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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(102)
「次回は来週の土曜日13:30からです。よろしくお願い致します」
お疲れ様でした、と全員が言い合ったあとで光島が口を開いた。
「周防社長、このあと15分だけお時間をいただけますか」
絶対に説教だ。佐和に依存しているとか、執着しているとか。今の俺と佐和の愛の深さと絆の強さを知らないくせに、いらざることべぇ 言うな!
その場で突っぱねたかったが、教授や大門氏を巻き込んでのケンカはできない。光島も、教授や大門氏の前なら俺が断らないとわかって、わざとこのタイミングで声を掛けてきている。
俺は感情が出ないように気をつけながら答えた。
「10分だけなら。14時半には家を出なくてはならない用があるので」
そんな予定はなかったが、佐和を誘ってドライブに出掛けることを思いついた。
たしか現代美術館がリニューアル工事を終え、所蔵品の一挙展示をしていたはずだ。作品を観て歩く佐和の横顔を鑑賞すれば、光島に言われたことなどすぐに忘れる。
帰りは隅田川を一望するレストランで、食材がぎっしり詰まったキッシュや、口の中でほどけるテリーヌを味わえば、最高の休日になる。
そんな妄想をした瞬間、自分の表情が少し緩んだ。すぐにコーヒーを飲むふりでマグカップに口をつけ、顔を隠したが、光島は見逃さなかった。
「そうですか。デートのおじゃまをするつもりはありません。5分で結構ですよ」
光島は穏やかな笑みを見せ、教授と大門氏に優しく目を細められて、俺はただ佐和とデートしたいだけの男に仕立て上げられた。
ぬるくなったコーヒーを口に含み、深呼吸をして、画面いっぱいに映る光島の顔と対峙する。
「まだ、佐和君と一緒に暮らしているんですか」
光島のあきれ声に、俺はカメラを睨みつけた。
「お答えは致しかねる」
「そうでしたね。私は、佐和君の近況を知ることはできない。悪かったのは私です」
「自覚がおありなら、詮索しないでいただきたい」
強い口調で告げても、光島は穏やかな表情を崩さない。
「心配なのは、佐和くんではない。周防くんです。私のように身を滅ぼして、家族も社会的信用も何もかも失ってから、身を立て直すことは、容易ではありません」
「余計なお世話だ、俺はあんたとは違う」
「どう違うんですか? 佐和くんに執着して、言いくるめて、自分に懐かせて、外堀を埋めて、好きだと言わせているじゃありませんか」
「佐和は、佐和の意思で人生を決め、行動している」
「違います。佐和くんはあなたに追い詰められて、仕方なくゲイになったんです。可哀想に」
わざとらしく首を左右に振る姿に、俺は巻き込まれないよう、静かに口を開いた。
「性的指向は、自分の意思でコントロールできるものではないだろう」
光島は、俺の言葉が聞こえていないかのように、話し続けた。
「あの店を覚えていますか。男たちが集い、一夜の行為を楽しむ店です」
もちろん覚えている。男たちをはべらせて、つまらなそうにしていた佐和と、俺が初めて肌を重ねた場所だ。
「佐和くんは、初めてあの店へ足を踏み入れた日、男同士の行為を目の当たりにして、激しい拒絶反応を示しました。口を押さえてトイレへ駆け込み、嘔吐を繰り返しました」
そんなことがあったのかと納得し掛けて、我に返る。
「どうして、てめぇがそんなことを知っている?」
「私があの店を教えたからです」
どんな会話から、あの店が出てくるのか。俺の疑問を、表情から読み取ったらしい。光島は勝手にうなずいて、話を続けた。
「私が結婚してすぐの頃、『周防にはいつも彼女がいて誘いにくいし、光島さんも結婚しちゃったし。一人で飲みに行ける店を探しているんです。どこか知りませんか』と佐和くんは言いました」
凜々可と光島が結婚式を挙げた頃、佐和はすでにレジデンスを出て、会社を挟んだ反対側にある、湾岸沿いのマンションに引っ越していた。
プライベートでの交流は激減していて、俺と佐和が一緒に飲みに行く機会はなかった。
