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【番外編】50年後も素顔のままの君でいて

「見えねぇなぁ。雲のすき間から一瞬でもと思ったんだけどな」  東京タワーの展望台から空を見上げ、周防は苦笑いをしている。僕はつないでいないほうの手でスマホを持ち、雨雲レーダーを見た。 「今日、月を見るのは厳しいかもね。あの雲の上に、ストロベリームーンはちゃんとあるんだし、無理に自分の目で見なくてもいいってことにしない?」 「そうだけどな。うっすら光だけでも透けて見えないかな」  周防は笑いながらも悔しそうで、しつこく空を見上げている。  僕はため息をつき、周防の耳に唇を触れさせながら、文句を言った。 「ねえ、周防。空ばっかり見上げてないで、もっと僕のことを見てよ。せっかくの結婚記念日なんだから」  周防はひゅっと音を立てて息を呑み、胸を押さえてのけぞった。 「佐和くん『結婚して変わったね』って言われない? 俺、また今日も恋に落ちそう!」 「別に、何度でも恋に落ちればいいんじゃない。毎日好きなだけ、僕を見てときめいてなよ。僕はずっと周防の隣にいるんだから」  あごを上げて言い切ってから、じわじわと顔が熱くなってきてそっぽを向いた。今度は僕の耳に周防の唇が触れる。 「耳が熱い。照れてるだろ?」 「照れてるよ。これが僕の精一杯!」 「充分だ。限界までがんばってくれて、ありがとう。ストロベリームーンが見れないと、こんなにいいことがあるんだな。来年も見えなくていい」  キスの音を立てられて、僕はますます顔が熱くなるのを感じた。 「予約の時間になるから、行こっ」  上機嫌で鼻歌を歌う周防を従えて、僕は前だけを見て大股で歩く。もっと素直になったほうがいい、気持ちは伝えた方がいいと思って日々心掛けているけど、周防にはまだまだ敵わない。  周防は相変わらず情熱的で真面目な努力家で、わらしべ長者みたいな仕事ばかりしている。フットワークが軽く、どこへでもすっ飛んで行く。もちろん僕が呼べば瞬時に戻ってくるのも変わってない。でも、ひるがえすスーツのジャケットの裾や肩先に、穏やかな午後の光みたいな落ち着きが見え始めている。 「周防、角が丸くなった?」  乾杯したシャンパングラスを片手に首をかしげて訊いたら、周防は真顔でうなずいた。 「ものっっっすごく言われる。結婚した直後から五年間ずっと。今日も言われた! 逆に『俺が結婚して変わった部分はそこだけか?』って聞き返したいくらいだ。独身だった頃の俺って、そんなにキレてばっかりいたか?」 「キレキャラだったとは思わないけど、今より垂直にぶち上がってたかもね。今のほうが少し角度が緩やかになったかも。弾道ミサイルと地対空ミサイル程度の違いだけど」  夏野菜と鱧のマリネを口に運びながら肩をすくめると、周防が眉を上げた。 「地対空ミサイル? これだけ丸くなったって言われてるんだから、ペットボトルロケットくらいになってるだろ?」  僕は噴き出しそうになって背中を丸め、ナプキンで慌てて口を押さえた。 「さすがにペットボトルロケットは無理じゃない? ペットボトルロケットになるには、あと50年くらいかかると思うな」 「50年後も、ペットボトルロケットになった俺を愛してくれる?」 「もちろん。ロケット花火になって、線香花火になっても、灰になるまで愛してるよ」  照れるのを我慢して背筋を伸ばす僕の顔を、周防は身を乗り出してのぞきこんでくる。 「『結婚して変わったね』って、言われるだろ?」 「最近はもう言われないかな。僕は見た目の変化ばっかり言われて、内面の変化には言及されない」  先に言っておくと、僕は身長も体重も変わってないし、髪の色も量も変わってない。ただオールバックとアンダーリムのメガネをやめて、唇の上とあごの下に短いひげを生やしただけだ。 「まさかあれほど驚かれるとは思わなかったな」  周防は思い出し笑いをして、僕はシャンパンを飲み干した。  僕たちは未曽有の災禍で世界が大きく揺れる中、新婚生活をスタートさせた。新婚だから、ずっと一緒に家にいられるステイホーム自体はよかったけれど、家にいるのに毎日オールバックに整えたり、メガネをかけたりするのがうっとうしくて、思い切ってやめてしまうことにした。  でも、それだけだとさすがに童顔かもと思い、連休を使って薄いひげを生やして、周防にトリミングしてもらったのだ。  