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分かり合えること 6
寝袋の中で、ずいぶん早く目が覚めてしまった。まぁ花の仕入れで早起きは当たり前だし、いつもならとっくに函館花卉卸売市場にいる時間だ。でもここは東京……弟の瑞樹の家なんだよな。
そっと瑞樹の部屋を覗くと、まだぐっすりと眠っていた。ベッドの端っこでタオルケットに包まり丸まって眠る姿に、幼い頃の姿を彷彿する。
小学生だった瑞樹を励ますように添い寝したこともあったよな。両親を十歳で亡くした瑞樹は強がりな所もあって、潤の手前もあってか……俺の母に甘えるわけにもいかず、寂し気な瞳を時折浮かべていたんだよな。そんな日は必ず夜中にうなされて飛び起きてしまうのを知っていた。双眸から涙を溢れさせ薄い肩を震わせ、声を殺して泣く姿が気の毒だった。だからそんな時は俺が一緒の布団で寝てやった。
(瑞樹、暑くないか)
(大丈夫……兄さん……ありがとう。人の肌って温かいね)
まどろみながら、ませたことを言う弟がとても可愛かった。この不幸な弟が幸せになるためなら俺は努力を惜しまないと誓ったのも、その頃だ。
だがそれはもう遠い昔の誓いだ。もう瑞樹は26歳、俺が守ってやるような歳じゃない。それに18歳で家を出てから一人でちゃんと暮らしているのだから大丈夫のはずなのに。久しぶりに会った瑞樹があんなに痩せていなければ、こんな部屋にひとりで寂しそうに暮らしていなければ……ここまで気になることは、なかっただろうに。
それにしても独りで眠るには広すぎるベッドだな。瑞樹……何故セミダブルなんて買ったんだ?やっぱり同居していたのは女だったのかと再び怪しんでしまう。
さてと確か瑞樹は今日は7時前に家を出ると言っていたよな。俺がとっておきの朝食でも作ってやるか。スズランの花は朝一番の飛行機で空輸されてくるから、それを式場に収め、俺自身も花組合の研修に出て、夜は瑞樹の活け込みを見学でもするか。
今日はどうやら忙しい1日になりそうだと、大きく伸びをしながら思った。
しかし冷蔵庫を開けて驚いた。何だよ。ほとんど食材が入ってないじゃないか。そうか瑞樹は料理からきし駄目だったな。全く一体何を食べて生きているんだか、心配になるな。あれ?でもその割に調理道具は充実している。大きなフライパンに卵焼用のまで……土鍋も立派なの持ってるな。成程これは一緒に暮らしていた男が余程料理が得意だったのか。
「うーむ」
この空間で瑞樹が俺の全く知らない男とふたりで暮らしていたのを想像すると、何故だか心がモヤッとする。しかも瑞樹を中途半端に放りだして消えちまうなんて薄情だな。
もし会ったら、お前のせいで俺の弟は餓死するところだったぞ!と文句を言ってやりたい所だ。
もう一度冷蔵庫を開けると卵を見つけた。近くにはコンビニの食パンもあった。でもせっかくならもっと栄養があるものを作ってやりたい。せめて缶詰でもないかと勝手にキッチンの吊戸棚を開けると、ひらりと白い紙が落ちてきた。
んっ……なんだこれ?何か書いてあるようなので、戻しておかないとまずいな。
……
瑞樹は俺にとって、ずっと水のような存在だった。
瑞樹を抱けばいつも乾いていた心が潤った。そしていつも抱くと花のようないい匂いがして心地良かった。
だが俺はもう二度とお前を抱けない。水をやれない。
だけど……瑞樹は水を忘れるな。
君を置いていく俺を、恨んでくれ。
おこがましいが……どうか幸せになって欲しい。
……
軽い気持ちで手に取り、その文章を辿って、のけ反るほど驚愕した。
なっなんだ……これはどういうことだ?
これ……男からだよな。おいっ『瑞樹を抱くと』って一体どういう意味だよ!まっまさか瑞樹、同居人だった男って……お前の恋人だったのか。そんな……信じられない!
ずっと大事に育ててきた弟が……いつの間に……男と寝ていたなんて、嘘だろ?
昨日クローゼットの残された忘れ形見のような同居人の荷物に、焦って赤面していた瑞樹の表情を思い出すと、この推測で辻褄があうってことか。
流石に肝っ玉の据わった俺でも動揺を隠せない。どうしたらいいんだ。俺はこの事実をどう受け止めたらいいのか。元の場所に手紙を戻し冷蔵庫にあった冷たい水をゴクゴク飲むと、さぁーっと変な汗が流れてきた。
「兄さんおはよう。ごめん……寝坊したね」
背後から寝起きの瑞樹の声がして、ギョッとした。
今すぐ問いただしたい気持ちを、ぐっと抑え込んだ。
瑞樹は今日は大事な仕事を任されていると言っていたから……初めて挑戦するフラワーデザイナーの仕事だと夢を語ってくれた明るい笑顔を前向きな気持ちを……今この俺が潰すわけにはいかない。
だからぐっと……ぐっと我慢した。
聞くのは今じゃなくてもいい。
瑞樹の精神を、追い詰めるつもりはない。
だが兄として大事な可愛い弟が男に抱かれたというのは……かなりショックで受け止め難い事実だった。
「兄さんどうしたの?顔色悪いよ。どうして寝袋に?一緒のベッドで寝てくれて良かったのに」
「いや、お前のベッドはふかふか過ぎて慣れなくてな」
「だからって硬いフローリングの上じゃ躰が痛くなったんじゃ……兄さんだって今日は大事な研修なのに本当に大丈夫?」
何も知らない瑞樹が優しく手を伸ばし俺の背中を労わるように擦ってくれたので、妙に焦ってしまった。
「おっおう!俺はこの通り大丈夫だ。それより朝食作ってやるから、先に顔洗って支度して来い」
「うん!なんだか懐かしいね。函館の家に戻ったみたいだ。いつも兄さんが料理担当だったし」
「あぁ俺の腕が良すぎるお陰で、瑞樹の腕は全く上達しなかったな」
「酷いな。でも懐かしい……僕はその分掃除が得意になったよ」
瑞樹はまるで昨日泣いたことを忘れたかのように、ニコっと笑ってくれた。その笑顔が可愛くて、やっぱり何があっても大事な弟なんだと実感した。
しかし……それとこれとは別だよな。
ううぅ参った。朝から衝撃的過ぎだ。
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