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第1話

 雨粒を転がす窓の向こう。藍色の海岸線。晴れた日に臨める真っ青な世界とは異なる海の風景を、橋上(はしがみ)は無感動に見つめる。ぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られながら。  人件費を削減したとしか思えない一時間に三本というバスの本数は、利用客にとってみれば迷惑なものでしかない。通勤通学時間になると戦場のようだ。晴れているときはまだいい、問題は今日みたいな雨の日だ。  普段は自転車を使う学生も、雨の日はバスを利用する。だからいつも以上に窮屈で、身動きが取れなくなる。しかも誰も彼も大きな傘を持参している。傘の先端が足に当たると痛いというのは経験上知っているのに、橋上は毎回違う人の傘に足を突かれてしまう。断じて自分が鈍感だからではないと思いたい彼だが、こうも毎回違う人に突かれると、その自信も揺らいでしまう。  今日こそ気をつけようと心に誓う橋上だったが、早速足を突かれたらしい。 「痛ぇ」    * * *  雨の日の柚木(ゆのき)は機嫌が悪い。制服が濡れるのが嫌だからとだぼだぼのレインコートを纏って、鞄と革靴には何度も何度も防水スプレーをかけて、自分が三人くらい入れそうな大きな傘を持ち歩く。すし詰め状態の湿度七十五パーセントはあるであろうこの閉塞的な箱の中で彼はいつか窒息死してしまうのではないかと本気で心配している。だけど雨の日は自転車に乗れないから、仕方なくバスを利用する。  半透明のレインコートにつく雨粒は乗車前にぱたぱたとはたいて落とす。傘についた雫も一緒にはたく。それが雨の日の儀式。  ぎゅうぎゅう詰めの車内では他人の水滴が自分に被害を及ぼさないよう大きな傘でカバー。傘を左右に振ったり上下に突いたり……あ。突いていたら、痛ぇ、って声が背後から聞こえた。何だろ?  柚木はふてくされた表情で振り返る。 「あし、足……っ」  視線を床に向ける。尖った傘の先が乗客の靴を容赦なく突き刺している。さすがに貫通はしていないが、これはかなり痛そうだ。顔を真っ赤にして謝る柚木。 「……あ、すいません」 「謝る前に傘をどかしてくれ。痛い」  慌てて傘を動かし、これで大丈夫ですか? と不安そうな表情を向けた少年に、苦笑を浮かべたまま頷く橋上。 「平気だよ。それより、すげー格好だな、お前。そんなに濡れるのが嫌か?」  完全防水スタイルの柚木は、これが雨の日の格好だと信じきっている。だから目の前の少年に「すげー格好」と言われてもどこがどう「すげー格好」なのか理解できないでいる。  首を斜め四十五度に傾けたまま戸惑っている少年を見て、橋上は自分が何か困らせるようなことを言っただろうかと自分の言動を反芻する。それだけ目の前の少年は真剣に悩んでいるように見えた。だから、ただ濡れたくないだけなんだろうと一人で納得して、話を打ち切ろうとすると。  ピンポーン。濃い紫色のランプが鳴らされた音と共に灯る。目の前の華奢な少年が背伸びして、ブザーを押しながら、橋上を見つめながら。 「溶けちゃうからだよ」  瞬きすることなく、淋しそうに呟く。 「はい?」  ……溶ける、って何が?  バスの回数券を取り出し、無邪気に「ひぃふぅみぃ」と数えている少年の後姿を呆然と見つめる橋上。だが、彼はもう、橋上の方を見ようとしない。  バスが停車する。同じ制服を来た私立高校の学生たちがぞろぞろと降りていく。後を追うように柚木も降車する。レインコートのフードをすっぽり被って。  学生たちが降りたことで、バスの中に空間が生まれる。橋上は窓際に移り、レインコート姿の少年を目で追う。  バスが停留していた時間はほんのわずか。その間に橋上が見たもの。それはやけに骨の数が多い黒い傘。  少年が咲かせた傘の花。小柄な彼には似合わない、大きすぎる紳士用の蝙蝠傘。父親のものだろうか?  バスが走り出し、やがて黒い傘は見えなくなる。だが、橋上は興味を覚える。 『溶けちゃうからだよ』  少年が残した思いがけない言葉。冗談かもしれない。だけど、その時に見せた淋しそうな表情、口調がそれを冗談として捉えてはいけないと感じさせる。まるで、助けてという悲鳴を押し殺しているみたいで。  偶然、バスで乗り合わせただけの少年だ。もう二度と会うことはないかもしれないのに。どうしてだろう。もっと話をしたい、彼のことを知りたいと、胸が騒ぐのは。

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