僕からしてみれば、たったそれだけのことなのに、休み明けにオンラインミーティングで顔を出した途端、声を上げて驚かれ、「結婚すると佐和さんでも変わるんですね」とか「結婚したんだろうとは思ってたけど、ここまであからさまに結婚しましたアピールをしてくるとは思わなかった」とか「社長は想定内だけど、副社長は想定外」とか言いたい放題、挙句には「ひどい、裏切り者」と身に覚えのないことまで言われてさんざんだった。 「俺は佐和が『結婚して変わった』って言われて、うれしかったけどな。俺と結婚して幸せになったから、佐和は変わったんだぞと自慢できる気がして」 「結婚して、気持ちが落ち着いた、安堵したっていうのは、影響してるかも。そこまで武装しなくても大丈夫だと思える、精神的な余裕は得た」  僕の言葉を聞いて、周防は穏やかに微笑んだ。 「俺は結婚した時『俺はもうこれ以上、片思いをしなくてよくなった。ラクになった』と思った」  たしかに結婚当初、周防はよくそう言っていた。僕も周防を思う日々は苦しかったから、いつも共感してその言葉を聞いていたものだ。  口に運んだ鮎のクルスティアンのほろ苦さをゆっくり舌の上に感じながら、僕は僕の片思いを振り返る。 「今思うと、片思いって壮絶だったよね。僕は周防を好きになるまで、自分の中にこんなに強い感情があるなんて知らなかった。荒れた海の中で上下もわからずローリングしてる気分だった」  周防もさくさくと切り分けた鮎のクルスティアンを口に含み、僕を上目遣いに見て片頬を上げる。 「片思いのつらさ自慢なら、俺だって負けてないぞ。耐え抜いて佐和の手をつかんだ自分を誇りに思う」  胸を張った周防に、僕は感謝の気持ちを込めて微笑んだ。 「手をつかんで、渦の中から僕を引っ張り出してくれて、ありがとう」 「どういたしまして。こちらこそ、俺の手をつかんでくれて、ありがとう」  周防は目を細め、自分の左手にある結婚指輪を、右手の親指で撫でさすりながら、笑顔を深めた。 「今だって俺は佐和のことを考えると胸がときめくし、出張で一緒にいられる時間が短くなれば、ホテルで枕を抱えて転げまわっているけど。独身時代と比べたら、全然苦しくない」 「そうだね。今も悩みがなくなった訳じゃないし、恋人同士だった頃にはあまり考えなくてよかったリアリティあふれる課題に直面することもあるけど。片思いの時と比べたら、全部イージーだよ」  コロナ禍を経た今、そんな盛大に親戚を集めて法事なんかやる? しかも三十三回忌って、いつ死んだの? 僕、故人と会ったことないよ! もうそういうのは年寄りだけで勝手にやって! と僕は心の底から思うのだけど、父方の親戚はよくそういう集まりをして、そのたびに橋田寿賀子が書いた脚本みたいな揉め事を起こす。  周防は教会には全然行ってないし、お祈りしている姿もほとんど見たことはないけれど、一応プロテスタントだ。それなのにとても快く鎌倉仏教の法事に来てくれて、敬意をもって手を合わせてくれた。  僕より謙虚な態度だったのに、どこの親戚にも一人はいる変わり者のおじさんが周防に絡み、僕が激怒し、周防がなだめるという展開で、本当に周防には申し訳なかったし、どっと疲れた、ということがあった。結構最近の話だ。  そういう大変さは、恋人同士だった頃にはなかったもので、結婚のネガティブな側面だと思うけど、それだってあの片思いに比べたら、大したことではない。  そう、本当に大したことでないんだけど、それなりには大変だったのを思い出して、窓の向こうの東京タワーを見てしまう。 「リアリティあふれる課題は、これからもあるだろうけどな。今度は俺の番だ」 「僕は周防が決めた通りでいいと思うよ」  周防家では相続問題が持ち上がっている。ご両親が防波堤となって話を和らげてくれているけれど、それでも周防は自分で相続放棄の意思表示をしなくてはいけないし、書類に署名捺印もしなくてはいけない。僕には関係ない話でも、周防のスマホにご両親や行政書士から電話がかかってきて対応していれば、メモ用紙とボールペンを渡してあげたり、スケジュールを確認してささやき女将になってみたりして、電話の内容も聞こえてしまう。  知らない人のものではなく、周防を可愛がってくれた人がみんなを大切に思って遺してくれたものを巡って、なおかつ周防を可愛がってくれていた親戚たちが争っているのが厄介だ。周防だってショックを受けるし、気持ちの整理がつけにくい。電話を切ってうなだれる周防にコーヒーを淹れて、話を聞いて、僕も一緒に考え込む。結婚してから、悩みの質がウェットになったなと思う。  一緒に東京タワーを見て、鏡に映る互いの顔に気づいた周防が、ガラス越しに笑いかけてくれる。 「せっかくの結婚記念日なのに、所帯じみた話をしてるな」 「でも、それがいいんじゃない? 僕たち、実際に所帯を持ってるんだもの。