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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(105)

 ポロ葱のテリーヌに鴨レバーのペーストをのせ、銀のフォークで口へ運んで、佐和は目を細める。無意識に唇の上を動く舌先に、俺の目は釘付けになる。 「さっきの展覧会で、気になる作品はあった?」  佐和の問いかけに不意をつかれ、繕う間もなく正直な返事をした。 「第二室のインスタレーション。頭上に蜘蛛の糸が張り巡らされて、餓鬼が足元に集まってくるやつ。目を逸らしたい自分の嫌な部分と、強引に向き合わされる感じがして、印象に残った」 「周防がそこまで作品との距離を詰めるのは、珍しいね」 「ああ。佐和の足をよじ登ってしがみつく餓鬼が、自分に重なった」  柔らかなテリーヌを、思わず強い力で押し切った。ナイフの刃を皿にあてて音を立て、俺は「失礼」と謝る。  佐和は小さく首を横に振って、口元に笑みを浮かべた。その唇の艶を美しいと思い、ナイフとフォークを操る手に上品で爽やかな色気を見る。 「さっき周防が『俺以外の餓鬼を懐かせてはいけません』って独占欲を見せてくれて、僕は恋人同士っぽくていいなって喜んでいたんだけど。そんな軽い話じゃなかった?」  ほんのり甘いポロ葱の食感に、俺の舌がつるりと動いた。 「俺は、佐和を好きすぎて、餓鬼のように佐和にまとわりついていると思った」  葱と鴨を一緒に食べながら、佐和は笑う。 「僕は、餓鬼の周防にとって都合のいい、カモネギってこと?」 「佐和がカモネギになるような間抜けだとは思わない。ただ、俺の執着が強すぎるんじゃないかと……」  ちぎったパンを口に入れ、その欠片が粘膜を刺すように、俺は自分の『執着』という言葉に、ちくちくと刺されていた。 「僕たちって、特別じゃないよね」 「え?」  佐和の言葉に顔を上げた。 「執着も独占欲も嫉妬もない、そんな高尚な恋や愛なんて、凡人の僕たちには必要なくない?」 「佐和の言うことはわかる気がするけど。俺の言いたいことは、少し違う。俺は佐和の両耳を自分の手で塞いで、互いの額をくっつけて、俺だけで佐和の視界をいっぱいにして、『俺を好きになれ、俺だけを愛せ』と洗脳してしまったんじゃないか。そういう考えにとらわれているんだ」  佐和は小さく何度もうなずきながら、軽くて繊細な味わいのする赤ワインを飲んだ。 「『佐和は周防に洗脳されている』なんて、今まで散々言われてきた台詞だ。でも僕は、それならそれでいいんじゃないかと思ってるよ」  意外な返事だと思った。佐和はちぎったパンを口に入れて噛み、ワインで口を潤してから、さらに言った。 「洗脳されているって思いたい人は、勝手にそう思えばいいんだ。でも、仮にこれが洗脳だったとして。この洗脳の何が悪いの?」 「は?」 「僕たちの会社は順調だし、僕は周防に全力で優しく、大切にしてもらっている。僕の心は満たされて、幸せを感じている。不満に思うことは何もない。それが洗脳の結果なら、このまま洗脳されてるほうがよくない?」 「そ、そうか。それならよかった……のか?」 「いいんだよ。僕は幸せだ。一生、僕のことを洗脳し続けて」  ちぎったパンを口に押し込まれ、グラスを合わせられて、俺はワインを飲んだ。 「俺は、佐和を洗脳したままでいいのか?」 「いいよ。周防は真面目で誠実で、僕が不幸になるような洗脳はしないってわかってるから。一生よろしくね」 「あ、ああ」  次に運ばれてきた白身魚と帆立のパイ包みにナイフとフォークを入れ、きれいに切り分けながら、佐和は小さく笑って顔を上げた。 「ところで、私から周防くんに、ひとつ質問があります。『周防くんは、佐和くんを洗脳している』などと考えているようですが、そう考える周防くんは、一体誰に洗脳されているんですか?」  佐和の口調は光島にそっくりで、俺は目を見開いた。 「俺が洗脳されてる? 光島に?」 「やっぱり、光島さんだったんだ。さっきWeb会議のモニター画面に『MITSUSHIMA』って名前が出ていたから、そうなのかなと思った。光島さんの故郷は、教授が赴任している大学とも近いし」  佐和はわかりやすく大きなため息をついた。