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心寄せる人 8

 どうして滝沢さんの胸の中は、こんなにも落ち着くのか。  どうして滝沢さんには、こんなにも素直に甘えられるのか。  今、彼に包まれるように抱かれて、こんな状況なのに……この人が今の僕の傍にいてくれることが有難くて嬉しくて……僕の方からも彼の背中に手を伸ばしてしまった。  一馬以外の人に抱きしめられるのは初めてで、心臓が爆発しそうな程に緊張していた。    ドクドクドク…… もう心臓の音が聞こえてしまいそうだ。  今日の事は四宮先生を警察に突き出せば解決する話なのは、頭の中では理解している。証拠も十分すぎるほど揃っていたので絶好の機会だったとも。  でも僕にはどうしても踏み切れなかった。  四宮先生には遅くに出来た小さなお子さんがいて、たまに奥様と活け込みの様子を見に来て、そのまま食事に出かけられる幸せそうな様子を見てしまったから同情したわけではない。  そう自分に言い聞かせた。  でも先生の人生を根こそぎ一気に抜いてしまうのではなく、根は残して……再生の余地をと思ってしまったのは事実だ。僕が今日滝沢さんに助けてもらったからなのか……僕は先生のすべてを奪えなかった。  この判断を甘いと言われても仕方がないし、滝沢さんにも呆れられてしまうのではと危惧したが、彼は僕の決断を尊重してくれた。  そのことが嬉しくて……ますます滝沢さんのことが好きになってしまった。  彼は押し付けない。  僕を僕らしく生かしてくれる人なのかもしれない。 「瑞樹……もう落ち着いたかい?」 「あっすみません、僕」 「いいんだよ。その嬉しかったしね……君の方から積極的に動いてくれるなんてさ」 「なんか恥ずかしい……」  慌てて滝沢さんの胸から離れると、彼は名残惜しそうに僕を見つめていた。 「どこか怪我はしてないか。その……無事だったのか」 「……大丈夫です」  もう忘れたい。あんな風に暴力的に股間を握られたなんて言いたくないし、知られたくなかった。  そもそも僕の方にも隙があったのが発端だったのだ。先生とお酒を飲みながら一馬のことばかり考えて最低だ。もうきっぱり別れたのに、本当に培った思い出って奴は厄介だ。一馬はいなくても記憶が僕を離さない。  この記憶を消すにはどうしたらいい?  塗り替えていきたいよ。 「瑞樹は少しも悪くない。自分を責めるな」  まるで頭の中を見透かされたようで驚いたが、嬉しかった。  滝沢さんは本当に僕の心に寄り添ってくれる人だ。  それが心地良かった。 「そろそろ落ち着いた? もう帰れそうか。今日は心配だから自宅まで送っても? 」 「あっはい……あのちゃんと僕の連絡先を伝えさせてください」  滝沢さんのことを信用してなかったわけじゃない。でも一馬と別れてすぐにプライベートなことを明かす気持ちに踏ん切りがついてなかっただけだ。 「いいのかい?瑞樹が負担になるのなら無理するな。今日みたいに君から俺に電話をくれたらいつでもすぐに駆けつけるよ」 「スーパーマンみたいですね。その……ありがとうございます。あの……今日の滝沢さんすごく格好良くて……」 「少しは惚れてくれた?」 「あっ……はい」  思わず即答してしまった。だって事実だから。  答えながらきっと今自分の頬は真っ赤なんじゃないかと思い、滝沢さんのことをチラッと見ると、彼もまた赤くなっていた。 「参ったな。瑞樹……俺、高校生に戻ったようなピュアな気分だよ。君の一言に舞い上がってクラクラするよ」 「そんな……」  **** 「本当にひとりで大丈夫か」  マンションの玄関先まで滝沢さんが送ってくれた。 「あっはい、それより芽生くんのお迎えが遅くなってしまってすいません。僕のせいで」 「そんな風に言うな。俺は今日瑞樹を助けることが出来て最高に気分がいいんだから。それから芽生は俺の実家にいるよ。もともと今日は週末だからそのまま泊まることになっていた。だから君を夜のデートに誘ったんだよ」 「あっそうだったのですか。あの……来週の金曜日なら空いてます」 「嬉しいな。もちろんいいよ。でもその前に明日はどう?芽生と遊園地に行く約束をしていて……一緒にどう?気晴らしになるかもしれないよ」 「あっはい。僕でよければ」 「よしっ初デートだな。明日迎えに来てもいい?芽生と一緒に」 「もちろんです」  彼は本当に嬉しそうに破顔した。  温かい笑顔を浴びて、僕の気持ちも浮上する。  滝沢さんはすごく大人な雰囲気なのに、僕と話すときはまるで子供のように無邪気な顔をしてくれる。バス停で会った時は、僕とは違って都会的でスマートな人だと思ったのに、印象がどんどん変わっていく。 「はぁ……やっぱり君を一人にするのが心配だよ。もう今日のことは忘れて早く眠るんだよ」 「分かりました」 「何かあったら何時でもいいから電話して」 「はい……ありがとうございます」  もう一度だけと……僕の方から滝沢さんに軽く抱き着いた。本音を言うと一瞬でもいいから、滝沢さんの温もりが恋しかった。 「瑞樹……?」 「おやすみなさい」  でも甘えすぎないようにしたい。  一度甘えると癖になってしまうから。  そう自分を戒めた。  心配そうな眼をした滝沢さんが帰って行く背中を、静かに見送った。  彼からは……明日への希望をもらった。    

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