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[きぬ]

 日増しに勢いに乗る夏の日差しと常連さんの熱烈なリクエストに後押しされて、『フロートはじめました』の貼り紙を海側の入口に掲げた。  ここは東京に程近い温泉地。観光ホテルのフロント横にあるレトロな喫茶店が僕のアルバイト先だ。今どきのコーヒーショップとはひと味違う昭和テイストのカフェで、盛夏の涼をとるのはかき氷の仕事、初夏はソーダフロートで湿度を吹き飛ばすのが流儀。 「衣笠、そろそろ時間だろ。今日はタヌキのお迎えアリ?」  タイムカードを通した高野は、キッチンの隅でギャルソンの紐を結んでいる。 早番の僕がそろそろ退勤、ここから夜までは同じ大学、同じ寮に住むバイト仲間の高野のシフトだ。 「タヌキって。綿貫が聞いたらまた膨れるぞ」  迎えと言っても綿貫の愛車はママチャリなので、快適とは言い難い。ましてや、今日みたいに暑い日は、こんな真昼間に急いで帰る理由はない。  洗ったままになっていたグラスを拭き上げていると、高野が冷凍庫を開けながら呟いた。 「最近、海外からの団体さんが多くなったよな」  そうかも。今日、ランチに来たのも英語圏の人たちだ。 「もともと結構な数、来てたけどな。オリンピック前だから尚更かなぁ」  英語以外の言語もたくさん聞こえる。僕らの大学の留学生達はホテルで働くと同時に通訳として大活躍。この温泉街の活況に一役買っている。  世界中を訪れている旅慣れた人でも日本のしきたりはなかなか把握しきれないらしく、日本人には『マナーが悪い』と思われることもしばしば。一方、一部の日本人観光客も現地のマナーが解らず、海外でもチップも払わずにあれこれ頼むので、観光地では結構嫌われているらしい。無知が引き起こすトラブルなら、教えておいてくれたらおかしな恥をかかずに済むし。わざと悪いことをしているのではないのだから、せめて怒らないであげらたらいいのにね。  屈んだ拍子にポケットの中の紙包みがカサリと鳴り、僕は、今朝ひとりで店番をしていた時に起きた出来事を思い返した。 「なんだよ、衣笠。ニヤニヤしてるぞ」  ふふふふふ。  今日はちょっとだけ良いことがあったんだ。言いたいけど言いたくない。ましてや、高野ごときにはわざわざ言う話ではない(帰ったら綿貫には話す)。  今朝、ホテルのフロント前で困ってる人の手助けをした。そしたら、なんとチップをもらった♪   僕のポケットに、小さなコイン用封筒に入った500円硬貨が一枚。  ――お金がもらえて喜んでいるんじゃないぞ、喜んでもらえたことが嬉しいのだ。  その人たちは観光で滞在しながら、今回スケジュールが合わせられなかった友人に見せるためにムービーを取ってネット配信しているんだって。ホテルの前の海は人が多くて、いろいろな音を拾い過ぎて、聞き取りにくい動画になってしまう。それで、静かな海辺を求めて周辺地図を読み込んでいた。  僕には幸い『静かな海辺』の心当たりがあった。去年、綿貫が日光浴に連れて行ってくれた場所だ。あそこしかない! タクシーを呼んで、運転手さんに場所を伝え、送り出した。  見送ってから、ふと思う。『あれ? あそこって、もしかして秘密にしなきゃいけなかったか?』 一時間ほどしてホテルに戻った彼らはとても喜んでくれて、喫茶店で昼食を取り、連泊中の部屋に戻る間際に、僕に感謝の言葉と共にこの小さな封筒を握らせた。  この包みは感謝の気持ちの表れだ。とは言え、綿貫の秘密のスポットを勝手に教えてしまったので、ちょっと心苦しい。この手柄は僕のものではない。だから、この500円玉も僕のものではない。  これを有効活用して、綿貫に何か御馳走しよう!  さて何を買おうか。訳も話さずに奢ってやるのでは、最近アルバイトを始めて自分の手であいつは意地になって受け取らないだろうなあ。  カランコロン……  海側の重い扉が開くと合図のベルが鳴った。  噂(?)をすれば綿貫! 「あっちー! 衣笠、もう帰る?  外のフロートの貼り紙につられちゃったよ。まだ"冷やし中華始めました"にはつられてないのに。かき氷には早いけど、クリームソーダのドアップはズルいだろう!」  嘘だろ、プロテインLOVEな綿貫がクリームソーダの写真で釣れた……。 「お前は『糖質の塊は敵だ』とか言って全否定するのかと思ってたよ」 「そりゃあ栄養的には空っぽだよ? でもこの蒸し暑さ! コイツを成敗しないとやってらんないじゃないか」  綿貫は空いている店内を見渡し、窓際のボックス席に座ると、卓上のメニューを団扇にしてパタパタ頭を扇いでいる。 「無性に飲みたくなったんだけど、ひとりで飲むのやだよ。メロンは糖質が多過ぎるな、コーヒーフロートはブラックに出来る?  もう2時過ぎただろ? 衣笠、着替えて来いよ。クリームソーダ飲もう?」 「おう! 待ってろ、すぐ来るから」  よしよし、それではその、君が、今、この瞬間に、ものすごく飲みたがっているフロートを、この500円でご馳走しよう。  綿貫に時間稼ぎの氷水とおしぼりを出して、そそくさとタイムカードを通した。  建物から一歩出ると、午後の海岸通りの日差しは噎せ返るように熱い。この暑い中、綿貫は僕を迎えに来たのか。どんなに鍛えていたって自転車の後ろに僕を乗せて坂道を登るのは大変な運動量だ。せめて出発は少し陽が陰ってからにしよう。  ひとまず今はひと涼みしよう。  糖質なんかを気にして本命を回避し、コーヒーフロートに妥協した綿貫の目の前で、貼り紙の写真とそっくりな透き通ったメロンクリームソーダを見せつけてながら飲もう。そして、秘密のスポットを教えたことを謝ろう。  ポケットの500円玉は、暖かくそして清涼に昇華して、喫茶店のレジに収まることになりそうだ。  私服に着替えた僕は、海側の重い扉を引いた。さっきと同じ来客を知らせる合図のベルがカランと店内に響いた。 「お前のフロート代、今日は俺が払うから。  黙って奢られて。な?」 < 衣笠が500円玉でごちそうする話 おしまい >

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