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舟に乗る 第1話

「……なあ灰簾。いつか俺が選択を間違ってたって気づいたら、……俺を殺してくれ」  俺は自分の年も誕生日も知らない。でもこないだ成人が持つ身分証明書を申請して、今日それを手に入れた。そろそろないと不便だろうと言って、五年前から一緒に旅をしている琥珀が知り合いのメルーというやつに頼んでくれた。俺は孤児だけど、この大陸では孤児でもお金を払えばもらえるんだと言う。  俺は身分証にちらりと目をやる。それに書かれた俺の出身は、<赤き海の大陸(マーレ・ルーブルム)>となっている。火山の多い海に囲まれた海洋王国。今俺たちがいるところだ。  俺は自分の出身は<黒き石の大陸(ニーグルーム・ラピス)>ではないかと思っているが、あそこは五年前俺が人を殺して逃げ出してから帰っていない。  この大陸にたどり着いたのは一年くらい前だが、琥珀にはここでの知り合いが多いし、顔立ちも似ているひとが多いし、おそらくここの出身なのだろう。エトナ、と他のひとからはここの名前で呼ばれているし。石の名前は石の大陸での通り名か、あちらの血も引いているのかはわからないけど、琥珀は彼が俺に名乗った名前だから、俺はそれを使い続けている。 「琥珀」  俺は寝台の縁に腰かけて、そこに横たわったままぼんやりしている彼に声をかけた。 「今日、メルーから身分証をもらいましたよ。ありがとう」  琥珀は視線だけちらりと寄越したが、まだぼんやりとしている。こっちは立派な大人だと言われたみたいで嬉しくてたまらないのに。 「元気ないですね?」  俺が言うと、手が伸ばされて寝台に引きずりこまれた。これで、まったく子供だとしか思っていないのだから困ってしまう。  腕枕をして、ぽんぽんと頭が優しく叩かれる。すっかり俺だって同じくらいの体格なのに。猫を膝に乗せているくらいの気持ちだろう。大きめのペットくらいのサイズだったころから、ずっとこうやって寝ているから。  それでも弱気になったこのひとに、甘えるように体を寄せられるのが俺は嬉しくてたまらない。 「なあ灰簾、おまえならどうする?」 「なんですか?」 「たとえ話だ。たとえば、五人の人が海で溺れてるんだ。おまえがさ、小舟に乗ってて、五人を助けに行く。でも途中でもうひとり溺れてる。小舟はおまえも入れて六人乗りだし、そのひとりを助けていたら他の五人は間に合わない。おまえはそいつを助けるか、見捨てるか?」  琥珀はきっと、たとえ話ではないことで顔を曇らせている。だとしても俺が答えるのはたとえ話に対してだ。 「……それは、助かるひとが多い方がいいような気がしますけど……だけど、そのひとりがあなただったら、間違いなくあなたを助けますよ、琥珀」  俺は、そのときの自分を想像しながら言った。 「まあ他にもメルーとか、知り合いだったらそちらを優先するかもしれませんね。特に知り合いじゃなかったら、多い方になりそうですけど」  俺の答えを聞きながらも、琥珀は厳しい顔をしたままだった。 「ああ、違うな。これだとお前には救うか、救えないかの選択肢だ。俺が聞きたかったのはもっと積極的な死を与えることかもしれない。もし、俺がひとりじゃなくてもうひとり、太ったやつと舟に乗ってて、そのひとを突き落としたら代わりに二人助かる。その場合俺はそのひとを殺していいか」  長くなった俺の髪をぼんやりと指でもてあそびながら彼が聞く。そんなこと、あなたはとっくの昔に決めているはずなのに。時折我に返って弱気になるのはなんなんでしょうね。 「俺の答えは同じですよ。あなたが助かればいい」  俺は半身を起こして、琥珀の瞳を覗き込んでそう言った。大人になって気づいたけれど、彼は案外揺らぎやすい。そういう彼の揺らぎやすいところも、好きだけど。 「……俺も、多分そうだ、誰がそこにいるかが俺にとっても一番重要だと思う。だけど、俺は助けられる立場にいるやつが知らないやつで、死んだひとりが俺にとって大切な人間だったら、俺はそいつに怒りを感じるよ……まったく、同じことなのに。だけど、俺は同じことをするんだ」 「知ってますよ」  俺はそんな、自分勝手なあなたが一番好きだと何度も伝えてきているのに。  俺の髪を撫でながら、彼は言う。 「……なあ灰簾。いつか俺が選択を間違ってたって気づいたら、……俺を殺してくれ」  俺は、彼に馬乗りになった。 「俺は、あなたは殺さない。百万人見殺しにしてもあなたひとりを取ります。あなたがこれから百万人殺す殺人犯でも、あなたは殺さない」  俺に組み敷かれた形の琥珀から、ため息が漏れる。 「……ちゃんと、自分で考えろよ」 「考えてます。それでこの結果が気に入らないなら、そもそも俺をあなたの相談相手にするのはやめてください」 「……おかしいな。俺を殺せるガキを拾ったつもりだったのに」  呆れたような笑みの混じった再びの吐息。あなたがそのつもりで俺を拾ったのはわかっている。だけど、俺はそれには乗ってやらない。 「あなたが、自分が正しいかどうか、俺に任せようとするのがいけないんです。自分で決めてください」 「ああ、……そうだな」  琥珀の澄んだ碧玉の瞳がゆらめいた。 「ところで、琥珀」 「ん?」 「俺は成人になったでしょう?」 「ああ、身分証か」 「だから、キスしていいですか」  俺はそっと指先で琥珀の唇に触れた。

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