイミングをすかさず掴んで言葉を放った。 「僕の力が及ばなかった、ごめん。今までありがとう」 佐和の声は低く落ち着いていて、これは最後通牒だ。俺にできることは何もない。  そこからの佐和の口調は完全に交渉で、感情は切り離されていた。こんなふうに別れ話をするのか、この男は。 「佐和個人も大損害だな」  からかって、ようやく佐和の顔に笑みが浮かぶ。表情が緩んで俺のほうがほっとした。 「……大した損害額じゃないね」 そう呟く佐和の声は悲しげで、しっかりダメージ食らってるじゃねぇか。  俺は佐和を慰めたくて、車を運転しながら何かないかと懸命に探した。  西日がきつく、サングラスを掛けて、車列の向こうに見え始めた東京のビル群に夕陽が照り映えていることに気づいた。  夕陽は沈むと嫌う人もいるが、俺は沈みながらも諦めない力強さを感じて好きだ。 「指輪と恋を失った佐和に、神様から宝石のプレゼントだ」 「きれいだね。そういえば今日は夏至だった」 佐和の声は静かだったが、いくぶんまろやかだった。クサいセリフを口にしてよかった。

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