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帰郷 38

 後ろ髪を引かれる想いとは、このことを言うのか。  瑞樹が退院するまでずっと傍にいて介助してやりたかったが、そうもいかないよな。  俺にも現実が待っている。芽生のことだって高齢の母をいつまでも頼ってはいられないし、仕事にも責任がある。そんな俺の気持ちを察した瑞樹が「また来てくださいね」なんて可愛らしく送り出してくれたので、胸が一杯になった。  あんな目に遭っても、自分を失うことなく人に優しくできる瑞樹。  そんな彼は、俺のおかげで危機を脱し頑張れたと言ってくれる。こんな俺でも少しは君の人生において意味を成す存在になれたことが素直に嬉しいよ。  外に出ると冷たい木枯らしが吹いていて思わずコートの襟を立ててしまった。どうやら軽井沢の秋は足早に通り過ぎたようで、もう冬本番だ。  振り返り白い病院の二階を仰ぎ見れば、小さな窓先に瑞樹の姿が見えた。  お母さんに暖かそうなカーディガンを羽織らせてもらったようで、俺と目が合うと優しく微笑んで、手をゆっくり左右に振ってくれた。  白い包帯がゆらゆらと揺れている。  怖かったろう。痛かったろう。あんなことに巻き込まれて辛かったろう。望みもしない理不尽な事件に巻き込まれ……男なのに以前執拗に付きまとっていた奴の慰み者になりかけた恐怖は、計り知れないだろう。  俺が傍についていれば、もっと早い段階で救えたのではという後悔が浮かんでは消えていく。だが瑞樹を通して学んだことがある。  哀しみの底には『希望』というものが確かに存在することを、知った。  彼のことが心配で函館から集まった人達の心は温かさで満ちていた。お母さんとの関係も、良かったな。きっと瑞樹のことだから義理の母だからと長年遠慮していたのだろう。10歳の時からずっと我慢したのだから入院生活では沢山甘えられるといいな。そのためにも俺はここにいない方がいい。瑞樹と母の親子の大切な時間に譲ろう。  駅近くまでそんなことをあれこれ考えながら歩いていると、見覚えのある男性が向こうから歩いてきた。  あれは葉山の海で出逢った張矢 洋くんだ。彼は今回の立役者でもある。彼との出逢いがなかったら優也さんとも繋がれなかった。俺がいち早く瑞樹の居場所を掴むのは不可能だった。警察の初動も遅かったろう。本当に感謝すべき存在だ。 「洋くん! 」 「あっ宗吾さん! お久しぶりです」  相変わらず美しい顔だ。でも顔色が悪く心配そうな表情を浮かべている。瑞樹のために軽井沢まで来てくれたのか。 「わざわざ来てくれたのか」 「じっとしていられなくて……突然押しかけてすみません」 「とんでもないよ。瑞樹も君に会ったら喜ぶよ」 「あの……どうですか。彼の様子は? 大まかな事は聞いていますが心配で」 「うん……幸い瀬戸際の所で救い出せた。とにかく瑞樹が頑張って自分の力で振り切って俺の所に戻ってきてくれたんだ」 「そうですか。瑞樹くんの力で……自ら」    洋くんは眩しそうに目を細めた。 「良かった……本当に良かった」  自分のことのように安堵する姿に、もしかして彼も同じような……あんな目に遭ったことがあるのではと勘ぐってしまう。だがきっとそういうことではない。過去に何があったとしても、それはもう過去だ。いつまでも過去に囚われるだけでは前に進めない。  洋くんは前を見つめ、人を想い、今を生きる人だ。上辺だけの綺麗な人ではない。瑞樹のためにこうして息を切らして駆けつけてくれる所からも、ひしひしと伝わってくるよ。  人は沢山の経験をして生き続けている存在だ。  人生には、いい事も悪い事も波のように次々とやってくる。だから今回の事件をただの不運だっただけでは片付けられない。確実に……俺と瑞樹の絆を深め、瑞樹と家族の絆が深まる契機になった。 (瑞樹……俺たちも、洋くんのように今を生きて行きたいな) 「病院の場所は分かる? 」 「あっはい。軽井沢は土地勘があるので大丈夫です」  会釈して通り過ぎようとする彼を引き留めた。 「病院までは少し寂しい道だったからタクシーで行くといい。松本観光のタクシーなら安心だろう」 「……分かりました」  美し過ぎて人目をひく彼は、素直に従ってくれた。 「気を付けて」 「あの、お気遣いありがとうございます」  北鎌倉に残してきた彼氏、ここまで駆けつけさせてくれた丈さんに敬意を払ったのさ。 **** 「お母さん、五歳児って……」 「ふふふ、いいじゃない。病室は個室だし誰も見ていないわ」 「……でも」 「さぁもう一口食べて」 「……はい」  母が楽しそうに笑っていたので、僕もつられてしまった。こんなことをしてもらうのは照れくさいけれども、遠い昔に憧れた光景だった。  引き取られてからの日々。  馴染めたようで馴染めなかった僕が見つめていたもの。  普段元気な潤はたまにいきなり高熱で寝こむことがあった。そんな潤に母が夜通し付き添い、すりおろした林檎に蜂蜜を掛けたものをスプーンで食べさてあげていた。  羨ましい気持ちを必死に押さえつけ、その光景を扉の隙間から見ていたのが少年の僕だ。 (それってどんな味がするのかな……優しい味がしそうだな)  あいにく僕は躰だけは丈夫だったのか、風邪なんてひけないと気が張っていたのか……高熱で寝込むこともなく、そういう機会に恵まれないまま大人になってしまった。    そんなことをぼんやりと考えながらスプーンのお粥を呑み込んでいたら、突然味が変わったので驚いた。  甘くて……優しくて……躰にすうっと沁みこむ味だ。 「えっ……これって」 「お粥はあまり進まないみたいだから、内緒よ」    母は林檎を指差して、にっこりと微笑んだ。 「すり下ろし林檎の蜂蜜がけは、食欲がない時でもこれなら食べられるって潤がよく言っていたの。瑞樹にもずっと食べさせてあげたかったのに……今頃になってごめんね。瑞樹、私、いろいろあなたに謝りたいわ……」        

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