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【番外編】佐和のプロポーズ(2/2)

「しばらくすると、東の空からムーンストーンも現れる」  ムーンストーンは高価な石ではないが、本当に月を思わせる姿が好きだ。そして月は沈む太陽と入れ替わりに出て来てくれる静かな優しさと、熱すぎず冷たすぎず温度を感じさせない心地よさが好きだ。  さすがにまだ月は現れていないようだったが、 「周防って、2週間に1度くらいロマンチックなことを言うよね」 俺の隣にはそう言って呆れてくれる佐和がいる。それでいい。  女と張り合いたくはない。同じ土俵に立てる自分ではない。判っていても、佐和が恋人と別れるたびに安堵してし、喜んでしまう自分がいる。  へこんでいる佐和の頬へ手を伸ばし、指の甲で撫でながら、自分のこんなきたない気持ちが伝わらないで欲しいと願う。好きだ、大切に思っている、何があっても一緒にいる、いつでも全力で受け止める、そういう気持ちだけが伝わって欲しい。  佐和の泣き顔は俺だけのものにしていたい。  ドライブの時間は5分だけ許された。佐和はすぐに涙を自分で押さえて、俺は抱き締める時間はもらえなかったが、佐和の気持ちが落ち着くならそれでいい。  シードルを飲もうなんて、祖父のことまで思い出してくれて、佐和の愛情にうぬぼれそうになる。  『キッチン』を読んでしまったから、夕食はカツ丼が食べたかった。恋愛小説で佐和の気持ちを乱さないよう理由は言わず、ただ固めに炊いた飯に揚げたてのカツが乗っかって、半熟の卵と甘く煮えた玉葱が広がる、温かいカツ丼を一緒に食べた。あまり多くの言葉は交わさず、食べることに集中して、佐和も俺と同じペースで全部平らげて、ひとまず大丈夫そうだと思った。  シードルの買い出しは単純に楽しくて、棚に並ぶ瓶を1列全部カゴに入れた。  自分たちの頭上だけ蛍光灯を照らし、ふたりだけで仕事をする時間が俺は密かに好きだ。佐和がキーボードを打ったり、頬杖をついて小さく息を吐いたり、両手を拳にして天井に向けて突き上げて伸びをしたりする気配を感じながら、自分も電話やメールに惑わされることなく仕事に集中する。  爽快感を感じるまで仕事をして帰宅して、佐和は自分の部屋でシャワーを浴びてから、濡れた髪のままタオルを頭にかぶって俺の部屋に来た。  シャンプーが目に入ったのかも知れないが、白目が赤く充血していた。  ソファの背もたれを乗り越えて、背もたれと佐和の背中のあいだに自分の身体を押し込んだ。  シードルの瓶を頬に押しつけたら少し笑ってくれた。それだけで嬉しいなんて、俺はまったく完璧に佐和に惚れている。  佐和は自分の感情は自分で捌く。それは俺だって同じなのに、佐和には弱みを見せてもらいたくて、あれこれちょっかいを掛けた。  それでも佐和は自分を崩さず、弱音を吐いてくれなくて、抱き締めて揺さぶり、くすぐって、ふざけたふりで頬にキスした。  佐和は頬を拭いていたが、今まで怒られたり殴られたりしたことはない。どこまで許されるのか、試してみたく思うときもあるが、割れるまでコップを落とすテストを繰り返す勇気はなく、佐和が笑っているうちにいたずらは止めた。 「佐和、大好きだー!」  告白するとき、恋愛感情は込めない。勝手に好きになっているのだから、その重荷は自分ひとりで背負うべきだと思っている。佐和が笑って聞き流せる『好き』を適量と決めている。 「はいはい。酔っ払いは歯を磨いて寝ましょう」 あしらってもらって、俺は喜んで歯を磨いた。  鏡の中に一緒に収まって、口の中で歯ブラシを動かす。佐和の日常を独り占めしている感じがして嬉しい。  タオルで口を拭い、佐和と目が合って笑いかけたら、ご褒美が飛び出した。 「僕、周防のその笑い方めちゃくちゃ好き」  心臓を急襲されたが、佐和の負担にならない程度にアンコールに応え、同じ笑い方をしたら、佐和はタオルで口を覆ったまま、鏡から目を逸らした。 「そんな反応を見せられると、ますます惚れる」 「何それ、意味わかんない」  気持ちを込めない告白をして佐和をからかったら、また笑ってくれた。嬉しい。  ベッドに潜り込む佐和の隣へ入り込んで、左腕を佐和の首の下へ差し込む。佐和の部屋のシングルベッドに寝るとき、ふたりの内側になる手を持て余してやってみたら佐和が気に入ったらしく、そのまま落ち着いた。 「……落ち着く」  佐和は深呼吸して身体の力を抜き、俺は佐和の髪に顔を埋めて匂いを嗅ぐ。シャンプーの向こうに佐和の匂いがある。   親友のプロポーズの失敗とともに、自分の気持ちも揺れた1日を過ごしたが、眠る前に親友としてひと言、これは誠実な気持ちで伝えようと思った。 「佐和」 「なぁに?」 「真面目な話。俺は佐和をとてもいい男だと思う。今回の人とは縁がなかったかも知れないけれど、経験を経て、佐和は明日からもっといい男になるし、佐和にはもっともっと相応しい女性が現れる」 「ありがとう。……どっちが大事なの? なんて言い合わなくてもいい、仕事も恋愛も一緒にできる人っていないのかな」 「俺」 「恋愛ができないだろう」 「残念。名案だと思ったのに」  大人しく引き下がり、佐和の髪に顔をうずめたまま自嘲した。それでもたまに自分を売り込んでおけば、とても寂しくなったときや疲れすぎたときに俺で妥協してくれるかも知れないと淡い期待を抱いている。  願えば願うほど、俺の夢に佐和は出てこない。しかしその日は佐和の夢をみた。  俺たちはお揃いのいつものマグカップを両手に包みながら、いつもと大して変わらないくだらない話をして、佐和は楽しそうに笑っていた。左の薬指には透かし彫りの指輪があり、自分の左手にも同じ指輪があって、とてもとても嬉しかった。  目覚めたら佐和が俺を見ていて、夢を引きずり愛しさを込めて笑いかけてしまったが、佐和は涙袋をふっくらさせて俺を見てくれた。  抱き寄せてキスしたらさぞ気持ちがいいだろうと思ったが、俺はこみ上げるまま大きなあくびをして、自分の欲を誤魔化した。

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