「当時の私は、佐和くんは、私のことを好きだからそう質問したのだと思いました。姉の前で甘えることはできないから、私の教えた店へ行き、そこで私と過ごしたい。そういうメッセージだろうと考えたのです」
「どう曲解したらそうなるんだか。曲解したとして、いきなりヤリ部屋を教えるか、普通?」
「私がお教えしたのは、ビルの5階にあるバーです。メモ用紙に走り書きして渡したので、数字の5と6を誤読したのでしょう。佐和くんは6階の店にやって来ました」
「てめぇが誤読させたんだろうが」
公認会計士の光島が、いい加減に数字を書くことはない。意図的に誤読するような数字を書いたに決まっている。
「とにかく佐和くんはやって来ました。仮面をつけて、店の中をゆっくり壁沿いに歩いて、様子を窺っていましたが、大勢が集まる休憩スペースの光景を見た瞬間、口許を押さえてトイレに駆け込みました」
「何十人もの集団がそこかしこで行為に及んでいる光景を目の当たりにしたら、驚いて当たり前だ」
「佐和くんは嘔吐して、泣いていました。私は介抱して、その日は帰るように言いました。でも次の週、彼はまた店にやって来ました。緊張していましたが、私が指南して……」
「あー、もういい! そんな話は、金輪際聞きたくねぇ! 必要があるときは本人から聞く! 黙れ!」
つい大声を出し、俺は深呼吸してどすんと椅子に座り直した。
「そうですね。私がお話ししたいのは過去の話ではありません。佐和くんがあなたに追い詰められて、仕方なくあなたの所にいるという現状についてです。あの当時、佐和君は私のことが好きで、我慢しているのだと思っていました。でもそうではなかった。周防くん、あなたを好きで、彼は我慢して男と関係を持っていたんです」
ヤリ部屋に通うことが、佐和にとってどんな意味を持っていたのか。
先日、姪には『どうせさねおみとは両思いになれないんだからって……男なら誰でもいいやって、かなり荒んだことをしていた』と話していた。
佐和は捨て鉢になっていたのかも知れないが、俺への思いを募らせた結果の行動だったなら。
俺は佐和が不特定多数の男性と関係を持ったことを悲しむよりも、それほどまでに自分が愛されていることを喜びたい。
「そのポジティブで身勝手な考え方を直せと言っているんです」
何も言葉を発していないのに、光島は鋭い口調で言った。
「周防くん。あなたは佐和くんに『愛されて』いるのではありません。『愛さ〈せ〉て』いるんです」
「愛させて……?」
「初対面の日から親しげに話しかけたことも、あなたが馬術部までついて行くことも、時間割を書き写すことも、家の中まで上がり込むことも、毎回佐和くんは驚き、普通はここまで踏み込まないと感じたはずです。そのたびに人懐っこい笑顔と言葉で言いくるめ、佐和くんと、佐和くんの家族を慣らしていった」
佐和は毎回驚き、俺は笑顔で言い返してきた。あるいは、佐和が重大な受け止め方をしないように、軽い言葉を口にして、既成事実を作り上げたことも、何度だってある。
「佐和くんを好きだから。その言葉で許される範疇は最初から越えている。執着です。あなただって、私と変わらない。周防くんは、充分に気持ちの悪いストーカーです」
俺は時計を見て、光島に告げた。
「時間だ」
「わかりました。デートを楽しんできてください」
無表情で回線を切って、マグカップの中のコールタールのように黒いコーヒーを飲んだ。
冷えたコーヒーは舌にまとわりつき、俺の耳の中には光島の言葉がへばりついている。
佐和をデートに誘うには、自分の気持ちが楽しくなさすぎた。
とりあえずコーヒーを淹れよう。佐和が好きな浅煎りの豆で落とし、佐和のもとへ届ければ、俺はきっと笑顔でデートの誘いを切り出せる。
デスクの上を片付け、マグカップとスマホを手に立ち上がったとき、姪からのメッセージに気づいた。
「『電話していい? 相づちを打って欲しいだけなんだけど』か。どうぞ」
キッチンへ移動して、マグカップを二つ並べる。全自動コーヒーメーカーが浅煎りの豆を砕く音を聞きながら、姪からの電話を待った。
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