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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(104)
リニューアルした現代美術館の展示室は、天井に乳白ガラスがはめ込まれていて、霧のように細かく分散された陽光が降り注ぐ。
佐和の黒髪も、身体を覆うシープスキンのハーフコートも柔らかく光って、彼の上品さを引き立てていた。
シープスキンのハーフコートは、旅先で「自分たちへの土産にしよう」と佐和に持ちかけて仕立てた。
佐和はハーフコートを、俺はライダースジャケットを仕立てたので、見た目にはわかりにくいが、同じ革を使ったお揃いだ。
店で佐和がサンプルを見比べ、気に入った革を選んだあとに、「俺も」と同じ革を指で差して、お揃いにした。
今日も、佐和がハーフコートを選んで着たあとに、黙ってライダースジャケットを着て、お揃いにした。
「光島に指摘されるのは、こういうところなんだよな」
ため息のかわりに、口をすぼめ、細く長く息を吐きながら、佐和の姿を追って歩く。
順路に従って次の部屋へ足を踏み入れると、そこは空間全体を作品化したインスタレーションが展示されていた。
頭上には、銀色の糸が蜘蛛の巣の形に張り巡らされ、さらにその上には白い蓮の花が浮かぶ。
足元へ目を転じれば、そこにはコールタールのように粘り気のある沼と、歩く人の足を追って、あばらの浮く餓鬼たちが集まってくる映像が映し出されている。
「この中のひとりは、俺かなぁ」
黒くてどろどろとした液体を滴らせながら、脛に這い上ってくる餓鬼たちを、俺は振り払えないまま見つめた。
佐和は足元の餓鬼たちを落ち着いて見下ろし、それから頭上に広がる蜘蛛の巣と蓮の花を見まわしている。
「佐和の前には、きっと蜘蛛の糸が降りてくる」
もし糸が降りてきたら、俺は何としてでもその糸を佐和につかませようとするだろう。俺は佐和の足手まといになる餓鬼を片っ端から蹴落として、もろとも堕ちる道を選ぶ。
「こういう身勝手な思考は、あんまり佐和に知られたくねぇな」
身体を揺らせば、餓鬼は振り落とされる仕組みだが、佐和は頭の上まで餓鬼をまとわりつかせ、俺を見て笑っていた。
「周防、見て。懐かれちゃった!」
無垢な笑顔だった。餓鬼がまとわりついても、俺がまとわりついても、それを当たり前だと思って疑いもしない。
「佐和は純情すぎる」
口の中だけで呟き、俺は無理矢理、左右の口角を上げた。足元のコールタールの沼が靴底にへばりつく重さを感じながら、佐和に歩み寄る。
「俺以外の餓鬼を懐かせてはいけません」
笑っている佐和の全身から餓鬼を払い落とし、手をつかんで展示室を出た。
佐和は俺と手をつないだまま、作品のコンセプトを読み解き、細部まで丁寧に鑑賞する。満足すると、次の作品に向け、俺の手を引っ張って歩いた。
「ずっと僕のペースで歩かせちゃったね。ごめん」
美術館を出てからも、佐和は俺の手を握り続けてくれた。
「佐和のペースで歩きたい気分だったから、楽しかった。ごめんよりは、ありがとうがいい」
つないだ手を揺らしながら笑う俺の返事に、佐和は眉間に皺を寄せながら笑う。
「ありがとう。でも、僕のペースに合わせ続けるのって、疲れるだろ。周防は今日もお人好しだ」
「お人好し? 俺は、そんなに微笑ましい性格じゃないぞ」
そんな性格だったら、佐和の外堀を埋めて、友人を引き剥がして、洗脳しようなんて思わない。
「そうかな? 相手を追い詰めない、優しい性格だと思うけど」
「お、悪口か? 土俵際の弱さは認めるぞ」
軽く跳ねて佐和の肩に自分の肩をぶつけたら、佐和は首を横に振った。
「相手を追い詰めすぎないって、大事なことだよね。僕は、相手がビルから落ちるまで追い詰めてしまうから、気をつけなきゃ」
「ビル?」
「ん。たとえば大学の図書館の屋上から、ね。あのときは、周防が『それは違う』って追いかけて止めてくれたから、死ななかったけど」
佐和の言葉に主語はなかったが、それが光島と対峙したときの話であることは、すぐにわかった。
「もっと追い詰めておいたほうが、よかったのかも知れない」
口をついて出た本音に、佐和は足を止めた。
「あのときの周防の行動は、人として正しかったと思う!」
俺の手を強く握り、まっすぐに俺の目を見て言い切られて面食らった。