所帯じみた話と言えば、僕は今、お中元のリストを送ってなかったのを思い出した。カワカミのおばさんには、クッキーよりゼリーのほうがいいんじゃないって周防に言おうと思ってた」  カワカミと呼ばれているけど苗字は周防さんという、僕には馴染みがなかった文化にも、すっかり慣れた。 「別にクッキーでいいんじゃないか」  周防の興味なさそうな声に、僕は反論の声を上げる。 「実家や親戚に関する男の『いいんじゃないか』『大丈夫だろ』『気にするな』は絶対に信用しちゃいけないっていうのが、おばあ様からの教えなんだよね。よく考えて返事して」 「じゃあ、ゼリーで」  わざと考えずに返事をして、周防は笑う。僕も一緒に笑ってしまったから負けだ。  きらめくシャンデリアの下で、磨かれたカトラリーを持ち、小鳩のローストを切り分けて食べる口で、僕たちは競って所帯じみた話をした。スーパーマーケットのポイントが思っていたよりも貯まってたとか、炊飯器の内釜からご飯がはがれにくくなったとか、新しいダイニングテーブルに合うランチョンマットを買おうとか、プランターに植えた大葉をそろそろ収穫してみようとか、小さいけれど共感しあえる話は無数にあった。  口直しの甘夏のソルベを食べながら、周防は満足そうな笑みを浮かべる。 「俺たちはちゃんと所帯を持って、順調に成長してるな」 「そうだね。これからもじっくり時間をかけて、所帯を染み込ませていこう」 「煮込み料理みたいだな」 「どっちも家庭の味を染み込ませるという意味では、似たようなものじゃない? しょうゆ色の所帯なんて、きっと最高においしいよ」  彼とは何を話しても楽しいと思いながら、僕たちは思いつくままに話し、おいしいディナーを堪能した。  順調に食べ進め、ウェイターにコーヒーか紅茶を訊ねられた直後、周防は小さな包みを取り出して、僕に向けて差し出した。 「なんで? 僕たち、ダイニングテーブルを買ったじゃん」  結婚五周年は木婚式だと聞き、木材からすべて自分たちで選んだダイニングテーブルを買った。 「これは手紙。考えすぎて、上手く書けなかったから。受け取って」  包みを開けると、マッチ箱ほどの美しい寄木の箱が出てきた。小さなハンドルがついていて、くるくる回すと曲が流れる。  オルゴールが奏でたのは、ビリー・ジョエルの『素顔のままで』だった。学生だった頃、僕の父のCDを聴いて、周防が「俺もこんなことを言いたい」と憧れていた曲だ。  キラキラと光る音色を聴き終えると同時に、周防は僕の目をまっすぐに見た。 「これからも、佐和は佐和のままでいてください。ありのままでいてください。50年後も、俺と手をつないでいてください。いつもありがとう。これからもよろしくお願いします!」  手を膝につき、頭を下げられた。 「こちらこそ、ありがとう。周防も一人で重荷を背負わないで、無理してかっこつけないで、周防のままで、僕と一緒にいてください。50年後まで、天国へ行っても、僕は周防と一緒にいたいです。よろしくお願いします」  僕が頭を下げるのと同時に店内の照明が暗くなり、オルゴールではなくビリー・ジョエルが歌う『素顔のままで』が流れはじめて、『Happy 5th anniversary lovebirds!』と書かれたケーキプレートが運ばれてくる。  しかも店内にいるお客さんたちが口々に「おめでとう」と言いながら拍手をしてくれていて、僕は意識が遠のいた。  たくさんの拍手はうれしいし、ありがたいけど、こういう派手な演出は苦手だ。そもそも周防以外の人から注目されるのが嫌いだし、せっかく食事を楽しみに来ているお客さんたちに、僕たちの個人的なことにお付き合いさせてしまって恐縮する。  こういうの、本当に嫌だ! と心の底から思い、仕掛けてきた周防に、心の中で「今夜、覚えてろよ」と言い放ちつつ、四方八方へ頭を下げた。  でも、目の前で太陽のように笑っている周防を見ると、僕も一緒に笑ってしまう。やっぱり周防に敵わない。  レストランの人たちにお礼を言って外に出て、僕はようやく深呼吸した。 「ああ、楽しかった!」  店を出たら、とにかく一言だけは言っておこうと思ってたのに、僕は周防の手を握っていた。周防は僕の手を握り返し、まっすぐ前を見て言った。 「佐和、飛べるか?」 「もちろん!」  僕たちは「せーのっ!」と一歩先の未来へ飛び、腹の底から笑い合った。  アスファルトはいつの間にか降って止んだ雨で濡れ、きらきらと光っていた。  天の川みたいに輝く家路を、両岸に分かれることがないように、僕たちはずっと手をつないで歩いた。

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