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帰郷 9

 信じられない。いつもオレの顔色を窺っていた瑞樹の、前向きで明るい笑顔に少なからずショックを受けてしまった。  あんな表情するなんて。  やっぱりその隣に並ぶ男は……そうなのか。  瑞樹、その男を愛しているのか。そんな……  あんなにオレが触れた時は嫌がっていたのに、その男ならいいのか。  ふつふつと沸き起こるこの感情は何だ。オレはのこのこ東京までやってきて、こんな光景を見たかったのか。 「ありがとうございます。函館から帰ったら、それ、前向きに考えたいです」 「本当か。嬉しいよ」 「……はい、あの、僕でよければ」 「瑞樹だからだ。瑞樹だから来て欲しいのだよ」  階段を下りていく彼らの甘い会話だけが、残されたオレの耳に届いた。  瑞樹……函館に一度戻ってくるつもりなのか。  それは何のためだ? もしかしてその男とのことを告白しに?  最後に男が放った言葉が胸に刺さる。 『瑞樹だから来て欲しい』  オレは瑞樹と生活した8年間で、ただの一度もそんな言葉はかけたことはない。 『お前のせいで家が滅茶苦茶になった! お前さえ来なければ……』  そんなセリフしか吐かなかった。本当は……違ったのに。  瑞樹はあの親子の車に乗って、夜の闇に消えてしまった。  はっ滑稽だ。オレ馬鹿みてーじゃん。  函館でオレのモノのように扱っていた瑞樹は、もうどこにもいない。とっくにいなくなっていたのに……そのことに今更気付くなんて。  瑞樹がいない部屋の前で、暫く茫然と立ち尽くしてしまった。  駄目だ。上手く考えがまとまらない。オレだけ全然成長していないのが情けないし、阿保らしい……怒り、戸惑い……あらゆる感情が渦となる。  宿泊先のビジネスホテルに戻ると、すぐに若社長から電話がかかってきた。 「やぁ首尾はどうかな。もう瑞樹くんを見つけられた?」 「……」 「あれぇまだなの? 目星はついているのだろう。ねぇ早く会わせてよ」 「ちょっと待てよ。会って何をするつもりだ? 」 「何って、話をしたいだけだよ。彼からの返事をずっと待っている」 「返事? 」 「瑞樹くんが高校生の頃『付き合って欲しい』と何度も告白したのに拒否されちゃってね。でもきっと考え直すと思って、ずっと待っているんだ」 「アンタ、しつこいな」 「酷いなぁ。警察にまで通報されてこっちはひどい目に遭ったんだよ」 「え……まさかあの時の」  あのストーカーなのか!  函館で会った時よりもヘラヘラした様子の若社長に虫唾が走り、ぞっとした。オレはもしかしてとんでもないことに自ら足を突っ込んでしまったのか。その時になって浅はかな己の行動を呪った。 「そんなの、もう時効だよ。罰金も払ったしさ」 「おい!」 「おっと、そんな口聞いていいのかな。君は僕の片棒だよ」 「明日にはいい報告待っているよ。あっ君に猶予はそんなにないからね。そうだ、もし瑞樹くんと会わせてくれるなら100万円あげよう。今の僕にはその位の財力があるからね。別に瑞樹くんを取って食おうなんて思っていないから安心して、紳士的に付き合って欲しいんだよ。ただ久しぶりにあってゆっくり喋りたいだけだよ。こんないい話はないよね」 「……」  100万だって? そんな大金……参った。とんでもないことに足を突っ込んでしまった。それにしても瑞樹と会わすだけで、そんな簡単に馬鹿みたいな大金が手に入るのか。  揺らぐ心が闇に染まりそうだ。するとまた電話が鳴った。今度は兄貴からだった。 「おい、潤、こんな時間までどこをほっつき歩いていた?」 「何でだよ? 」 「何度か電話したのに出なかったから心配したぞ」 「あーちょっと疲れて寝てた」 「そうか。現場研修って大変なのか」 「あーまーそんなとこ」  まさかこの状況を兄貴に話すわけにもいかないし、頭を抱えてしまった。 「それにしてもいきなり東京研修に抜擢されるなんて、お前頑張っているんだな。応援しているよ」  よく考えたら広い心の兄貴はいつだって本当は瑞樹とオレを同等に可愛がってくれていた。なのにオレが意固地になって、ひねくれていたんだよな。 「サンキュ。何か土産を買って帰るよ」 「そんなのいいから、頑張ってこい。応援しているぞ」 **** 「瑞樹、瑞樹、もう朝だぞ」 「んっ……」    宗吾さんの声で目覚めた。あっそうか僕、昨日は宗吾さんの家に泊まって、芽生くんと一緒の布団で眠ったのか。じゃあこの温もりは芽生くんのものだ。何だか母の布団の中を思い出すな。    夢から覚めても、ちゃんと覚えているよ。  久しぶりに亡くなった母の夢を見ることが出来た。だからなのかとても温かい気持ちになっていた。    明るくて楽しい母だった。いつも僕とナツキを平等に扱ってくれて、五歳で兄になったけれども、母の愛情が片方に偏ることも減ることもなかった。 「あれ、どうした? 頬に涙の痕があるぞ」 「あっあれ? 僕は泣いたのでしょうか」 「うーん、でもいい顔をしているよ。何か夢を見たのか」 「ハイ、実は母の夢を」 「うん? 函館のお母さんの夢を? 」 「あっそうではなくて……」  そうか、僕はまだ宗吾さんに話していなかった。でも今なら素直な気持ちで話せそうだ。 真実をすべて。  亡くなった母の夢のお陰で、僕の心は今とてもリラックスしていた。 「宗吾さん、実はまだあなたに話していないことがあります」

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