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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(103)

 ふたつのマグカップにコーヒーが満ちる頃、姪から電話がかかってきた。  回線は繋がっていて、部屋に流れているポップ・ロックらしい音楽も聞こえている。  細く長いため息も、ベッドの上を転がっているらしい衣擦れの音も伝わってきていた。 「多笑(たえ)。電話をくれて、ありがとう」  話しかけると、ようやく反応があった。 『さねおみぃ。元気ぃ?』  ねり飴を引き伸ばしたような話し方で、声も晴れやかではない。  俺は意識して口角を上げ、腹から声を出した。 「俺は元気だ。お前は元気じゃなさそうだな」  姪の鬱屈を笑い飛ばしてやりながら、両手にマグカップを持ち、佐和の書斎へ向かって歩く。ドアは開放されていて、パソコンに向かう佐和にコーヒーを差し出した。 「ありがとう」  洗いざらしの髪を揺らして微笑む佐和の目を見ながら、姪に話し掛けた。 「佐和も元気だぞ。一緒に話すか?」  スマホを見せて通話相手を示すと、佐和はうなずいた。しかし姪の反応は芳しくない。 『今、頭の中がぐちゃぐちゃなの。王子様に聞かれるのは恥ずかしい。さねおみだけと話したい』 「了解。それでは下僕がお話を伺いましょう」  本棚の隣に座布団を与えられて座っている、大きなくまのぬいぐるみのサネオミに背を預けて座り、体勢を整えた。  姪の沈黙はしばらく続き、俺はつい、どうした、何があった、いい音楽を聴いているな、などと話しかけたくなる。そのたびにコーヒーを口に含んで、姪の言葉を待った。 『んー。んー、なんかさー。なんか、さー』  姪はしばらく呻いたり、ため息をついたりしていたが、曲間のわずかな無音にあわせ、大きく深呼吸をしてから、小さな声で言った。 『あの男のこと、全然好きじゃなかったのかも』  俺の頭には、すぐに広報担当者の顔が浮かぶ。 「そういうときもある。夢から覚めたんだ。おはよう」 『私、何から何まで、全部だまされてたんだなーって、思っちゃった』 「そうか。とはいえ、職業や妻子の存在を見抜くのは難しかっただろう。失敗した経験は、次に活かせばいい。多笑ならできる」 『それは、私もできるって思うけどぉ。そうじゃなくてぇ』 「そうじゃなくて?」 『私、最初から全然好きじゃなかったのかも。ただ、あの男に、好きになるように仕向けられていたのかも。好きだって思い込まされていたのかも。好きになりなさいって、洗脳されていたのかもって、思うんだ』  直前の光島の言葉が、頭の中によみがえる。 『愛されて』いるのではない、『愛さ〈せ〉て』いる。  あの男も姪を囲い込み、強引に自分だけを見るように、好きになるように、あの手この手で仕向けたのだろうか。  俺は自分のことを言われているようで動揺し、コーヒーを飲んで時間を稼いだ。  あの男と俺は違う。光島と俺は違う。  本当にそうだろうか?  佐和を馬術部から引き剥がし、友人を捨てさせ、実家に押しかけて住み着き、部屋の合鍵を持ち、GPSで居場所を検索し、身の回りをお揃いの物で埋めつくし、共通の趣味を持ち、24時間まとわりついて話しかけてきた。  毎日のように、佐和の姿を写真や動画に撮っていて、暇さえあれば見返す。その姿を手がかりに、自分の欲も解消する。  同じベッドで眠り、佐和の身体に手を伸ばしては、己を埋めて腰を振り、青臭い粘液を放って満足する。  何が違う? 何も違わなくないか?  絞首台に立ち、足元の板が抜けて身体が自由落下するように、俺の気持ちは暗闇へ向けて、一気に落ちていった。  目の前では、佐和がいつも通りに過ごしているのに、鉄格子を隔てた別世界にいるような気がした。 『さねおみ?』  姪の声で我に返る。俺はコーヒーを飲もうとして、マグカップを持つ手が小さく震えていることに気づいて、飲むのをやめた。 「傷心のお姫様を、なんとお慰めしたらよいか、考えていた」  軽く笑ったつもりだが、片頬だけが軋みながら持ち上がる嫌な嗤い方になった。姪にも佐和にも知られたくない顔だった。  マグカップを床に置き、両手で顔を覆った。ゆっくり深呼吸をして、俺はいつものパワフルで前向きな周防眞臣の顔を作った。  周防眞臣の仮面が、きちんと貼り付いたことを、コーヒーの水面に確認して、俺は言葉を発した。 「このたびは、弊社社員が多大なるご迷惑をおかけしたことを、衷心よりお詫び申し上げる。当人については、社内規程に則り、厳正な処分を持って対応する」  真面目に、誠意を込めて話してから、俺は肩の力を抜いてぼやいた。 「ま、端的に言うと、クビだ。会社の金も横領してるしなー」 『会社の金を盗んで、私に助けてって連絡してきたってこと?』 「そう。あんま話せねぇけど、その罪を他人になすりつけようとしたりして、往生際も悪い。金の使い途はろくでもなくて、同情の余地は一切ない。これから佐和が損害賠償請求して、場合によっては裁判もして、きっちり取り返すけど、手間も時間もかかる。俺もお前も、今回は変なのに引っかかったな」  のんびりした声で話し、姪が呆れて息を吐くのを聞いてから、俺は本題に触れた。 「あの手この手を使って、多笑の気持ちをコントロールしようとするヤツは、これからも何人もあらわれる。詐欺やネズミ講には気をつけましょう。身体目当ての男にも気をつけましょう。でも、あの手この手を使うヤツのなかで、一人だけ、多笑が信じてもいいヤツがいる」 「全身全霊をかけて、生涯、多笑を大切にしようと思うヤツだ。あの手この手を使って、多笑を笑顔にしよう、幸せにしようと、本気で行動するヤツは、まあ、信じてもいい」  ペラペラと姪に向かって話しながら、俺は納得していた。  そう、あの手この手を使って、佐和を笑顔にしよう、幸せにしようと思うヤツはいい。  問題なのは、あの手この手を使って、佐和を『自分のもの』にしようと思ってきた、俺だ。 『そんな人、あらわれるかなぁ?』  半信半疑の声を出す姪に、俺は明るい笑い声を聞かせる。 「一人じゃなく、二人も、三人も、五人も、十人も。もっといるかもしれない。俺と佐和だって、多笑の幸せを本気で願っている」  姪もようやく明るい声を出した。 『もう! マジで、サワが彼氏だったらよかった!』 「ダーメ。佐和は俺の彼氏だ」  目の前では、佐和が笑っていて、とてもうれしくて幸せだ。  佐和が、俺に囲いこまれて、仕向けられて、俺を好きになったんだと、永遠に気付かないでいてほしい。  通話を終えた俺は、佐和をデートに誘った。 「周防って、すごいね! どうして僕が見たいと思ってる展覧会がわかるの?」  車の助手席で、佐和ははしゃいだ声を出した。 「十年も一緒にいれば、なんとなく」  そんな言葉で流したが、本当は俺が佐和に甘えて、背後から肩に顎をのせていたとき、佐和がスマホで現代美術館のホームページを見ていたからだ。  普段なら、正直に手の内を明かすのに、今日は勝手にスマホの画面を覗いていたとは、言いにくかった。そこまで佐和のプライベートに立ち入っている自分が、少し気持ち悪く思えた。

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