それから俺の話に耳を傾けるように、小さく首を傾げたので、俺は正直に話した。 「教授の研究室へ行ったら、光島がいた」  すべての経緯を話すあいだ、佐和は「食べながら話そう」と空気をやわらげ、薪釜で焼かれた鳩のグリルを丁寧に切り分けながら、全部の話を聞いてくれた。  そして切り分けた肉を咀嚼して、俺をあやすような笑顔を向けてくれる。 「あの人、人をその気にさせるのが上手いんだよね。僕たちには会社を作らせたし、起業家支援のプラットフォームや、地方創生コンソーシアムも、よく盛り上げていたと思う。だからって、人を暴力でねじ伏せいい訳じゃないし、僕の愛する婚約者を洗脳していい訳でもない」  話しているうちに目は伏せられ、表情は曇ったが、その話し方は淡々としていた。怒っているのか悲しんでいるのかはわからなかった。  俺はどのような表情で、どんな声色で、どんな言葉を返そうかと思案していたら、佐和が両手からナイフとフォークを離し、背筋を伸ばして顔を上げ、まっすぐに俺の目を見た。 「周防。突然で悪いけど、婚約を解消したい。僕と別れて欲しい」  人間は、驚きすぎると声が出ない。ただ真意を読み取りたくて、佐和の左右の眼や口元、頬の筋肉、喉の動きなど、つぶさに観察した。 「僕と別れてください」  真面目な声で重ねて言われ、俺はゆっくり鼻から息を吸って、精一杯、穏やかで落ち着いた声を出した。 「佐和がそう思うなら、もちろん別れる。ただ、もしよければ後学のために、俺と別れたいと思う理由を教えてもらえないか」  俺が光島に振り回されたから、呆れられたのだろうか。埋められない生活習慣の齟齬があっただろうか。セックスについて、言い出せない不満が蓄積したのだろうか。政治的な思想については、重なる部分も重ならない部分もあるが、尊重し合っていると思っていたが、違ったのだろうか。信仰心はほとんどないが、それでも互いの宗教について相容れない部分があっただろうか。それとも、誰か好きな人ができたのだろうか。  一瞬で頭の中に思い当たる節が駆け巡る。  佐和は軽く手を挙げてウェイターを呼び、何かを言ったが、俺の耳はもうショックで塞がれていて、何も聞こえていなかった。  ここからどうやって帰ろう。今夜はどうやって寝よう。佐和は出て行ってしまうのだろうか。俺だって一人であんなに広い部屋にはいられない。月曜日に、俺は会社でいつも通りに振る舞えるだろうか。 「……う。……おう。周防。す・お・う!」  佐和が身を乗り出し、俺の顔の前で手を振っていた。 「あ、ああ。失礼。動揺のあまり、ぼんやりしていた」  強くまばたきをした俺の目をのぞき込み、佐和は口を大きく開けて、はっきり話した。 「周防は、僕を洗脳してないよ」 「は?」 「今、わかった。別にもともと疑ってなかったけど、周防は僕を洗脳してない。大丈夫だ」  俺の両目をしっかり見つめて言ってから、佐和は椅子に座り直した。  ウェイターが氷水の入ったグラスを運んできて、俺の前に置く。 「ごめんね。説明するけど、その前に水を飲んで落ち着いて」  結露するグラスを気をつけて握り、半分ほどを一気にあおった。冷たさが針となって喉を刺し、俺は目が開いたのを感じる。 「意識を取り戻した? ごめんね、変なことを言って、周防を試して」 「試した?」 「うん。試しました、ごめんなさい。でもその結果、周防は僕を洗脳していないとわかった」 「どうして?」 「僕が別れたいって言ったら、素直に引き下がったから。ショックは受けたみたいだけど、カッとなって暴力や暴言、あるいは甘えたり、捨て身で謝ったり、狂言自殺を図ったりしてまで、強引に自分の手元に置こうとはしなかった。周防が心配するほど、周防のメンタルは病んでないと思うよ?」 「そ、そうですか……それはよかったです」 「周防の愛は利己的なものじゃない。自分の私利私欲ために、プライドや金銭や権力のために、僕を支配しようとは思ってない。いい子だね、周防は」  いい子だね、と子どものような褒め方をされて、俺は思わず肩の力を抜いて笑った。 「支配か。佐和に支配されるなら、俺は歓迎だけどな」  佐和は肩をすくめて小さく笑うだけで、食事を再開した。

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