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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(101)

 翌朝、佐和はブライトネイビーのスリーピーススーツを身につけて、長い足で社内を歩き回っていた。 「佐和くん、カッコイイ。昨日の夜はあんなに甘えんぼで、エロくて、絶倫で、イキまくりだったのに」  俺は窓際に立ってイヤホンから流れる保留音を聞きつつ、佐和の姿を見ていた。  佐和は呼び止める声に笑顔で応じ、胸の前で腕を組んで、思案顔で相づちを打つ。  相手は何か要領を得ない訴えを、くどくどとしているらしい。佐和は相手の顔を見て聞いているが、途中で思考を巡らせるようにくるりと視線が動いた。  さらに、つい口を挟みそうになって唇が開き、すぐに閉じる。相手の話を聞いているふりをしているが、視線は中空にあり、自分の思考に没頭している。一通り相手が訴えを述べ、もう一度繰り返し始める前に、何かシンプルな一言を発した。  相手は近距離でパスを受けたような顔で黙った。おそらく話はそこで終わったと思うが、佐和は話を続けた。そのテーマについて、いくつか事例を挙げた話し合いを仕掛けたようだ。  自分の訴えを一言で片付けられ、表情を曇らせていた相手は、佐和に意見を問われて、また生き生きと話し始めた。  佐和は相手の表情に呼応するように笑みを浮かべ、相槌を打つ。相手はますます活気づいて、何か答えを導き出した。そのタイミングを逃さず、佐和はおどけ、両手の人差し指を相手に向けた。  指を差されて、相手は破顔する。頬に赤味が差し、目がキラキラと輝いて、いっそう力強く佐和に話す。その姿は、ほんの数分前に不満を訴えていた人物とは別人のようだった。 「さっすが、佐和」  相手が満足し、納得して業務に取りかかるためには、指示や答えを与えるだけでなく、しばし話し相手になってガス抜きをし、自己肯定感を上げる手伝いをする時間が必要だと、佐和は心得ている。 「素晴らしい」  何でも切って捨て、要点だけを抽出するタイプの佐和が、根気よく相手の話に耳を傾け、笑いかけ、おどけてモチベーションを上げてやる。そんな懐の深さを身につけていることに驚く。  すっかり明るい気持ちになった相手が、子どものようにはしゃいで仕事に取りかかる姿を見て、佐和は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。 「懐の深さと慈愛まで身につけて、非の打ち所ナシかよ」  窓際に寄りかかって、延々と続く保留音を聞きながら、俺は舌を巻いていた。 『周防君、待たせたな』  教授の声が聞こえて、俺はタブレット端末のミュートボタンをタップした。 「いいえ、大丈夫です」  佐和に見とれて、時間なんか忘れていましたと心の中で付け加える。 『今、ちょうど光島先生がいらした。直接、光島先生と話してくれ』  教授のご下命に、嫌です、などと言えるはずもなく、俺はミュートボタンを押して、溜め息をついた。 「俺には、佐和のような根気よさも、慈愛も身についてない」  教授と光島が話している声を聞きながら、光島の話なんか聞きたくない。めんどくさいと、もう一度溜め息をつく。  視線を感じて顔を上げたら、愛しい佐和と目が合った。それだけで俺の気持ちははずみがついた。目を細めて合図を送ったが、光島の声が耳に飛び込んできて、我に返る。  ミュートを切って、いかにもよそ行きの声を出した。 「少々お待ちください。部屋を移動しますので」  イヤホンを通してくる気配すら、佐和には感じさせたくない。佐和に背を向け、タブレット端末を胸に抱えて隠して、自分の執務室に引きこもった。 「はぁ? 毎週土曜日の昼ぅ? 毎週っ、土曜のっ、昼ぅ?」  俺は声を裏返し、嫌だという気持ちを前面に押し出したが、光島は平然としている。 『全員のスケジュールが、そこしか合いません。仕方がないでしょう。教授は土曜日の午前中に授業がありますし、教授の研究日は大門さんのスケジュールを押さえることができません』  俺は仕事が大好きで、そのためには平気で休日を潰す。が、大嫌いな光島と接触するために休日を潰すのは億劫だ。 「毎週の訪問はお断りしたい。移動の時間だけで俺のスケジュールが食い潰されるし、移動の経費だけで、プロジェクトの予算を食い潰す」 『毎週は来なくて結構です。報告と提案程度のことは、Web会議で決裁しましょう』  俺は、それなら妥協してもいいかと、うなずいた。 