172 / 172
【番外編】金のリボンを解いて、結んで
僕は、親友の周防を好きになってしまった。
それは、とてもつらいことだった。
出会った日からずっと、何をするときも周防と話し合って決めていたのに、僕は初めて周防に何も言わず、一人で手続きを進めて、湾岸沿いのマンションに引っ越した。
部屋の角に物がなくてくっきりしてて、寄りかかる壁がとても冷たくて、カーテンのない窓から見える月は荒涼としていた。
それでも僕は、周防と距離を置くことができて、ほっとした。
一緒にご飯を食べたり、風呂に入ったり、一つのベッドで寝たりしながら、周防への恋心を隠すのは難しかったから。ほっとした。
「このくらい離れてちょうどいいんだ。恋なんて、一緒にいたって、離れていたって苦しいものなんだし。これでよかったんだ。さあ、あとは死ぬまで、親友を好きになった罪に苦しめ、佐和朔夜」
低く呟く自分の声が、一人きりの部屋に反響して、四方八方から僕に襲いかかった。
ここまで苦しいのに、懲りずに性欲は湧き上がる。性欲なんて、マジでいらない。
目を閉じて自分の身体に手を這わせ、思い浮かべるのは親友の姿だなんて、本当に絶望する。
妄想の中のきみは甘えるようなキスをして、少しずつ僕の心を溶かしながら、僕の肌に触れる。そして素直な気持ちで「好きだ」、「愛してる」、「佐和が欲しい」と熱っぽく囁き、僕を求めてくれるんだ。
疼く身体をさいなみ、快感を積み上げて弾けて、目が覚めれば僕はまた誰もいない部屋に一人きりだ。
今まできみは、僕にこんな想像をさせるために、同じ部屋で着替えたり、一緒に風呂に入って仕事の話をしていたわけじゃないのに。本当にごめん。
ティッシュペーパーを半透明のごみ袋に投げ込んで、透けるティッシュペーパーの量の多さに背を向けた。
夏が終わり、秋が過ぎ、クリスマスも年末年始も単独行動すると決めて実行した。もちろんバレンタインだって何の予定もない。
「冬って、イベントが多いな。やだやだ」
出勤前にコンビニのチョコレート売り場を見て、金色のリボンがかかる箱に手を伸ばしかけた。プレゼントするのは不自然でも、朝食のデザートにチョコレートを一緒に食べるくらいは、許されるんじゃないかと考えた。
「ダメ。僕の気持ちが流れ出ちゃう」
ほんのわずかな清水だって、一度流れ出したら僕はきっと止められない。岩をも砕く濁流になって周防に襲いかかってしまいそうだ。
僕はすんでのところで手を止めて、味の濃い昆布のおにぎりと、ドレッシングたっぷりのサラダだけを買った。最近は、何を食べても味がぼんやりとしか感じられない。
出勤して、自分のスケジュールを確認していたら、周防が扉を開けて部屋に入ってきた。
「おはよう、佐和」
周防ははつらつとして輝いていて、今日もまた僕は彼を好きになってしまう。
ソファに移動して、用意されている新聞の束に手を伸ばし、青色のペンを片手に記事を追う。仕事している時だけは、恋心も多少まぎれて、周防のそばにいられる。
読み終えた新聞をテーブルに置き、周防が読み終えた新聞を広げる。
周防は、地方公共団体の奨学金返還支援制度と、地方創生枠の無利子奨学金の利用状況に関する記事を赤ペンで囲んでいた。
「利用者が少ないね」
主語を省いた僕の発言にも、周防は戸惑うことなくうなずく。
「ああ。全国規模の組織でも、案外広報が弱いんだよな。ホームページを作っておけばいいと思う、申し込みが殺到して忙しくなるのは面倒だと思うやつは、どこの組織にもいる」
「天下ったあとは、平穏無事に暮らしたいってことなのかな」
周防はこの組織の綻びに切り込んで行きたいし、その判断には僕も賛成だ。小さな記事だけど、さらに追求してみる価値はある。青色の丸を重ねて、記事を写真に撮った。
仕事なら、いくらでも阿吽の呼吸で進められる。この時間がずっと続けばいいのに。
