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心寄せる人 9

 バーの個室で瑞樹を抱擁した時、俺がすっぽり包み込めるサイズの彼のほっそりとした躰付きに欲情したことは正直に認めよう。だから一気に理性が吹っ飛びそうになって焦ってしまった。  このままキスしたい。そんな欲求が飛び出そうで抑え込むのに必死だった。でも瑞樹の方から背中に手を回してもらった時に、はっとした。  この信頼を裏切りたくないと心に決めたのだ。  あーでもやっぱり拷問だよな。まさかこの歳になって、この俺が、こんなにも禁欲的な恋に堕ちるとはな。  人生は分からない。  だから面白い。  これは俺が生まれ変わる最大なチャンスだ。  そう捉えられれば、乗り切れるのか。  何となくいい加減に生きて、いい加減に結婚してしまった俺だが、息子の芽生がこの世に生まれた時に改心した。小さな命の息吹に触れ……この子のためにもこれから先の人生は恥じないように生きようと誓った。だが玲子ととのズレは既に時遅く修復不可能な所まで来てしまっていたので、そのまま破局した。  離婚して冷静に俺の人生を見つめ直した時、今までは見えていなかった原っぱに咲くシロツメグサの花に目が留まった。  白くて儚げなのに生きようとする生命力を感じた。  五月の薫風に撫でられる大地のように、これからはおおらかに自然に……息子と共に生きていこうと誓った。そして……願わくば今の俺を受け入れてくれる人と出会えたらとも思っていた。  そんな中で見つけたのが瑞樹だった。  最初は……彼は既に人のものだった。  だが……今は違う。  少しは私に好意を持ってくれているのか。  それだけでも少年のように胸が高鳴る。  別れ際に、瑞樹の方から軽く抱きついてくれた。  もしかして君も名残惜しいと感じてくれたのか。  それにしても、やっぱり心配だ。  瑞樹は何も語らなかったが、何かあいつに危害を加えられたはずだ。  そんな瑞樹を今宵一人にしてもいいのか。  さっきは自分の理性を保てるか自信がなくて一歩踏み切れなかったが、心残りの方が大きく、自分のマンションへの足取りは重たかった。  彼のことが心配でたまらない。  瑞樹はもう、こんなにも俺の心を占めている。  すると胸元のポケットのスマホに、着信があった。 ****  滝沢さんの背中が見えなくなるまで玄関先で見送った。  彼は曲がり角で僕の方を振り返ってくれ、早く部屋に入るようにジェスチャーで伝えてきた。その笑顔が優しくて心が和んだ。  ところが玄関のドアを閉めると一気にテンションが下がってしまった。  この部屋は一馬と僕が就職してすぐに二人で選んだ物件で、入ってすぐ左が一馬の個室で、右が僕の個室になっている。でも今は左の部屋には荷物ひとつなく、フローリングが剥き出しになっている。僕の部屋には愛を重ねた広いベッドが置かれたままだ。  ベッド……早く買い換えないとな。  一人じゃ広すぎだし……お前との思い出が色濃く染みつき過ぎだ。  よろよろと靴を脱いで、とりあえず早く着替えたいと思った。  四宮先生に触れられた部分が、今になってまた気持ち悪くなってきた。  滝沢さんと一緒にいた時は忘れていたのに……正直このスーツもネクタイも、もう二度と見たくない。  大事(おおごと)にしたくなかったし、根こそぎ人の人生を奪いたくなくてああいう判断になったが……でも……さっきは強がってしまったが、先生からされたことはやっぱり不快で恐怖でしかなかった。  更にスーツを脱ぐ動作をした時に、強く掴まれた股間部分がズキっと痛んだ。 「痛っ……」  こんな場所を……あんな風に扱うなんて酷い。  それから壁に押し付けられて舐められた首筋が気持ち悪くて、急いで顔を洗った。顔に水しぶきがあたると誘発されるように、涙がポロっとまた零れてしまった。顔を洗うだけではすっきりしなくて、シャワーを急いで浴びた。  股間の部分が少しうっ血しているのが鏡に映り、バスルームの床に泣き崩れた。  男として……  男としてのプライドが揺らぐことをされた。  今日は沢山泣いてしまったな。  悲しくて出る涙。  痛くて出る涙。  悔しくて出る涙。  滝沢さんが助けに来てくれて……本当に嬉しかった。  僕の呼ぶ声が通じたのか、あんな風に颯爽と現れてくれるなんて……格好よかったな。  「滝沢さん……」  ほっとして出た涙。  嬉しくて出た涙。    涙の理由は様々だ。  今日一日でいろんな理由の涙を流した。  そして今僕の眼からこぼれる涙の意味はなんだろう。  もしかして……滝沢さんのことが恋しい涙なのか。  もういない……一馬の部屋は見たくなくてドアを閉めた。それから思い出が枷のように積もったベッドで眠りたくなくてリビングのソファで、濡れた髪のまま毛布に包まった。  もう眠ろう。寝てしまえば、嫌なことは忘れられるだろう。  明日のことを考えて、楽しいことを考えて……  けれども……次から次に思い出すのは化粧室での出来事だった。まるで映画のワンシーンのようにそこばかりリピート再生されて躰が小刻みに震えた。 「ううっ……」  ダメだ。やめておけ!  僕は……どうしてわざわざ嫌な記憶をこじ開けてしまうのか。  恐怖で躰が強張り、ひきつってくる。  今日はひとりでいるのが怖くて溜まらない。  呼吸がどんどん浅く早く苦しくなっていく。  だからスマホを開いて滝沢さんの番号を見つめて……どうにか心を落ち着かせようと努力した。    

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