「ここまでトントン拍子でしたから、少し油断しましたね」 「まさか、こんな方向から横槍が入るとは思わなかった」 「プロジェクトのスタートアップなんて、いつだってこんなものでしょう。ここで経験を積んでおかないと、のちのち行き詰まります」  大門氏、教授、光島の会話を聞き、俺は相づちを打つ。  出る杭は打たれる。打てないほど出切ってしまえばこっちのものだが、その境地へ辿り着くまでには、多くの人のよくない思考や感情を刺激する。 「その副学長とやらを、プロジェクトに巻き込んだら、どうなるんですか?」  俺の質問に、教授と光島が同時に眉をひそめ、首を横に振った。 「なるほど」  光島は、今日もきちんとひげをあたり、髪に櫛を通した清潔な姿で、穏やかに、しかしはっきりと話す。 「教授の口からは言いにくいでしょうが、副学長はいわゆる太鼓持ちタイプです。調子よく話し、権力者に取り入るのが上手い。そして、肝心な仕事はできず、逃げ足だけは速い。私たちが関われば、情報だけ抜かれ、引っかき回されて、すぐにはしごを外されるでしょう」 「ああ。いますね、そういう人。嗅覚が鋭く、パワーバランスを一瞬で見抜く目を持つ」  苦笑しながらうなずき、モニターの外側に違和感を感じた。  フォトフレームの中の写真が違っている。  最近は、くまのぬいぐるみのサネオミをバックハグして笑っている、佐和の写真を入れていた。  それが今は、人間の眞臣(さねおみ)をバックハグして笑っている、佐和の写真にすり替わっていた。 「サネオミ違いだ」  今朝、佐和が俺を背後から抱き締めて、スマホのシャッターボタンを押していたのは、こういう訳だったのか。  つい緩んでしまった口許を手で隠す。 「周防社長、聞き取れませんでした。申し訳ありませんが、もう一度おっしゃっていただけますか」  大門氏の柔らかな問いかけに、俺は背筋を伸ばした。 「すみません、独り言です。失礼しました」  気持ちを入れ替えようとデスクに手を伸ばし、キッチンからコーヒーを持ってくるのを忘れたことに気づいた。  ないと気づくと、いっそう飲みたくなる。  いつもなら、佐和に助けを求め、そっとコーヒーを差し入れてもらうが、光島に佐和の気配を感じさせるのは絶対に嫌だ。  このメンツなら許されるだろうと踏んで、中座してキッチンへダッシュするタイミングを探した。重要度の高い議題が片づき、全員が息を吐いたところで、光島が口火を切った。 「失礼、1分間だけ席を外してよろしいでしょうか」 「あ、俺も。コーヒーを持ってきたいです」  マイクをミュートにしようと手を伸ばしたとき、デスクの上にコーヒーを満たしたマグカップが置かれた。 「うわっ、びっくりした!」 「そろそろコーヒーが飲みたい頃かなって思ったんだ。お疲れ様」  洗いざらしの髪をさらさら揺らしながら、佐和は微笑む。  俺はすぐに光島の姿を確認したが、すでに席を外していた。 「佐和君かね?」  教授の問いかけに、俺はヘッドセットの片方を佐和に渡した。 「ご無沙汰致しております、佐和です。周防がお世話になっております」  学生のような笑顔で教授に挨拶し、大門氏にも会釈をする。 「佐和君も、周防君と一緒に、元気にやっているようだな」 「はい。おかげさまで」  俺は椅子を佐和に譲り、その背中に隠れてスマホを操作して、会議を構成する四人のトークグループにメッセージを送った。 『佐和に光島氏の名前は出さないでください。光島氏は姿を見せないでください』  教授は佐和の学生時代を懐かしむ笑顔のまま、ほんの数分、佐和と会話を楽しみ、さりげなく、しかしわかりやすく切り上げた。 「佐和君の元気な顔を見れてよかった。近々学会で東京へ行くから、もし都合が合うようだったら、食事でもご一緒しよう。では、また。ごきげんよう」 「教授のお顔を拝見できてうれしかったです。学会のスケジュールが決まりましたら、教えてください。店を探します。今後も周防をよろしくお願い致します。ごきげんよう」  佐和はヘッドセットを俺に返し、片手を上げてハイタッチして、俺の書斎から出て行った。  俺好みの深煎りのコーヒーを飲んで口を湿らせてから、カメラに向かって頭を下げた。 「突然の飛び入り参加を失礼致しました」 「いやいや、久しぶりに佐和君と話ができてよかった」  教授は機嫌よく、大門氏も穏やかだった。  静かに画面に戻ってきた光島も、穏やかな表情をしていて、心中は量りかねる。

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