「そ、そうか。佐和がそう思ってくれるなら、よかった」
「僕はわがままで、空気を読むのが苦手で、すぐに追い詰めそうになるから、だから」
佐和の声が少しずつ小さくなっていった。
「佐和、どうした?」
「周防のことも追い詰めているんじゃないかって、不安になる」
普段通りにしているつもりでも、佐和にはやっぱり見抜かれてしまう。俺は足を止め、腹を括って、佐和の目を見て告げた。
「追い詰められてはいないけど、同じところをぐるぐるしてる。マリッジブルーかもしれない」
佐和は静かにうなずいた。
「話してくれてありがとう。プロポーズの日まで、存分に悩んで。僕が周防にふさわしいかを見定めて。僕でよければ、どんな質問にも答えるし、相談にも乗る。ただ、これだけははっきり言っておく」
鼻から小さく深呼吸した佐和は、俺の正面にまっすぐ立ち、強く俺の手を握った。
「でも僕は周防みたいに優しくない。この手は、絶対に離さないから、そのつもりでいて」
俺に洗脳されて、こんなことを言ってくれているのなら。佐和の本心はどこにあるのだろうか。
佐和は、黙り込んだ俺の顔を不安そうに覗き込む。
「僕のこと、嫌い?」
「とんでもない! 俺は佐和のことが、世界でいちばん大好きだ。愛してる。気持ちが強すぎて、佐和を困らせていないか心配だ」
「僕は困ってなんかいないよ! そんな心配はいらない!」
「そうか。それなら安心だ」
俺は笑顔を作り、佐和を抱き締めた。
すでに日は落ち、風は冷たくなっていて、俺は佐和と手をつなごうとした。
「ねぇ、周防。これ、もしよければ使って」
佐和は手袋の右だけを俺に差し出した。
「え、ああ。お気遣いなく」
俺は手袋が苦手だ。手を動かしにくくなるのも、縫い目や裏地が触れるのも気になる。ニットは風が抜けるたびに総毛立つような感覚が嫌だし、革は窮屈な上、手首から風が入り込む感覚が好きじゃない。
「そう言わずに、一回だけつけてみて」
佐和に渡された手袋は、革が薄く柔らかく、吸いつくように手に馴染む。自由に指を曲げ伸ばしできた。細かな縫い目は外側にあって違和感が少なく、裏地もなめらかだ。手の甲にのベルトがあって、手の形に添わせることができ、手首にはゴムを仕込んだギャザーが寄せられていて、風が入り込む嫌な感覚もない。
「こんな手袋は初めてだ」
「よかった。お店の前まで僕と手をつないで歩いてくれたら、左側もあげるね」
佐和は左手に手袋をつけ、俺の左手をすくい上げて握ると、その握った手を自分が着ているハーフコートのポケットに入れた。
「周防はいつもいろんな工作をして、僕に仕掛けてくれるけど、やってみたら結構手間がかかる。わざわざありがとう」
「イタズラなんて、仕掛けるのが楽しくてやっているんだ」
イタズラのし過ぎも、よくなかったのかな。
佐和の前で考えるのはやめよう。頭を振って気持ちを切り替え、自分の右手を見た。
「この手袋はどこで見つけたんだ?」
俺の問いに、佐和は首を横に振った。
「見つからなくて、オーダーしたんだ。周防が寝てから、こっそりサイズを測らせてもらっちゃった」
「まったく気づかなかった」
「作戦、大成功!」
佐和は明るい声で笑い、ポケットの中で少しだけ強く俺の手を握った。
「僕、やってみたかったんだ。周防は手袋の感触が苦手だって、寒い季節でも滅多に使わないけど。その……周防の手を、僕が、暖めてあげたいな、なんて。その。あの」
つないでいる佐和の手が急に熱くなり、汗ばんでくる。
「とても愛に溢れた、暖かいイタズラだ。ありがとう」
俺は周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、佐和の頬に唇を押しつけた。
「ど、どういたしまして。あっ、予約の時間まであと5分だよ。急ごうっ!」
突然走り出した佐和に引っ張られ、真新しいアスファルトの歩道を一緒に走った。
会社を設立した日に、こんなアスファルトの道をふたりで歩いた。
あの頃、俺たちの間にはいろんな愛があって、足りないのは恋愛とセックスだけだと思っていた。
今、俺たちの間には恋愛もセックスもあって、欠けているものは何ひとつない。でも、自分の欠点が、その完璧を欠けさせている。
俺のコールタールも、いつかは砂利と混ざって冷えて固まり、歩く道になるだろうか。
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