周防は新聞を読みながらバナナを食べていた。重要なプレゼンや面談があって緊張するときに食べることが多い。でも今日はそんなに緊張するような予定があっただろうか。
タブレット端末で周防のスケジュールを見たが、午前中はデスクワークと定例の社内ミーティングで、午後もそんなに緊張する訪問先は見当たらない。
「胃の調子が悪いの?」
バナナを見る僕の視線に、周防は少し返答をためらった。
「ちょっと緊張してる。今日はバレンタインデーだから」
「バレンタインで? 珍しいね」
「俺もそう思う。上手く渡せるか、緊張する」
「そっか。渡す側になるのは、緊張するかもね。上手くいくといいね」
全然、上手くいくといいねなんて思えなくて、噛みついたおにぎりの昆布の味すら、僕にはよくわからなかった。
バナナを食べ終えた周防は、コンビニ袋から金色のリボンがかかった小さな箱を取り出した。
「バレンタインだし。デザートに、どう?」
リボンを解いて箱を開け、指先で僕のほうへ箱を滑らせてくれる。
箱の中には四粒のプラリネが入っていた。
「ありがとう。いただきます」
一番控えめなデザインの黒胡椒のプラリネを食べたら、周防は揃えた指先で、真っ赤なハートのプラリネを示した。
「せっかくだから、赤いハートも食べて」
「うん。じゃあ、いただきます」
僕は赤いハートを口に含み、甘酸っぱいカシスの味と香りを楽しんだ。
周防は僕の表情を見て肩の力を抜き、笑顔になって立ち上がった。いつものように僕に右手を差し出す。
「今日も一日お願いします」
「こちらこそ。よい一日を」
僕も立ち上がって右手を差し出し、握手を交わした。
「残りのチョコもどうぞ」
周防はそう言って部屋を出ていき、僕はソファにへたりこんだ。
「周防に、チョコレートもらっちゃった」
コンビニで見かけて買っただけで、他意はないとわかっていても、僕はその箱を抱き締めてしまうほどうれしかった。
解かれた金色のリボンを僕は大切に胸ポケットへ収めた。
残りの二粒は大切に持ち帰って、しばらく眺めて過ごしてから、一番大切にしているウィスキーと一緒に、大切に大切に食べた。人を好きになるって、こういうことなんだと思った。
その後、僕たちは生涯の伴侶になって、チョコレートは僕が渡している。
毎年、金色のリボンがかかった大きな箱と、赤いバラを一輪、そして思いの丈を綴ったカードを、バレンタインデーの朝、彼の枕元に置く。
こんなロマンチックなことは年に一度が精一杯だ。ものすごく緊張するし、恥ずかしいけど、愛してるという気持ちは、しっかり伝えたい。
毎年バスルームに逃げていたけど、今年は喜ぶ顔も見たくて、僕は隣に寝そべった。
ずっと布団を口元まで引き上げ、目を閉じて大人しくしていた周防が、ぱっちりと目を開けた。
「ありがとう、佐和! ハッピーバレンタイン! 愛してる!」
結婚指輪が馴染んだ左手で僕を抱き寄せ、顔にも髪にもキスの雨を降らされる。僕は喜んでもらえてうれしくて、キスがくすぐったくて、たくさん笑った。
「開けていい? いい?」
周防は金色のリボンを解き、ずらりと並ぶ宝石のようなチョコレートを見ては僕にキスをして、赤いバラの匂いを嗅いではまた僕にキスをして、カードを読んでさらに僕にキスをした。
素直に気持ちを伝えられること、その気持ちを曲解なく受け取ってもらえることは、実は奇跡だと思う。
これからも、この奇跡をたくさん繰り返していけるように、僕はこれからも努力しよう。
犬のジョンみたいにベッドの上を跳ね回って喜ぶ周防を見て、僕はもう一歩踏み込んだ愛情表現にチャレンジすることにした。
解かれた金色のリボンを自分の首に結び、周防を抱き締める。
「僕も、食べて」
地球が反転する勢いでベッドに押し倒されて、僕は彼の「好きだ」、「愛してる」、「佐和が欲しい」と熱っぽく囁きながら、甘えるようなキスをする愛を全身で受け止め、僕の愛も全身で伝えた。ハッピーバレンタイン!
ともだちにシェアしよう!