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第6話
「ごめん、なさいっ!」
こうなることを願っていたくせに。怖気づいたみたいに、柚木は楢原から差し出された手を振り払う。
もし、この手を選んだら。楢原に自分の名前を呼ばれつづけることを甘受したら……
自転車を運転してくれた橋上と晴れ渡る空の下で笑いあってドキドキした思い出が、脳裡に蘇る。
ずっと欲しい欲しいと希っていた大好きで大切な人のぬくもりを、与えられることを、柚木はあっさり放棄した。それがほんのいっときの気まぐれであろうとそうでなかろうと、もう、柚木にとって魅力がない誘惑だと、わかったから。
もしかしたら、楢原はそれすら、知っていたのかもしれない。自分が好きだ好きだと口にした感情が、恋と呼ぶには稚拙すぎたということを。
呼べ、と言われて、柚木が口にしたのは楢原の下の名前ではない、別の言葉。
「おにいちゃん」
小さい頃からずっと彼のことしか見えていなかったから、柚木は勘違いしていたのかもしれない。だから、楢原を困らせるようなことばかり言って、いつも気にかけてもらいたいなんてわがまま言って、結局自滅してしまうのだ。
「好き、って気持ちは、本当です。けど」
耳元まで真っ赤にして、柚木は楢原に告げる。自分の、自分ですら今までよくわからなかった気持ち。今まで心の中で燻っていた違和感が首をもたげる。
「なんか、違う……」
「それでも、それがゆのきの正直な気持ち、だろ?」
「ごめんなさい」
なんで謝るの? と、楢原が笑う。彼はすべて笑って許してくれる。今も昔も変わらずに。理由がわからないまま、涙が零れる。それは降り始めの雨のよう。
淡青色の空が、いつの間にか灰青色へ変化している。雨だ。早く帰れよと楢原が窓を指さす。こくり、目を真っ赤にしたまま、頷く柚木。
「先生、また明日ね!」
虚勢を張って、笑顔を見せて、手を振って。
生物室を飛び出す柚木の背中を、見送る楢原は、弟を見守る兄の顔から教師の顔に戻して、応じる。
「明日な」
そして、ひっそり願う。
どうかこの雨がやむ頃には、彼の涙もひいているように、と。
* * *
泥臭さと青臭さを春風がかき混ぜて空気に香りづけをしている。雨の匂い。雷の轟音。
柚木は、空から垂直に伸びた白い線を呆然と見つめる。そういえば今日は自転車で来たんだった。これじゃあどうあがいても濡れてしまう。でも、楢原の元にはもう戻れない。戻らない。
通り雨だから、すぐにやむだろう。柚木は、涙で濡れた頬を両手で拭いながら、駐輪場へ急ぐ。既にサドルは雨粒に包まれ、きらきらと輝いている。また、雷。その普段なら忌むべき光景を、なぜか綺麗だと柚木は感じる。
どうせなら。
自分がこの雨で本当に溶けてしまえばいいのにと自虐的になって、雨の中自転車を漕ごうとしたら。
――水色の、小さな傘を被された。
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