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実らせたい想い 9
「え……ですが」
「さぁ、こちらよ」
突然現れた年輩の女性の一言が胸に刺さった。
(放っておくと、心のシミになってしまうわよ)
確かにこのシミがついている限り、先ほどのことを思い出して嫌な気分になるだろう。 なので思い切って後ろをついて行くと、一軒の店の暖簾を潜ることになった。
どうやら、ここは和装屋のようだ。
「こんにちは~」
「まぁ暁夜さん、待っていたわ~。あら? 可愛い男を連れて、一体どうしたの?」
「あのね、この男性のスーツのシミ……落とせるかしら」
「どれどれ……まぁ派手に。これは可哀想ね」
僕のスーツのズボンを、険しい顔で呉服屋の女性が見つめた。
「コーヒーをこぼされたのね。肌は大丈夫だった? 火傷はしていない?」
「あっ……はい、ぬるいコーヒーだったので」
「はたして不幸中の幸いか確信犯なのか……びっくりしたでしょう」
僕を連れてきてくれた暁夜さんという女性も眉間にしわを寄せた。僕の打ちひしがれた様子から、誰かに故意にかけられたと察していたらしい。
何だか恥ずかしいな。僕はそんなにわかりやすいのかな。
「そんな顔をしなくても大丈夫よ。ちゃんと落としてあげるわ。これ大事なスーツなんでしょう。この和装屋さんはしみ抜きの腕利きよ」
「そうなんですね。助かります。あの……先にお代を払いますので」
「いいのよ。私の奢りよ」
「そんな訳には……」
何で……見ず知らずの僕にそこまで?
意図が分からず、困惑してしまった。
「そうね。では、しみ抜きを待つ間、一つ頼まれ事をいい?」
「えぇ、もちろんです」
「実はね、私はこの和装屋のショーウインドーに生け花を生けるために来たの。でも私は今少し腰を悪くしていて立ったり座ったりが大変なの。だから手伝っていただける?」
「あ……はい!僕でよければ」
偶然にしては嬉しい頼まれ事だった。アシスタント業務なら慣れている。
「さぁさぁ早くズボンを脱いで~脱いで」
和装屋の女店主がワクワクした顔で近づいてきたので、驚いてしまった。
「やだ、狙われた子羊みたいな顔になっているわよ」
「あ、いえ。これはその……」
結局……店の奥で浴衣を借りて着替え、手伝うことになった。
「あら、まるで学生さんみたいね。似合ってるわ~息子が高校生の時のだけれども」
僕はもういい年の成人男性なのに……苦笑いを浮かべてしまった。
「じゃあ任せてね。あなたのランチタイムには間に合うようにしてあげるから」
「ありがとうございます。本当を言うと、そのスーツは初任給で買ったものだから、大切でした」
「だと思ったわ。泣きそうな顔をしていたから」
****
「ではしっかり手伝ってね。私は森月流の師範なのよ。だからたまにこうやってお店の生け込みを頼まれるの」
「そうなんですね」
「まずは材料の名前を説明するわね。これは尾花(ススキ)。それからこっちが女郎花(オミナエシ)、さらに吾亦紅(ワレモコウ)と竜胆(リンドウ)と日陰蔓(ヒカゲカズラ)よ。難しい名前でしょう。さてさて……和の花の名前……若い男の子に覚えられるかしらね」
「大丈夫です。全て覚えました」
「そう? じゃあ日陰蔓を1本取って」
「はい」
僕は花のスペシャリストを目指しているので、和花の名前もだいたい頭に入っていた。
「次は女郎花を2本ね」
「はい」
「やるわね。男性にしては珍しい……うちの息子なんて全く興味なくてね。いいわぁ、あなたみたいな人を息子に欲しかったわ」
「そんな、花の名前を知っているのは、たまたまです」
「まぁ……謙虚なのね」
そのままアシスタントを続けた。
相手が望むことを察し汲み取り、先回りして準備する。しかし決して押しつけがましくないように……これはあの四宮先生からレクチャーされたことだった。あんなことがあったが、先生の教えは役立っている。
「阿吽の呼吸みたいで気持ちいいわ。あなたのアシスタントって素敵ね」
「ありがとうございます!」
「いいお返事よ」
兄と母からはいつもこう教えてもらっていた。
褒められたら謙り下り過ぎずに、まずは心から言葉で礼をするようにと。仕事もプライベートも……素直な心が一番だと教えてもらった。花に対しても人に対しても、変に斜に構えることなく……あるがままを受け入れろと。
「これで完成よ。どうかしら?」
「素敵ですね。まるですすき野原にぽっかりと満月が浮かんでいるようで、竜胆は湖のように静かな情景を誘い出していて、道行く人が満ちていく秋を感じ、ほっと和む作品だと思います」
「まぁ……素敵な優しい感想だわ、ありがとう『葉山瑞樹さん』」
突然フルネームを呼ばれて驚いた。
「え……何故僕の名を? あの……もう名乗りましたっけ」
「あなたで、良かったわ」
先ほど宗吾さんの前の奥さんに踏み潰された言葉が、突然息を吹き返した。
「あの……どうして僕の名を」
「フラワーデザイナーの葉山瑞樹さんでしょう」
「あなたは一体……」
女性は、たおやかに微笑んだ。
「私は滝沢宗吾の母です。つまり芽生の祖母よ」
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